世界が視ている(3)
授業が終了し、教室からはぞろぞろと学生たちが退出していく。その間際にも数人が視線を投げかけてくる。幼少から培われた感覚で電波のように無差別にキャッチしてしまうから、自衛することもできない。
「和泉、行くよ」
さっさと勉強道具を抱え、千和は和泉に素っ気なく声をかけた。
「ちょっと待って……」
和泉はバタバタと教材をカバンへと突っ込んでいる。プリントアウトされた見覚えのない資料や、図書館のバーコードが付いた本がやっと片付く。何をそんな広げて使うことがあるのかと千和は毎回疑問に思うが、彼曰く「自分で探した役に立つ参考資料」なのだそう。
教室を出た二人は、大学構内のカフェテリアへと向かう。次の時間は授業が入っていない九十分のフリータイム、通称空きコマである。それまで時間を潰す必要があるのだ。
幸い昼食時間とはズレているため、人はまばらであった。それでも念には念を入れ、より閑散としている端の席に陣取る。
「ほら」
千和は自動販売機のワンコインコーヒーを二つ、テーブルに置く。和泉は砂糖たっぷりのカフェラテ、千和はブラックコーヒー。
「ありがと」
「あんた、そんな甘いのよく飲めるよね」
千和は毎度それを飲む和泉を見て思うのだ。既にミルクで苦味が中和されているのに、そこにスティックシュガーが三本入る。それは飲み物ではなく甘味だと思う。そしてコーヒーとも言えない。
「美味しいよ? むしろ千和こそ、そんな苦いのよく飲めるよね」
和泉が顔をしかめて言う。本来の味を知っているからこそ、ミルクや砂糖に頼らざるを得ないのだ。
「あんたと違って大人なのよ、こっちは」
「同い年じゃん」
ツンとした様子でコーヒーを流し込む千和に、和泉は流れるようにツッコミを入れる。
「まったく、何回すんのこのやり取り」
千和は苦々しく顔を歪める。でもそれはコーヒーの苦さからではないし、本心でもない。
お互いがコーヒーを飲むときには、数回に一度、この茶番が発生する。そしてそれを発端に雑談が始まる。学校の課題の話や、今日の夕飯の話、次の休みの話まで、四六時中一緒にいても二人の話題は泉のように湧き出てくる。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
閑話休題の隙に、千和が駆け足でパウダールームへと消えていく。「うん」と送り出した和泉は、暇つぶしに図書館から借りて来た本をパラパラとめくり出す。新しく課されたレポートのために探した参考資料である。
「あのぉ」
するとそこへ、躊躇いがちな声が降ってくる。
「…………はい?」
和泉が顔を上げると、そこには女子学生二人組が好奇心に満ちた表情で立っていた。双方とも季節の早い格好で、髪の色も薄く、繁華街のネオンかと見紛うほど鮮やかなメイクであった。
「染原先輩ですよね!」
「うん……そうだけど」
「あ! やっぱりぃ! 私たち、先輩に会いたくてこの大学受けたんですっ、良ければお食事とか一緒にどうですか?」
甲高くボリューム調整の悪い声が和泉の顔を引きつらせた。高ぶる感情を共有するかのように、二人は腕を組んで和泉に薄い笑顔を向けている。
「あーっと、最近忙しくてさ。ごめん」
精一杯申し訳なさそうな気持ちを込めて言う。しかし女子二人はけらけらと体を揺らす。
「ええー、残念! じゃあ落ち着いたらでいいんで、とりあえず連絡先交換しましょ!」
許諾してもいないが、既に最新型のスマホでメッセージアプリを開いている。さらに「どうぞ!」とコードを差し出してくる。彼女らが動くほどに鼻につく甘ったるい香り。和泉は少し背を反らした。
「あー……今スマホ持ってないんだ」
そう言うと、彼女らの不自然に大きい黒目がさらに大きく見開かれた。
「そんなウソぉ! 今の時代、スマホ持ってないとか有り得ないですよぉ?」
あははと軽薄な笑い声を垂れ流した。片方の学生はセルフィーでも始めそうな勢いで、黒い画面を見ながら前髪を直している。
「有り得るんだけど、何か用?」
「……!?」
ケバケバしさに染まった空間を切り裂くように、千和のよく通る声が響いた。女学生二人は固まり、自然と場も静まった。
千和は席に戻る。一瞬の髪のなびきや足の運び、そんな動作でさえ女学生たちの畏怖を誘った。
「こいつのスマホは私が管理してんの」
わかる? と言う代わりに切れ長の整った目が、一気に覇気を無くした二人を真正面から見据える。二人は凄みを湛えた目元に怯むしかない。
「で、ご用は?」
「い、いやっ、失礼しますっ……」
鼻を煩わすような嵐が逃げ去り、元の静寂が復活する。カンカンカン……というヒールの高い足音だけが最後まで残っていた。
「最近、ああいうの少なくて楽だなぁとか思ってたけど、まぁそうもいかないよねぇ」
