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明け待つ芍薬  作者: 烏野 佐枇
最終章 さざめく色風。そして
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さざめく色風。そして(2)

 ようやく二日が経った。千和にとっては無限に感じるほどの時間だった。だがそのお陰か否か、婚約者問題の熱もあらかた冷め、千和は落ち着きを取り戻していた。

 この日も鷲田の車に乗り込むと、無言の移動が始まる。鷲田も例の騒動は知っているだろうに、特段話しかけてくるような様子はない。

 いつもの道を辿って到着した京月邸は、相も変わらず存在感がある。それでもどこか懐かしさすら感じてしまっていた。

 鷲田の先導で仁の部屋へと赴く。静まり返った廊下を進むごとに、千和の緊張は限界を超えそうだった。


「若、お連れしました」


 ノックの音さえ千和の肩を震わせる。ここまで来たら戻ることはできない。千和は短く深呼吸をして、部屋に足を踏み入れた。


「失礼します」


 背後でドアが閉まった。鷲田がいなくなった空間で、千和は仁と二人きりになる。


「……話があると聞いた。ボディーガードの用事がないのに鷲田を使い、わざわざ来るほどの話だと」


 デスクにいる仁は書類から目を上げない。書類に向かって話しかけられた千和は、ゴクリと生唾を飲んだ。


「それは……すみません」


 いささか圧の強い出だしに千和はしゅんと小さくなる。これまでで自ら声をかけたのは初めてだった。あまりに思い上がった行動だったかもしれないと、冷や汗が止まらなくなる。


「そんなに小さくなるな。別に、なにも怒ったりはしていない」


 そんな千和を見かね、「少しからかっただけだ」と仁は困ったように笑った。

 一息ついてティーカップから紅茶をすする様子は優雅で、まるで映画のワンシーンのようだった。

 すると、不意にパチリと目が合ってしまった。見ていたのがバレた千和は、バツが悪く慌てて目を逸らした。


「さて、掛けるといい」


 おもむろに立ち上がった仁は、千和を応接用のソファに促す。それはいつの日か和泉と共に座ったソファで、遥か遠い昔のように思えた。


「あれ以降、ゆっくり休めたかな?」

「は、はい……おかげさまで。仁さんのレポートもなんとか出せましたし」


 さらわれたなんだと言っても、課題の締切は待ってはくれない。大学生の辛いところだと身の上を恨みながら、千和は自室にこもってレポートを仕上げたのだった。


「目を通すのが楽しみだよ。近頃は本業が忙しくて、あまりそちらに手が回っていないのが申し訳ない」


 いえ……、と千和は言葉を濁した。

 本業が忙しいというのは、回り回って千和のせいでもある。そして世間話から足を一歩踏み入れようとしているのを肌で感じて、千和の心臓はうるさくなる。


「……その様子だと、世間のニュースは目にしているようだね」

「それは……はい。翌朝から常にその話題で持ちきりですから」


 少し目線を外して話す千和の様子を、仁は興味深く観察した。

 目が合わない時は、彼女が緊張、困惑している時。膝の上で握りしめられている拳は、感情が昂っている印。そしてほんのりと染まる熟れた頬は、気持ちが芽吹いた証。

 そのどれもが手に取るように分かって、仁は無意識に頬を緩める。そして最後の仕上げを施すかのように口を開いた。


「加美山についてだが、千和にはあくどい事をした。常軌を逸しているとも言える。君の雇用者として、許せる範疇ではない。だから立件にまでこぎつけた」


 淡々と語る仁に、千和はゆっくりと頷いた。


「だがその代償として、千和を解雇することが決まった」

「……。え」


 唐突なことに、頷きかけた首が止まった。

 言葉もない。意味が分からない。思わず息が浅くなる。

 望んで就いた仕事ではないとはいえ、彼の役に立てていると思えば悪い気はしていなかった。傍にいられる時間は、密かに胸が踊る時間でもあった。

 それが今、音もなく崩れて途切れてしまった。


「急なことで申し訳ない。理事会の決定でね。君は目立ちすぎると」

「そう、ですか……」


 この組の理事会に意義を申し立てるほど、千和だって無謀ではない。仁のボディーガードとはいえ、しょせんその程度である。無力な者は上に従うしかない世界だ。

 不思議な喪失感が胸に広がっていた。まるで割れた花瓶から水がこぼれ出るようであった。


「それと、お詫びと言ってはなんだが一つ提案がある」

「……はい」


 千和が上の空で返事をすると、仁は不意に立ち上がった。一度デスクに戻ると何か小さいものを手に戻る。それは以前も見たような薄紫色の箱だった。

 あれ、と千和が考えるよりも早く箱が開けられて、思わず目を見張った。そこには加美山に奪われたあの指輪が入っていた。


「染原千和、私の妻にならないか」

「…………は、え?」


 そう告げた様子はまるで日常会話の一部のようで、何の変哲もなかった。

 千和は純粋に戸惑って仁を見返した。

 今、なんて言った?

