深淵の痕、蕾の萌し(3)
「――染原嬢」
しばらくして、再びドアが開いた。加美山はゆったりと室内に足を踏み入れる。千和は動くことなくベッドに腰掛けていた。
「打って変わって、大人しいものだ。ドレスは気に入らなかったかね?」
「……麻の寝間着を着ていた方がマシ」
千和は口先の抵抗を諦めていなかった。せめて気を紛らわそうと、かつて彼と交わした言葉を引き合いに出した。すると加美山はふっと鼻を鳴らす。
「まるで若頭のような、文学的な言い回しだ」
「…………」
「おや、図星かね」
ニタリと笑う顔を目に入れたくなくて、千和は終始顔を背けていた。
「……それにしても京月の若頭は君を相当気に入っているようだね」
その言葉に千和のまぶたがぴくりと動いた。すると加美山は目を細めて言う。
「その証拠に、こんなものまで」
加美山が手元を遊ばせる。開いた手の中には、千和の指輪がコロンと横たわっていた。
「抜け駆けはよくないと思わないかい、染原嬢? こんな幼稚なマーキングで……君という華は競い、奪ってこそ輝くのに」
千和は密かに手を握りしめた。
マーキングと言われた。確かに、そうかもしれない。
だがそれは、千和が仁にもらったプレゼント。その事実は変わらない。秘めたい思い出を弄ばれるのは不快極まりなかった。それが特に、相手が加美山ならば。
「返して」
静かに、だが語気は強まった。
すると加美山は、指輪を手の中にすっと隠した。
「残念ながら、それは難しい相談だ。君はもう私のものだからね。こんなものを着けることは、許さない」
そして加美山の顔から表情が失せた。なんの感情もなく、ただ千和を見据えている。
かと思えば頬を緩めて、千和をじっとりと見つめる。
「とはいえ、君の若頭への気持ちには目を見張るものがある。ぜひとも、その柔らかな感情を私にもわけてほしいものだ」
千和は無意識に目を伏せた。
そんなことを言われても、自分の感情などよくわからない。勝手に憧れているだけだ。歳上の仁が自分をどう思っているかなんて知らない。腕っぷしが強くて見た目も悪くないからそばに置いているのだろう。
本当は、そんな風に思いたくないのに。
加美山を通して仁への気持ちを知る度に、千和は追い込まれていった。
仁の存在にすがりたい。
だが、応えてくれる彼を想像できない。
彼の本心が、わからない。
「あぁ、労しい」
千和の思考に割り込むようにして、加美山はわざとらしく嘆いた。そしてその隣にそっと腰を下ろす。
「だが私の前で、そしてベッドの上で、他の男の話題はタブーだ。わかるだろう?」
唐突に加美山の手がにゅっと千和の首に伸びてきた。千和は驚いて身を引くが、避けきれずに接触を許す。
「素敵な首輪だ」
加美山の冷たく乾燥した指が千和の首をなぞった。背筋に悪寒が走った。そこは先ほど絞められた場所で、痕になっているのだと暗にわかった。
「今日はもう遅い、休みなさい。それとも、私を愉しませてくれるかな?」
「っ……さっさと出て行って。今なら蹴りは我慢してあげる」
キッと睨んだその視線さえも加美山は食むようにして味わった。
やがてドアが閉まり、静まり返る室内。
加美山の醜悪さには際限がない。
だが手の拘束も外れた今、脱出の可能性は高まった。懐柔し、隙をつければ、もしかしたら……。
千和は覚悟を決めろと自分に言い聞かせる。
だがついて出るのはため息ばかり。あんなこともこんなことも、これが仁さんならと想像してしまう逃避の気持ちが止まない。
私、仁さんのこと好きなんだな……。
千和は考え疲れていつしか微睡んでいた。そして、そんな簡単なことにようやく気がついた。




