深淵の痕、蕾の萌し(2)
「…………っ」
しばらくして目が覚めた。
吹きかけられたもののせいだろうか。頭が少しクラクラする。いくばくか前にも似た経験をした気がする。なぜ短期間でこうも同じことが起きるのかと千和は半ば呆れてため息をついた。
周囲は瀟洒な造りの部屋だった。そして自分は雲のような反発あるベッドの上に寝かされている。偶然ながら、昨日見たような天蓋付きだった。
気味の悪さに顔をしかめる。
こんな手荒な真似をするのは京月組ではない。第一こんなことをする必要もない。ということは、現在の宿敵である加美山が有力な犯人だ。連日の仁との行動に業を煮やしたのだろうか。そうならばある意味喜ぶべきことなのかもしれない。
ひとまずベッドを降りようとして気が付いた。両手に自由が無い。小さいのに重量がある手枷だった。
「わざわざご丁寧に……あれ」
そしてよく見れば指輪も見当たらなかった。勝手に外されたのだろう。
はぁと再びため息が出る。となれば、きっとスマートフォンなど持ち物諸々も取られているのだろう。まさにわが身一つというやつだ。
十畳ほどのこの部屋には、ベッドのみがど真ん中に置かれていた。他の家具がないことで広さが強調され、一層不気味だ。助けを求められるような窓もない。一体何をするための部屋なのか。
足も靴と靴下を脱がされ、裸足にされている。幸い足が自由なので部屋を歩き回ってみることにした。床には高級そうな足触りのいい絨毯が敷かれていた。
部屋を探索しながらも、和泉を案じる心は消えなかった。あの後一人でどうしただろう。さすがに緊急事態だと気が付くはず。あとは和泉の危機管理能力に任せるしかない。
これ以上考えても焦燥感に心がすり減るだけだ。
そして千和は唇を噛んだ。壁に二つ、ベッドの脚に一つ、天蓋の柱に一つ、監視カメラを見つけた。流石に壊せる雰囲気ではない。常にどの角度からも監視されているようで、死角がない。このカメラの奥に誰がいるのか、どんな顔でこちらを見ているのか。それはもはや想像に難くなかった。
唯一あるドアには鍵がかかっている。というより、そもそも内側にドアノブが無かった。簡単に出すつもりはないようだ。
このいかにも監禁用の部屋の中で一体どうするべきか。千和はどうしようもなくなって天蓋を見上げた。
そして嫌なことに気が付いた。毒々しい赤の天蓋の中心に不釣り合いな黒い丸があった。立ち上がってみると、なるほど、カメラだ。部屋中に仕掛けられているのと同じ監視カメラ。隠す気もなく堂々としたものだ。こんなところまで映しだそうとは、趣味の悪さに口も曲がる。
手持無沙汰に知恵の輪気分で手枷をいじる。もう半ばやけを起こしそうだった。優しく、激しくいじるが外れたりはしない。なぜなら、これは知恵の輪ではないからである。
すると微かに無機質な音が聞こえた。そして壁に少しの隙間ができた。外へ繋がる鍵が開いたらしい。カチャという馴染んだ音ではなく、電子的な、耳馴染みのないものだった。
千和は瞬時にベッドを降り、身構える。今は足だけが頼りだ。地面にいた方がいい。
ドアが開いて現れたのは、やはりというか、加美山だった。以前に見たまま、豊かに蓄えたひげと皺のない鋭い眼光。ゆとりなくきっちり着たスーツが威厳を醸し出している。
「美しいお嬢さん、ようこそ我が屋敷へ」
年の割に若い声で加美山が言う。千和は憎々しさを隠そうともしないで睨んだ。
「私は望んでないんだけど」
「私が望んだのだ。だから君がここにいる」
「随分自分勝手なこと」
「この世界は既成事実が全てなんだ。意志も手段も順序も、結果となる事実には劣る。まさに今、君は私の手の中にいる。この事実が大切なんだよ」
加美山はにたりと満足気に笑んだ。歳の割に背が高いから、千和を優に見下ろす。
だが千和も怯まなかった。欲にまみれた目の前の狂人に、憐れみの目を向けた。
「……あなた、無事では済まないんじゃない?」
「そうかもしれない。だがそんなの、私のコンツェルンの手にかかれば造作もないことだ」
「あっそ。じゃあ私がここを抜け出したって事実があれば、それも事実として優先されるわけね」
「あぁ、もちろん。それができればの話、だけどね」
千和の減らず口にも臆することなく、加美山は笑みを隠さず観察する。ニヤニヤともニコニコとも言えない、気持ちを逆撫でるような表情だった。
「染原千和……逸材だね、本当に」
「……それはどうも」
「その美貌に、類を見ない強さ、そして空っぽな中身」
「……空っぽ?」
千和は怪訝そうに繰り返す。誰もが振り向く外見と腕っぷしの強さは今まで嫌と言うほど賞賛されてきたし、はっきりとした自覚もあった。
しかし空っぽとは何事か。和泉を護る理由を答えられなかった、そのことか。なぜこうも見抜かれ、目をつけられるのだろうか。それのなにが魅力的だというのか。
加美山は千和の反応に目を細めた。
「自覚がないのか」
「…………」
「ハハ、なに、もう気にすることはない。君はもう私の物なのだから。透明に輝くその洞に、私の色を注ごう」
加美山がゆっくりと歩を進める。千和に自由が無いのをいいことに何か行動するつもりなのだろうか。
千和は距離を取りながらも隙を見定める。彼が入室して来た時、鍵は開けられていた。そこまで行ければこの部屋を出られる。
「――この部屋はオートロックなんだ」
「……っ!?」
