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明け待つ芍薬  作者: 烏野 佐枇
2章 日常、盆に返らず
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日常、盆に返らず(3)

 視界が開けた。目が開くと同時に脳内の霧が晴れ、少し明るくなる。


「――っ、和泉っ……」


 ガバリと起き上がった千和は周囲を伺うように頭を動かした。四方は窓のない壁に囲まれている。電気もないため真っ暗だ。寝かされているのは二人掛けのソファらしきもの。これがあることで部屋の狭さが強調される。まるで物置のような部屋だ。


「……痛っ」


 少し遅れて腹部に痛みを感じた。すぐに駐車場での出来事、そしてあの忌々しい男のことを思い出す。あの男、いやあの男たちは一体なんだったのか。これは誘拐だ。れっきとした犯罪ではないのか。ここまで手荒なことは初めてだ。

 少し体を動かすと、他の節々にも重さがまとわりついていた。あれほどの大立ち回りをこなして、身体が悲鳴を上げている。体術に秀でているとはいえ、突然の連戦は体に堪えたようだ。

 だがそんなことも一瞬で頭の中からはじき出した。

 和泉は?

 最優先事項は和泉だ。体術のたの字も知らない和泉があの男の攻撃を受けて、果たして無事なのだろうか。

 守れなかった。どうなった?

 そのことだけが頭を占める。狭すぎるこの部屋にはいるはずがない。

 千和はチラリと横を見た。暗闇で鈍く光る銀色がある。きっとこの壁はドアなのだろうが、上下に隙間がなく光が差し込む様子もない。ドアにしては密閉されているが、ノブがあるなら、開くはずだ。

 千和は息を殺して立ち上がり、壁の向こうに耳を澄ます。音はしない。限りなく静寂だ。

 意を決してノブを捻った。感触から鍵はかかっていないようだ。そのまま回すと、カチャリと控えめな音と共に、壁は抵抗なく開いた。

 暗闇に鋭く光が差す。まぶしさに顔をしかめ、ゆっくり慣らしてからその奥を見やった。

 暖色のライトが部屋を満たしていた。近くにイスと机があり、キチンとした空間があった。ここはどうやら廊下ではなく部屋のようだ。

 人の気配もなく、電気が点いているだけのようだ。千和は少し警戒を解き、ドアを大きく開いた。

 そこは応接室と書斎が合わさったような部屋だった。少し立派な装飾のある机に、座り心地が良さそうな重厚感のあるイス。壁際に備え付けの本棚には本や資料が詰まっている。部屋の真ん中にある二対のソファとローテーブルは来客用に使われそうである。

 情報を求めて本棚に寄った。だがジャンルが多岐に渡り、掴みどころがない。共通点と言えば、やけに洋書が多いことくらいである。文学に始まり、経済書、学術書、さらには英字新聞のスクラップ集まで収められていた。

 とその時、静かにドアが開いた。

 物色していた千和は驚くよりも早く反射的に身構えた。開いたのは閉じ込められていた部屋のものではない、別の方向にある重厚なドアだった。


「――起きたか」


 顔を覗かせ口を開いたのはまたも見知らぬ男。少し見えた肩口からは、男の体格が並ではないことが分かる。


「和泉は」


 千和は開口一番に問いかける。


「弟か。無事だ。今はな」


 強面の男は端的にそれだけ答える。表情はぴくりとも動かない。


「ここにいるの?」

「……ああ、いる」


 千和はさらに睨みを聞かせて問う。


「一体なんなの。和泉に会わせて」

「ここで待て。今、若が来る」


 終始表情を崩さなかった男は、それだけ言うとぴしゃりとドアを閉めた。続いて鍵の閉まる音。

 男が去って、再び閉じ込められた千和は息を吐き出した。これまで不可抗力的にではあるが、幾人もの手練れと手を合わせてきた。それ故、相手を前にして、その力量を図る精度は高いと自負している。だからこそ、今の強面の男の一切揺らぎない様子を前に、珍しく緊張した。

 現状に進展はないが、和泉が無事という情報を得ることができた。千和はこの部屋を突破しようと再び物色を始めた。

 しばらくして、待ちわびた開錠の音が響く。開いたドアから再びあの男が入ってきた。だが今度はドアを大きく開いた。そして、まるでドアマンのようにぴしりと居直る。少し頭を下げたかと思えば、別の影が視界を横切った。


