色の滲む環(8)
千和が黙りこくっているのを見て、仁はふっと笑みを零した。
「和泉くんとのことは二人で話し合ってみるといい。返事は急かさない」
すると仁は姿勢を変えた。天蓋付きベッドの柱にもたれて座る。そして懐から出したのは文庫本だった。
「さて、しばらく休息の時間にさせてもらう。レポート、終わってないんだろう?」
「えっ、あぁ……」
またも見透かされた千和は、少し俯きながら頷いた。低いガラステーブルで作業することにした。
背後ではムーディな曲が流れているが、この空間にそういった気配はまるでない。
千和は集中できずにちらりとベッドの方に目をやった。天蓋のカーテンが彼の身体を隠し、長い足だけが見える。たまにページをめくる音が聞こえて、これは夢でないんだと心臓が跳ねる。
こんなところに、二人きり。
千和は今の状況を改めて見つめると、堪えきれなくなってペンを手放した。
「……仁さん」
「ん」
安心しきったような、気の抜けた返事。千和は、自分はいつからここまで気を許される立場になったのかと不思議に思う。
「私のこと、どう思ってるんですか」
「……意地の悪いことを聞く」
ついまろび出た本心に、ふっと困ったように笑う声が聞こえた。文庫本は太ももの上に開いて置いている。
「だって……なんで私だったんですか。強い女性がよかったなら、きっと他にも……」
教室で、教壇に立つ彼をただ眺められれば、それでよかった。近づくことができたらと考えた夜もある。だがそれは全くの夢物語で、現実になれと願ったことはない。
では今はどうだろう。憧れた人が運転する車で、カップルが睦まじく過ごす場所に来て、彼が読書をする姿を眺めている。
一体、なんなのだろう。
「君の代わりはいない」
その言葉だけが千和に届く。表情は伺えない。
「…………」
「これでわかるかな?」
「……わかりませんよ」
「はは、そうだろう。でも、今はまだ、これで我慢してくれ」
含みのある言い方に、千和は眉をひそめた。もっと踏み込んで聞く心意気だったが、心の奥はそこまで行くなと叫んでいた。ただの直感である。
結局、千和は仁の言葉を反芻して飲み込むに留めた。
仁はというと、再び文庫本を手に取り、読書に戻った。だが、文章を目が滑る。集中できていないのは確実だ。心拍もいつもより少しだけ早い。静かにため息をつき、自嘲気味に静かに笑う。
いい歳をして、余裕がないとは。
彼女の気持ちは手に取るようにわかる。愛らしく、庇護欲すら掻き立てられる。だがそんな己の気持ちを彼女に悟られるのは、はばかられた。
どうしても一歩先をリードしたい男心である。それは単に歳上のプライドだった。




