色の滲む環(3)
突如として室内には二人きりになった。護衛でも執務でも、ましてや大学でもない現状に千和の混乱は加速していく。
「困ってるな」
「ええ……だって何も説明されていませんから」
「では、質問したいことがあれば聞こう」
その言葉に千和はキュッと眉を寄せた。聞きたいことは山ほどあるが、簡潔に述べるのが吉であると十二分に理解している。
「じゃあまず、ここはなんなんですか」
「ここは、スタジオだ」
「スタジオ?」
千和は部屋を見渡すが照明や音響機材などはないし、何よりスタッフなどいない。仁に怪訝な視線を注ぐ。
「とはいっても、表通りを歩けるようなスタジオじゃない。裏通りの御用達だ」
「…………」
「ここに今は我々だけ。別に撮影なんかはしない。ここに来ているという事実をあいつに伝えるためだけに来た」
あいつ、というのが誰を指すのかは聞かずともわかっていた。つまるところ、これは仁が先日言っていた〝工作〟の一環なのだと千和は気が付いた。そして、自ずとこの場所の意義も浮き出てくる。
「……ここにいれば、私を狙う理由が無くなる、ということですか」
「このスタジオに男と女。俺らの世界じゃそれで伝わる」
千和は口を真一文字に結んだ。
この世界もその世界も、どんな世界のことも知らない。ただ今分かるのは、自分が生きる何の変哲もない日常からかけ離れた場所に放置されているということだけだった。そう思うと、どうしても落ち着かなかった。
「別に自由にして構わない。イスに座ってもいいし、ベッドにダイブしてもいい。レポートを書いてくれたって構わないよ」
相変わらず入口付近で体を固くする千和に、仁は薄く笑って言った。
「レポートを書く道具は持ってないので……座っています」
せっかくの提案だが、勉強道具は家に置いてきてしまった。今度こういう事をするなら事前に行って欲しいものだと内心思う。
千和は手頃な椅子に浅く腰掛けた。
「提出期限まで残り少ないが、進捗はいかがかな?」
「……プレッシャーかけないでください」
「はは、健闘を祈るよ。千和の実力なら優は簡単に取れるだろう。目指すは秀だ。もちろん、和泉くんもね」
「そういうのがプレッシャーって言うんです……!」
大学の話題でいくらか心がほぐれる。仁の表情が教室で見ていた温和なものだったからだ。久々に見た教員としての仁に安心を覚える。本来あるべきお互いの距離に戻った気がして、千和は少し元気を取り戻した。
「あの、聞いてもいいですか」
「質問による」
「教授職のことです。なんで教授のお仕事をされているのかなって、ずっと疑問で」
ああ、と仁は空を仰ぎ見た。なんてことない英文学の質問に答えるかのように彼は口を開いた。
「前も簡単に言ったかもしれないが教授職は暇つぶしだ。父が健在の頃は、本業の執務も多くはなかった。ちょうど英国留学で教員として必要な単位は取っていたし、気の慰めになればと思ってやっていたことが今も続いているというだけだ」
「……すごいですね」
「そうでもない。英語や文学には、昔救われた恩がある」
「恩?」
「そろそろわかってきたと思うが、この世界は虚像に満ち溢れている。一方で文学も多くは虚像を求めて描かれた虚構だ。同じ虚像を追うのならば、せめて救いのあるものを追いたくてね。多感な時期は色んな世界の文学を読み漁ったものだ」
「……仁さんにもそんな時期があったんですね」
「俺をなんだと思っているんだか」
千和が目を丸くしたのに対し、仁は可笑しそうに微笑んだ。
二つの顔を使い分ける彼にも、自分たちのような若い時期があったのだと、千和は改めて認識した。それほどまでに仁は別世界の人間で、過去さえも簡単には読み取れない存在だったのだ。
「一番好きな作品はあるんですか?」
続く質問会に、仁はふっと唇を緩めた。まだまだ青い若人に教えを諭すような表情である。
「一番を決める問いは最も愚問だとは思わないか? この世には人の数の倍ほども作品があると言うのに」
「それは……そうですね」
「人は好みでも地位でも、すぐに一番を求めたがるが……それになんの意味があるんだろうな」
「……というと?」
「モガリだってそうだ。勢力図なんて、一夜で塗り替えられるような脆い土台の上に立っている。全てが不出来な一夜城だ。そしてそのるつぼにいる人々は命が尽きるまで捕らわれる。上を目指し、もがき苦しみ、手を汚し……そんな世界にいると、文学の美しささえ、香り高いだけの嗜好品に思えてくる」
千和はそっと口をつぐんだ。
秘密の繋がりができてから冷徹で淡白に見えていた仁に、人間らしさを見た。それは初めてとも言えるもので、彼も彼で置かれた現状に憂いているのだと理解した。そして、大学の職を手放さない理由も。
「でもせんせ――仁さんは、美しい文学作品に救われてるんですよね。英語版の源氏物語とか」
「先生」と言いかけて、千和は慌てて言い直した。京月准教授と他愛もない会話する、という密やかな夢。それが今叶ったように錯覚したのだった。
「よく覚えているな。さすが、我が講義で優秀な学生だけある」
仁はふっと口元を緩めた。目の端に優しくシワが寄る。千和はその表情が好きだった。
この場にいる本来の目的さえ忘れてしまいそうなほど、千和にとっては有意義な時間だった。これまで込み入った話などしたことがなかった。その分、この時間はレポートを書くよりも貴重なものとなった。
その後もゆっくりと話をした。他愛もないことだった。大学のこと、英文学のこと。彼のパーソナリティにまで踏み込む勇気は出なかったが、千和はそれでも満ち足りた気持ちだった。
やがて仁がふと時計に目を落としたのをきっかけに呼び鈴が鳴った。
「千和は鷲田と。俺は別で戻る」
鷲田の姿を確認すると、仁は短くそう言った。教育者の顔はすっと裏に消えていた。
「あのっ」
その変化に少しまごつきながらも千和は狭い玄関で仁に追いついた。
「今日は、ありがとうございました」
ボディーガードとしてではなく、学生として頭を下げた。
すると、不意に柔らかい感触が頭に下りた。その反動で、髪がさらりと落ちて千和の横顔を隠す。
ゆっくりと顔を上げた時には既に仁は退室していて、千和だけが残されていた。
「え、何……」
千和はぼそりと独りごちる。そして、無意識のままそっと自分の手を頭にやって、ぽんと撫でてみた。
「え、何……!?」
頬がかっと熱くなる。
撫でられた。頭を。今。仁さんに。
その事実に、千和は悶えんばかりに歯を食いしばった。自分の手よりも大きい感覚、そっと触れただけの優しい感覚。あの一瞬の衝撃は雷のように打ちつけ、強く残っていた。
千和はしばらくその場を動けなかった。ソファでもベッドでもいいから、のたうち回りたかった。
しかしそんなこともしていられなかった。待ちあぐねたのか、ドアが開き、鷲田が顔を出した。千和もハッと我に返る。そして何事も無かったかのように鷲田について部屋を後にした。
顔はずっと熱かった。