「…………っ!?」


 それを見るなり、千和は息を飲んだ。全身の血が一気に引いて騒ぎ立ち、心臓がいやに鳴り出した。まるで目眩のように目の前がパチパチと閃光して暴れ出す。


「手荒な真似をしてすまなかった、染原さん」

 目の前にやって来た男の端正で形のいい口がゆっくりと日本語を奏で、千和の名を呼ぶ。


「な、んで、京月先生……」


 やっと絞り出した声に呼応するよう、京月はいつもの調子でにこっと微笑んだ。その目尻に寄るシワの優しさは前に見たのと同じだった。

 千和が傾倒する英語学の准教授、京月仁がそこにいた。普段の講義と変わらぬ佇まいで、爽やかな笑みを湛えている。さらに彼は大学で見かけるのと同じ質のいいスーツ姿である。会うはずのない場所で、どことも知らないこの場所で彼は我が物顔で振舞っている。千和の喉は驚きのあまり仕事を放棄した。


「さ、まずは座りなさい」


 固まったままの千和を、仁は応接用のソファへと誘う。急かすような視線を感じ、千和は痺れる足を何とか動かしてソファに沈んだ。


「先日の授業も熱心に聞いてくれていたね。中間のレポートとして少し込み入った題材を出してしまったけど、問題はなさそうかな?」


 君たちなら大丈夫そうだけどね、と教室で話しているかのようにごく自然と問われる。あまりの混乱に千和の頭は錯覚を起こし始める。


「先生……」

「ん?」


 千和はどうにか声を絞り出す。掠れてしまって、なんとも覇気の無い声色だ。


「先生は、一体、何なんですか」


 酷くアバウトで的を得ていない質問だと千和も理解していた。しかし何から聞けばいいのかすら判断できない状況で、頭を巡らせる余裕などなかった。

 すると彼はふっと笑みを零した。泣く子をあやすかのように、人を安心させる眼差しだった。


「君の知る京月仁は間違っていない。英語学や英文学、人生を豊かにする教養を教える帰国子女の大学准教授だ。でも、実はもうひとつ、隠していた少し特殊な家業があってね」


 京月は授業と同じ口調で朗々と語り始める。


「社会学部の君ならよく知っていると思うよ。モガリ、という存在をね」


 モガリ……と口の中で繰り返す。理解が追いつかない中でも、蓄えた知識は沸き上がる。彼の言う通り、社会学部の講義では何度も扱う題材だ。しかもそれ専門の講義科目が設定されているくらいには学問的にも注目されている存在。千和は促されるでもなく、言葉を並べ始める。


「この社会に根付く、あらゆる分野を取り仕切る国内で最大の権力者集団。莫大な財を築き、欲のままに生きる超上流階級。全てが合法な彼らは、この社会にとって経済を回す重要な役割であるとともに、懸念材料でもある……」


 数週間前に和泉と共にレポートでまとめた内容である。


「ああ、そうだ」


 そして京月は正解を出したときのように褒めるような笑みを浮かべた。


「そのモガリが、なんなんですか。一体なんの関係が?」

「染原さん、俺の名前はご存じかな?」


 質問を返され、「京月仁、先生」と戸惑いながら答える。他の教授のフルネームなど知らないが、彼の名前だけは記憶していた。


「そうだ。では京月、という名字に聞き覚えは?」


 言われて、一瞬の思考の後、和泉がまとめていた資料の一部が思い出された。そして小さく息を飲む。


「京月……京月組? まさか……」


 その資料は国内の有力モガリをリストアップしたもの。それぞれの名前、会社名称、掌握分野、下部組織に至るまでよく調べられていた。

 そこには確か、この名前も――


「そう。俺は京月組、そこの若頭だ。いわゆる二代目。現役の当代で、初代は俺の父。ゆくゆくは京月組を継ぐ。大学での教授職はそれまでの羽休めといったところだ」

「そ、うですか……」


 驚愕の事実を告げられ、ろくに言葉を継ぐことができない。だがどこか冷静な自分もいて、千和はそんな自分を情けなく思う。


「意外と驚かないんだね」


 京月は千和の様子にわざとらしく目を丸くする。


「驚いていますよ、十分……でも一気に、情報量が多くて、何がなんだか……なんで私を連れてきて正体を明かしたんですか……それに、和泉は」


 ただ頭に浮かぶ言葉をそのまま口に出す。おおよそ身分に見合わない稚拙なものだが構ってはいられない。すると京月は憐れむような目を千和に向けた。


「君はいつもそれだね」

「え……」

「大丈夫、彼に手荒なことはしていない。今は別室にいるよ。君がある条件を飲んでくれさえすればそのまま二人で、いつも通り無事に帰ることができる」

「……どういう意味ですか」


 どこか含みのある様子に千和は訝しさを感じて目を細めた。

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