はぁ、と息を吐きながら千和は改めて腰を落ち着ける。コーヒーは冷めて苦みが増していたが、舌はそれを難なく受け入れた。こんな面倒は入学当初よりは大分マシになった。当時はといえば、諸先輩方からお優しい誘いをたくさん受けたものだ。
「ありがと、千和」
「あんた、相変わらず断るの下手よね。これまで何千回、何万回と声かけられてきたんだから、もう少し拒絶レパートリー増やしなさいよ」
どんな相手に対しても柔らかいままの和泉に、苛立ちから適当な無理難題を吹っかけた。
「いやぁ……うん、やっぱり、そうだよね……」
形のいい眉を寄せ、しおらしくなった和泉に気分をよくした千和は、「はい、スマホ」とスマホを返却する。
「ほんと今さらだけど、私が持ってていいの? それ」
和泉は通知を確認するでもなくそのままカバンへと戻した。使用頻度も低く、ご丁寧に息苦しそうな皮のケースまでつけられているのだ。スマホとしては不完全燃焼なのではと千和は余計な心配をする。
「うん。ああいうときとか、断る口実になるしね」
「そりゃそうだけど、無いと困るじゃん、このご時世なら」
情報化の一途をたどる現代。いくつかの講義では、各自の電子媒体を使って授業を行うこともある。さらに何か調べ物の際にもスマホは重宝する。それにもかかわらず、最近の和泉は自身のそれを常に千和に預けっぱなしにしていた。
「でも千和はずっと横にいてくれるし」
すぐ聞けるから大丈夫、と言われれば、千和はそれ以上の追及はしない。
「ま、あんたがいいなら良いんだけど。さてと、今のうちに課題やっつけとこーよ」
隣の椅子に座らせていたカバンからレジュメと教科書を取り出す。このために広い机のあるカフェテリアまで来たのだ。
「これが私らの本業。でもこれ、今回の難しくない? 抽象的で捉えどころなさすぎ……」
大学の門をくぐって早三年。最近は自分野の専門性も高まり、小難しい話題も増えてきた。千和は時折出るレポート課題に頭を悩ませる日々である。
「うん……今回は『モガリ』について……社会学部なら避けて通れない存在だよね」
「そうだけど、雲の上の存在っていうか、私らとは関わりない存在すぎてよく分かんなくない?」
ネタを探そうと授業で配られたレジュメをパラパラとめくる。後の自分が困らないようにと必死でメモをした気でいたが、改めて見ると支離滅裂な暗号である。当初からほとんど理解できていなかったようだ。
「でも、俺らがよく行くあのスーパーも、大本を辿ればモガリグループの子会社らしいよ」
そんなことを聞いて、千和は目を丸くする。地域に根差す、いささか寂れた小さなスーパー。冷房と暖房を節約している健気なその店を思い出す。
「へぇ、よく調べてんね」
「それが俺らの本業でしょ」
適当な言葉を返され、千和はぐうの音も出ない。やれやれと半ば諦めたように手を動かし始める。
「はいはい、ちゃんとやりますよ。……レジュメ見た限りじゃ、モガリは悪者扱いだけど、実際経済回してんのってその人たちだよね」
「そうだと思う。今回のテーマは『モガリは社会に必要な存在だと思うか否か。理由を述べよ』。今の感じだと千和は必要派だね」
和泉は配布されたレポート用紙を読み上げた。時代に逆行するかのように、手書きのレポートを望まれている。
「どっちかと言うとそうなるね。あんたは?」
「うーん、モガリの存在って身近な話じゃないし、普通に生活してて目に入りにくいところだから、よくわかんないってのが正直なところ。さっき言った通り、雲の上の権力者みたいな……あ、でもそう思うのはみんな一緒か」
話しながら考えていたのだろうが、和泉も結局は千和の所感と同じ着地点に降りたようだ。
「私と一緒じゃん」
「あははっ、それじゃ面白くないね。まぁ千字くらいだし、今回は不要派で書いてみようかな。千和の対抗馬として」
「突貫工事で書けんの?」
「まぁ、このくらいなら、なんとか」
存外自信がありそうな表情に、千和はフーンと鼻を鳴らす。
「言ってみたいわー、そんなセリフ。でも確かに、文章だけは得意よね」
「だけはって……でも苦ではないね」
和泉はオブラートのない物言いに苦笑を浮かべる。
「少し分けなさいよ、文章力」
和泉は頻繁に出されるレポート課題を難なくこなす。作文で悩む様子も見たことが無かった。一方の千和は毎回一文一文に頭を悩ませ、極小ピースのパズルを作るような繊細な作業を余儀なくされていた。双子でありながらのこの差を恨めしく思わないわけがなかった。
「そこの能力は千和の分まで取っちゃったのかもね」
最終的には和泉が手を貸し、毎回完成まで至っている。おかげで、幸いにも単位を落としたことは無い。
二人は顔を突き合わせてレポートを進めていく。千和は主に和泉作の資料を読み漁り、あれこれ言いつつ、使えそうなところをピックアップする。とりあえず主張や論点の構成は立てておき、あとで和泉に添削を頼もうとこの時間を過ごした。




