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明け待つ芍薬  作者: 烏野 佐枇
7章 深淵の痕、蕾の萌し
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深淵の痕、蕾の萌し(5)

 そして懐かしささえ感じる仁の部屋に通された。

 しかし、ノックする手が少し躊躇いを持つ。

 彼はなんて出迎えてくれるのだろうか。

 薄らと気づいた自分の気持ちにもまだ向き合えていない。こんな時なのに、顔を合わせるのが気恥ずかしかった。

 千和は仕方なく深呼吸をして、ドアを叩いた。


「失礼します……」

「――千和、無事で何よりだ」


 一瞬、千和の姿を見た仁が息を飲んだ気がした。その理由は千和には分からなかった。

 だが、間髪入れずに席を立ち、普段より大股で近づいてくる仁を見て、報われた気分になった。千和の心はそんなことで瞬間的にほぐれる。


「……和泉くんか?」

「あ、は、はい」


 仁は千和の気持ちを察したように口を開いた。千和は少しハッとしてぎこちなく頷いた。


「彼には何も危害はない。君が攫われた後、真っ先に俺に連絡をくれた。姉弟して聡い。おかげですぐに動けた」


 千和はその報告にほっとため息をついた。無事ということはきっと家にいるのだろう。和泉も和泉で千和の身を案じているに違いない。買い物終りに自分の姿を探す弟を想像して胸が苦しくなる。


「――ところでその服装」


 仁が控えめに口を開いた。そういえば抜け出したドレスのままで、元々の私服ではない。改めて自分の姿を上から見て、千和は顔をしかめた。


「ああ……あの変態に着せられたんです」


 思いのままに、つい愚痴っぽく呟いた。本当に不快だったあの時間が思い出され、背筋に悪寒が走った。


「そうか、加美山にしてはいいセンスじゃないか」

「えっ……私としては加美山のチョイスって事実が既に嫌というか」

「じゃあ代わりに俺が褒めようか?」

「え、なんで――」

「似合ってる」

「あ……りがとう、ございます」


 聞き間違いかと思う言葉に口がもつれ、反射的に顔を背けた。そんなことを言って、一体どういうつもりなのか。積もった気持ちを煽るような言動はやめて欲しいと思う。

 すると仁は千和のとある一点をじっと見つめた。千和もその視線に気づかないほど鈍感でもない。無視することもできず、おずおずと口を開いた。


「何か、ついてますか」

「首、どうした」

「首? ……ああ、絞められただけです、あいつに」

「抵抗しなかったのか?」

「しましたよ、もちろん。でも手塞がれてましたし」

「そうか……すまなかった」

「……なんで仁さんが謝るんですか。謝罪なら、加美山から――」


 仁は無言で静かに千和に近づいた。そしてゆっくりと腕を伸ばし、千和の首筋に触れた。それはまるで怖がらせまいとしているようだった。

 仁の指が赤く残る忌々しい痕をすっと撫でる。千和はあまりの出来事に押し黙った。


「あいつの感触が残ると、嫌だろ?」

「え、ええ……まぁ……」


 加美山とは異なる優しい手つきに千和は自然と力が緩んでいくのを感じた。まるでそれは、許しを乞うているかのようだった。

 温かくはない、冷たい手だった。しかしそれが心地よい。


「綺麗なまま戻ってくれて良かった」

「……色々と、覚悟は決めていたんですよ。抜け出すために」


 千和はぽつりと呟いた。本来はそんなことを伝える気はなかった。しかしつい口からまろび出た。それは己の葛藤と孤独な戦いを知ってほしかったからである。

 すると仁は慈しむように顔をしかめた。


「……辛いことを考えさせてしまったね」

「でも、きっと仁さんが助けてくれるかもって思ったりもして……」


 言葉は尻すぼみになっていく。言ってる最中に気恥しさが込み上げたのである。

 仁はあまりに労しい千和の様子に、ため息をつきそうだった。監禁の中で彼女が何を考え、何を感じたのか。そして、自分へすがることを諦めなかったという事実。仁の心の震えはひとしおのものだった。ふっと口もとを緩めた。