動いた目線の先を悟られた。意外と鋭い洞察力にこの男の底知れ無さを感じ始めていた。
「だから扉まで行こうとも、ここからは出られない。ちなみにこちら側からも開けられない。君はずっと私の手の中だ。素敵だと思わないか? 美しく若々しいまま、君をここで愛でることができる」
「……清々しいくらい狂ってる」
「聡い君だ、見つけたろう。この部屋にある監視カメラを。君がカメラを見つけて睨むたび、私の心は激しく震えた。酷い動悸だった。そのまま命が尽きそうなくらい……!」
「勝手に尽きればよかったのに」
「刺々しいな、実に。まるで大輪の薔薇のようだ。だがその方が愉しい。穢れが無く高潔で鋭く、着飾っているものをこの手で壊す快感……私は、それがたまらなく好きなんだ」
仁の言っていた通り、いやそれ以上に狂気じみた内面に千和の肌は粟立っていた。この様子では同じようなことを何度も繰り返しているのだろう。手慣れた手段にも納得がいく。
「奪ってまで欲を満たすこと、どれほどの背徳感かわかるか? 清い君はまだ知らないだろう、いや、今後も知る由はなかったはずだ。ここに来なければね」
ジリジリと、ついに部屋の隅に追い詰められる。すぐに動けるよう、構えは崩さない。唯一動く足を繰り出していいものか、虎視眈々と状況を見極める。
「そんなに怖い顔をするな。……はぁ……だがしかし、ついため息が出てしまう。君は歪んでも美しい」
「それはどーも」
するとその一瞬で空気が変わった。
ハッと気づいた時には首を掴まれていた。
「………ッ」
「あぁ、口のきき方がなっていない。こんな美しい口なんだ、美しい言葉を使ってもらわないと。私が喜ぶさえずりだけを聞かせて欲しいものだ……あぁあぁ。私が直々に再教育しよう、全てをね」
「は……ッ」
年齢の割に強い力に千和の体が震える。混乱の中、咄嗟に放った蹴りも簡単に止められた。
「足癖も悪いようだ。最悪切り落とそう。なに、手段はいくらでもある。足が無くとも十分暮らせる設備もね。それに、足が無ければ、逃げようとも思わなくなるだろう。ああ、それがいい」
そして不意に手が離される。重力にひかれるまま、千和はドサリと床にうずくまった。毛足の長い絨毯は千和を優しく受け止めてはくれなかった。
「は……っ……はッ」
急いで酸素を取り込む。生憎、首をきつく締められた経験などない。視界の狭窄がようやく収まってきた。
「美しさが歪む姿は至高の品だ。実に素晴らしい、美味だった。さて、君のために美しい衣装を用意した。ぜひ着飾ってくれ」
加美山が手を伸ばした先に、いつの間にか漆黒のタイトドレスがそこにあった。以前の会合で千和が着ていたようなものである。
「誰が、こんなの……」
「ああ先に伝えておくが」
加美山はくるりと背を向けると演説のように高らかに話し始めた。
「この部屋は私の手足のごとく自由に動かすことができる。監視カメラもそうだが、鍵の施錠、空気圧の調整、温度の調整にいたるまで、私の手の内だ。つまり君を苦しめることも、その反対も私次第」
「…………」
得意満面な加美山を千和はただ忌々しそうに睨むことしかできない。
「おやおや、威勢のよさはどこに行ったのかな。染原嬢」
「……手、取りなさいよ。着替えられないでしょ」
「それでいい」
加美山は意地悪く笑むと、手枷を外してやる。自由になった手で殴りかかりたい千和だが、部屋の仕組みを解説された今ではそれも考えものである。
「ここにいる気?」
「いてはいけないかね?」
「出て行って。監視カメラでも何でも好きに見れば」
「仕方ない、君の純情に免じて、今回は従って差し上げよう」
満足気な表情を崩さないままに、加美山はわざとらしい礼をした。千和の苛立ちを逆撫でるが、反撃に出ることもできない。
加美山は薄く開いたドアの隙間から退室した。ちらりと見えた奥は暗闇で、何も情報は得られなかった。
残された千和はキッとドレスを睨む。見るからに動きにくそうなタイトさ、そしてやたらと長い裾が目に付いた。深いスリットに、腕周りの露出も多い。
苛立ちとため息を交えて長身のドールから服をはぎ取った。酸素を抜かれ、温度を下げられてはさすがの千和でも敵わない。
監視カメラで死角はない。反発心から、あえて見せつけるように着替えることにした。
想い人にだって見せたことがない下着姿。モデルのようなプロポーション。カメラの奥で加美山がどんな顔をしているのか想像するのも嫌だった。
「…………」
着替え終わり、腕や足を動かしてみる。このドレスは思った通りに動きがかなり制限された。肌触りは良いが、全身に隠された仕付け糸が拘束着のようになって満足に手足が回らない。歩幅も精々普段の半分と言ったところだ。さらに腕も全て露出されているノースリーブなため、まさに丸腰である。
最悪、と小さく呟いた。
そして監視カメラを睨む。しかしその奥で加美山が恍惚として顔を歪めているかと思うと、癪に触って、背中を向けた。
ここに助けは来るのだろうか。
見捨てられるのだろうか。
あの仁を信じたいが、虚像の世界に生きる彼を、彼の言葉を信じていいものか……。
もはや心細いのかなんなのかすら分からなくなってきた。抵抗できない自分の無力さを改めて感じ、無気力に襲われる。
かつて言われた通りだ。
仁に誘拐された時はまだ良心的だった。京月組が穏健派で親切というのがやっと実感できた。