 彼の言葉が脳内を木霊するが、右から左へ、ただ流れていくだけだった。一体どういうつもりなのか、千和には全く理解できなかった。


「前にこれを渡した時、時間がかかったと言ったが、それは特別に仕立てたからだ。それと、この指輪にまつわる話は嘘だ」

「嘘……」

「京月組の女云々の話だ、あれは虚構、作り話。あんな下世話な話は存在しない。つまり、これを持つ権利があるのは千和だけだ。まったくのオリジナルだからな」


 千和は言葉に詰まってしまって、ただ口をパクパクさせることしかできない。指輪と仁を交互に見やる。


「ここで即座に返事をしろとは言わない。考えるべきことは少なくないだろう。もし心が決まれば、もう一度俺のところに来て、返事を聞かせてほしい」

「……えっと……その、わかりました……」


 千和はとりあえず頷いた。頷くしかなかった。

 ここで仁の言葉を振り切れるほど無欲ではなかったし、即決できるほどの度胸も持ち合わせていなかった。

 おずおずと箱を受け取って、そのまま指輪をじっと見つめる。

 以前受け取ったあの時と、輝きは色褪せない。例の狂人に触れられたのは気に食わないが、きっとクリーニングなどしてくれているのだろう。新品のように照明の輝きを乱反射させている。


「それと、千和からも話があるんじゃなかったか?」


 千和はハッとして肩を揺らした。衝撃の大きさでとっくに忘れていた。

 思わず顔を上げると、仁はいたずらっぽく目を細めていた。


「そんなに見つめていると、指輪に妬いてしまう」

「す、すみません……」


 目のやり場も失って、千和はとりあえず俯くしかなかった。そっと指輪の箱をテーブルに置いて、居住まいを正す。

 そこで千和ははたと気がついた。

 プロポーズまでしたということは、少なくとも仁は自分に好意があるということだ、多分。

 これまで彼からそういった慕情の話を聞いたことはなかった。

 考え始めたら止まらない。混乱する頭では、千和は己の湧き出た欲がただ溢れるだけだった。


「……純粋な疑問なんですけど、仁さん私のこと好き……なんですか?」

「女性として魅力的だと思っているよ」

「好き、ではなく?」

「こだわるね、その言葉に」


 困ったように微笑んだ仁に、千和は小さくなりながら微かな声で呟いた。


「結婚とか恋愛とか……好きなもの同士がすること、じゃないんですか」


 その発言がいかに自分が幼稚で経験がないかを露呈させているのは百も承知だった。その事実を客観的に感じ、羞恥で消え入りそうだった。しかし、ここまで来てしまえば、聞かずにはいられなかった。


「好意を伝える言葉は幾千とある。もちろん『好き』という言葉も真っ直ぐで嘘偽りない感情だ。しかしながら、そうだな――」


 すると仁はおもむろに立ち上がる。スマートな仕草で千和の傍に寄ると、片膝をついた。千和は思わず背筋を伸ばした。


「俺の隣で、これからもずっと。咲き誇ってほしい」


 そして指輪を取り出すや、千和の薬指にそっと嵌めた。

 細くしなやかな指は素直にそれを受け入れる。その手つきは感じたことのないほどに優しいものだった。


「これでもまだ、足りないかな?」

「足りなく……ない、です……」


 言葉だけではない。触れた手から伝わる慈しみにも似た感情に、千和ははじめて出会った。

 心が震えるって、本当にあったんだ。

 千和は意識の外でそんなことを思った。これまでの人生で、これほどに愛されたことはなかった。親にも、異性にも、真っ直ぐな愛情を向けられたことはなかった。

 ぼんやりと左手の薬指を見つめる。指に馴染んで、二度と外れないのではないかと思うほどだった。


「指輪、よく似合っている」

「…………」

「さて、これからは大手を振って、千和を口説くことができるというわけだ」

「くどく……口説く!? 私を、ですか?」

「他に誰がいるんだ?」

「…………」


 千和の脳内はもうキャパオーバーだった。返す言葉も見つからない。すると仁は自嘲気味に笑った。


「何度かジャブも打ったのに、君は鈍感というかなんというか……少し自信を無くしたくらいだ。今回は伝わってくれて嬉しいよ」

「すみません……」

「はは、そんなところも愛らしい」

「――っもう、あの、限界です……! とりあえず今日はこの辺りで……っ」


 仁が放つ最後の一言は、やはり余計である。

 おかげで千和は全身汗だくになっていた。感情のキャパシティが許容範囲を超えた。


「また、日を改めて……」

「そうか、それは残念だ。あぁ、じゃあ最後にひとつ」

「はい……」

「ニュースで『婚約者』と報道させた件だが、あれは俺が指示した」

「えっ……あれ仁さんなんですか!?」


 千和は真犯人の登場にこれでもかと目を丸くした。この人には終始驚かされてばかりで、もはや呆れそうなほどだった。

 しかし当の本人はまったく悪びれる様子もなく、いつも通りに飄々としている。

 あのニュース一つで自分がどれほど感情をかき乱されたか。目の前の男は知る由もないのだろう。

 もちろん今もそうなのだが、好き勝手に心を弄ばれている気がして千和は口を尖らせた。


「まぁそう怒るな。加美山の息が強くかかっていたマスコミを掌握することができたからな。そうする方が今後に有利だろうと思って」

「……そのニュース、今、仁さんから直接聞く前に耳に入ってたんですけど」

「それはすまなかった。気持ちが先走ったということにしておいてくれ」


 柔らかく微笑まれてしまえば、千和はそれ以上何も言えなかった。

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