「頼ってもらえるのは、嬉しいものだな。危ない目に遭わせてすまない」

「……でも、私はあなたのボディーガードですよ」

「今回のはボディーガードとはまた別の危険だ」

「それは……確かにそうですね」

「京月組若頭のものに手を出したんだ。相応の報復を与えるさ。たとえ加美山でも」


 千和から仁が離れた。最後のひと撫でが名残惜しかった。徐々に消えていく仁の体温が寂しかった。


「明日は呼び出さない。ゆっくり休むといい」

 仁はドアに手をかけた。ドアの向こうには鷲田が待機していた。家まで送り届けてしてくれるのだろう。

「仁さん……」

「ん?」

「……いや、なんでもないです。おやすみなさい」


 思いの丈を口走りそうになって、すんでのところで思いとどまった。手短に挨拶をして、千和は逃げるように仁の部屋を出た。

 車内はいつも通り無言の空間だった。鷲田はただ通い慣れた道を走る。

 千和は車窓を流れる街並みをぼんやり眺めていた。たった一日ほど囚われていただけで、こんなにも外の景色を美しく思えるとは。これまで何も感じたことがなかったゆえに、新鮮な気持ちだった。


「染原」

「は、はい」


 車内が赤灯に照らされた時。鷲田が不意に口を開いた。


「お前は、もう空っぽなんかじゃない」

「……え」


 千和は唐突なことに目をぱちくりと瞬かせた。まさか鷲田からそんなことを言われるとは思ってもみなかった。


「えっと……どういう……?」

「気づいているならば、真っ直ぐ進め」


 千和の困惑はなおも深まるが、信号が変わり、それ以上の追求は出来なかった。

 気づいているならば。

 その言葉が千和の中でぐるぐると回る。思い当たる節は、なくはない。それに向き合う心の準備ができていない。

 頑固一徹のような鷲田が言うことである。寡黙だが、彼が放つ一言には力を感じていた。千和としても無下にする気はなかった。

 千和は再び光るネオン街に目をやった。チカチカと明るく、欲の塊を吸い寄せる光ばかりだ。

 その中で自分はきっと、暗がりで光に背を向ける存在。

 確かに、目立つかもしれない。

 千和はようやく己の立場に気がついた。漆黒のように光を吸収し、他者を脅かさない唯一無二の存在。それが自分。

 仁も加美山も、ネオンの中心にいるから暗がりを求める。それが自分。

 はぁ、と千和は小さなため息をついた。

 空っぽなのは空っぽだ。和泉を護る理由は、未だに分からない。だが一方で、育てあぐねていた淡い蕾は少しだけ成長した。時間をかければ綺麗に咲くだろうと予測できるまでに成長した。

 それがきっと、鷲田さんの言いたいこと……。

 千和は自分なりに噛み砕いた言葉を飲み込んだ。

 やがて車は馴染みの家へと到着する。時刻は二十三時を回り、日付も変わりそうな頃だった。

 返却された荷物から鍵を探り当てる。カギが回る音を聞きつけたのか、ドアの奥がバタバタと騒がしくなる。

 カギを引き抜くのを待たず、ドアがグッと押し開けられた。思わず仰け反った千和と血相を変えた和泉がようやく顔を合わせた。


「千和大丈夫!? 何があったの!?」

「和泉……落ち着きなって。家入らせて」


 和泉の慌てっぷりに、千和は少し笑いを零した。

 あぁごめん、と和泉はようやく引っ込んだ。


「私がいなくなったって、仁さんに教えてくれたんでしょ。ありがと。助かった」

「それはもう……千和がいなくなるなんて俺にとっちゃ一大事だし」


 改めて時間を計算してみれば、監禁は半日だったと判明した。そのいやに濃密な時間は千和の脳裏にこびりついている。


「まぁ、そうだよね。でも、和泉に何事もなくてよかった」

「俺は大丈夫だよ。買い出しもその後も何も無かったから」


 そ、と千和は安堵した。そしてここまでの長時間、和泉から離れたこともなかったのである。不安がようやく解消される。


「……疲れてるでしょ。お風呂湧いてるよ」

「気が利くねぇ。じゃ、ありがたく」


 千和はお言葉に甘えて、そのまま風呂に向かった。不快な出来事全てを一から十まで洗い流したい気分だった。

 身支度を全て片付けると、千和は部屋に引っ込んだ。和泉は例に漏れず事情を聞きたそうな顔をしていたが、また明日ねと振り切った。

 馴染んだベッドは優しく千和を包み込む。布団に潜り込んで、ようやく安息地へ戻ってきたと実感した。

 程なくしてまぶたが重くなる。頭が回らないのは疲労のせいだが、それはそれで構わなかった。

 何も考えずに眠れることのなんと幸せなことか。いつぶりの安眠だろうかと、千和は迫る睡魔が待ち遠しかった。


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