深淵の痕、蕾の萌し(4)
どのくらいの時間が経っただろう。部屋には時計も窓もない。この嫌味な部屋で過ごしたのが何時間にも何日にも感じる。
すると、扉の開く音がした。加美山かと思って身構える。
しかし見えたシルエットは違った。
「溝田……さん?」
なんでここに、と呆けた声が出る。
「や、染原ちゃん」
軽薄でヘラヘラ笑いが特徴の因縁の相手、溝田がそこにいた。それはここでも健在で、今の千和にとっては少し懐かしさすら感じるものだった。
「素敵なドレスだね。それで動けるの?」
溝田は唖然としている千和に普段と変わらぬ様子で話しかける。千和の様子を観察する溝田の目にいやらしさはない。千和はそれが嬉しかった。
「どっちにしろ、多少は動けないと困る。さ、行くよ」
そう言うと、溝田は踵を返してすぐにいなくなった。手を離された重い扉はゆっくりと閉まりはじめる。千和は慌てて溝田を追った。
「若、染原を見つけました」
追いつくと、廊下の端で溝田が電話をしていた。先程の軽々しい様子とは真逆である。彼が唯一真面目になる相手はただ一人、仁しかいない。電話口の奥に彼がいると思うと、千和の心は不意に熱く焦がれた。
「――ええ、では手筈通りに」
電話を切ったらしい溝田は「はいこれ」と自分のジャケットを千和に渡した。
「腕、防御力ゼロはかわいそうかなって。自分の身は守れる?」
「……銃が出てこなければなんとか」
千和はジャケットを借りてまとった。袖が長い。何回か捲ってサイズを合わせた。
建物を溝田について進む。京月邸のような屋敷というよりは、オフィスのような無機質な空間だった。誰かと会う様子もない。
端々に見える窓から今が夜なのだと分かる。とすると、囚われていたのは一日くらいだろうか。
「向こうの窓から外に出るよ」
何度か階段を下りた後、そう指示される。大きなスライド式の窓の前にはロッカーが置いてあって、それが良い足場になりそうだ。
物音を立てないよう、そっと移動する。ロッカーがあるおかげで、足の自由が少ないドレスでも楽に乗り越えられた。溝田も足場になって助力してくれた。
トンッ、と芝生の上に降り立つ。
外の空気だ。
もうとっぷり日は暮れているし、雨は止んでいた。芝生が少しぬかるんでいるのが、和泉と出かけていた名残を物語っていた。
千和はやっと一息つく。
「……溝田さん」
「ちょっと待ってね、油断していいのはもう少し先」
暗闇に紛れるよう、敷地内の街灯を避けて移動する。ここで漆黒のドレスが役に立った。不気味なほどに人気がない。
しばらく行けば芝生の庭を抜けた。硬い地面を触ったところで、自分が裸足だったことを思い出した。
「あ、それ歩ける?」
溝田は少し目を見張って言った。
「……少しなら」
「うーん、じゃあはい」
すると溝田はしゃがんで腕を差し出した。千和はつい目を丸くする。
「えっ」
「抱えてあげる。少し歩くから、多分その足じゃ無理。若からは早く戻れって言いつけだからね。攪乱も長くはもたないし、ほら早く」
「……分かりました」
千和は溝田の細い腕に腰かけ、首元に腕を回した。タイトドレスでは後ろに乗れないと配慮した上でのことだろう。
しばらく揺られていると、闇に溶ける黒い車が姿を現した。停車した車内に下ろされ、本当にやっとの思いで一息ついた。懐かしの車だ。
「今回は災難だったね」
素早く隣に乗った溝田もふぅと一息ついた。こういった隠密行動もお手の物のようで、疲労の表情は一切なかった。
「あの、私全く意味が分かっていないんですけど……」
一息ついでに、千和は遠慮なく問いかけた。現時点では加美山に攫われたということしか理解していない。なぜ助けに来れたのか、加美山はどこに行ったのか。そして、和泉は。
疑問は山のようにある。
「お分かりの通り、君を攫ったのは加美山。この世界のタブーを破った。他人のものを無断で引き抜くっていうね。で、ここに迎えに来たのは若の指示。明日、加美山は本格的に潰される。結構な大ごとになるから、大事な人材が巻き込まれないようにってせめてもの配慮だろうね」
重宝されてるね、と溝田は無神経にも流し目を送った。
「ちなみに、加美山組の面々は今グループ企業に集ってるよ。創業のパーティだとか。ほどよく酔いが回って、気持ちよく君に会いに行くつもりだったんじゃないの?」
溝田の話を聞いて千和は眉をひそめた。
人ひとりの自由を奪っておいて自分はパーティ。本当にくだらない人間である。千和は心の底から加美山を軽蔑した。
「……和泉は?」
「やっぱりそれなんだね。染原くんは何事もなく無事だよ。今から一旦屋敷へ向かう。詳細は若にお聞きな」
夜に溶け込むようにしばらく走った車は、やがて京月邸へと到着した。車を降りるなり使用人に靴を渡され、千和はようやくまともに地を踏んだ。




