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第五章 蜘蛛の糸はとうに切れている



「少し浮かれてたんだよ」


健太が言った。

誰も答えない。


「母さんが死んで、いろいろあっただろ?」


「そうね」


「だから正常じゃなかったんだ」


「四十九日間ずっと?」


「美咲」


「ずいぶん長い錯乱ね」


健太は唇を噛んだ。


「俺も悪かった」


「何が?」


「だから……」


「何が悪かったの?」


健太が黙る。

美咲は静かに尋ねた。


「私を十年間、家政婦のように扱ったこと?」


「……」


「お義母さんの介護を一度もしなかったこと?」


「……」


「私が介護している隣で、飯が遅いって怒鳴ったこと?」


「悪かったよ!」


「梨奈と一緒に私を笑っていたこと?」


「分かったって言ってるだろ!」


健太の声が大きくなる。

美咲は少し笑った。


「ほら」


「何だよ」


「あなたは変わってない」


健太が言葉に詰まる。


「謝っている人は、怒鳴らないわ」


「……」


「怒鳴れば私が黙ると思っているから怒鳴るの」


「違う」


「同じよ」


美咲はナプキンを畳んだ。


「離婚しましょう」


「待て」


「あなたが言ったことよ」


「取り消す!」


「私は取り消さない」


「美咲!」


「口から出した言葉は戻らないの」


梨奈が急に立ち上がった。


「お母さん!」


美咲は娘を見る。


「何?」


「ごめんなさい!」


涙が浮かんでいる。


「私、分かってなかった!」


美咲はしばらく梨奈を見つめた。


「何を?」


「お母さんが大変だったこと!」


「さっきまで『家にいるだけで楽』って言っていたけど」


「それは……」


梨奈は泣き始めた。


「ごめんなさい!」


「どうして急に分かったの?」


答えはない。

美咲は知っていた。

梨奈もまた、会社と遺産を失うのが怖いだけなのだ。

それでも。

娘だった。

だからこそ、美咲は甘やかさないことにした。


「梨奈」


「うん」


「会社で働きたい?」


梨奈が顔を上げる。


「……働きたい」


「いいわ」


「ほんと?」


一瞬、希望が戻る。


「ただし」


美咲は佐藤を見る。


「佐藤さん」


「はい」


「新入社員として採用してください」


梨奈の表情が固まる。


「新入社員?」


「そう」


「お父さんは企画部に――」


「コネ入社はなし」


「そんな」


「配属も待遇も同期と同じ」


美咲は続ける。


「この子は社会人として何も知りません」


佐藤が頷いた。


「承知しました」


「佐藤さん、この子は一から厳しく鍛えてやってください。私の娘だからと特別扱いする必要はありません」


「もちろんです」


梨奈が泣きそうな顔をする。


「お母さん……」


美咲は言った。


「遺産が欲しいなら態度で示しなさい」


「え?」


「今までみたいに、お父さんに何でも用意してもらえると思わないこと」


「……」


「働いて、自分で生活して、人に頭を下げて、失敗したら謝る」


美咲は娘を見る。


「それができる人間になってから、先のことは考えるわ」


梨奈は俯いた。


「……分かった」


そして。

残るは一人。

健太が青ざめた顔で美咲を見ていた。


「俺は?」


「あなた?」


「会社……」


「退職してもいいわ」


「待てよ」


「それが嫌なら」


美咲は佐藤を見る。


「副社長から外します」


健太の顔が歪む。


「俺は二十年以上この会社に――」


「だったら一社員として会社に貢献できるでしょう?」


「ふざけるな!」


健太は立ち上がった。


「俺は副社長だぞ!」


店員が個室の外で足を止める気配がした。

美咲は静かに健太を見上げた。


「違うわ」


その一言で。

健太は止まった。


「もう違う」


健太の肩が落ちる。


「退職するか」


美咲は言った。


「一社員として残るか」


「……」


「好きなほうを選んで」


健太は椅子に座り込んだ。

美咲は立ち上がった。

バッグを持つ。


「じゃあ、私は帰ります」


「美咲」


呼び止められる。

振り向く。

健太は泣きそうな顔をしていた。


「俺たち……二十年以上、夫婦だったんだぞ」


美咲は少し考えた。

そして答えた。


「そうね」


「だったら――」


「だから二十年以上、我慢したの」


健太が黙る。


「十分でしょう?」


美咲は個室を出た。

扉が閉まる直前。

梨奈のすすり泣き。

健太の荒い呼吸。

佐藤の静かな声が聞こえた。


「健太君」


「……なんですか」


「これからは、会社では私の指示に従ってもらいます」


扉が閉じた。




美咲は一人、廊下を歩いた。

不思議だった。

身体が軽い。


十年間。

いや。

それよりずっと長い間。

自分の肩には何かが乗っていたのだと、そのとき初めて気づいた。


外へ出る。

夜風が頬を撫でた。

美咲は空を見上げた。


「お義母さん」


小さく呟く。


「私、ちゃんと言えましたよ」


返事はない。

それでも。

どこかで和子が笑っているような気がした。

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