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明け待つ芍薬  作者: 烏野 佐枇
5章 這いよる毒牙
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這いよる毒牙(2)

 朝から慌ただしかったこの日の夕刻。

 無事社会教育論のテストを乗り越えた千和はだらりとした気持ちで学校を出た。テストを乗り越え、張りつめていた心が一気に緩んだらしい。後続の授業も十五回を完走したとあって、その達成感も気のゆるみを爆走させる。


「今もうなんでもできそう」


 朝とは打って変わって、カラリと晴れた太陽に向かって伸びを繰り出す。ここまで爽やかな気持ちはいつぶりだろうか。隣の和泉の顔も幾分か明るい。


「じゃあここから家まで走って帰っちゃう?」

「それは疲れるからやだ。てかあんたはついて来れないでしょ」


 それもそう、と和泉は笑う。あと数日もすれば夏休みに入る。煩わしい好奇心の視線から抜け出して、思いっきり自由な時間を過ごすことができる最高の期間である。外出すれば多少の視線には晒されるが、流れるような視線にはもう慣れっこだ。とにかく気の向くまま、何をしようかと考える頭が既に喜びに満ちている。


「ねぇ夏休みなんかしたいことあるの?」

「…………」

「和泉?」

「んっ? あぁ、そうね……図書館には何回か行きたいかなぁ」

「図書館って、夏休み入っても勉強する気? ま、涼しいし人減るし全然良いけどね」


 何の気なく返答しながら、千和は和泉が視線を送っていた先を盗み見た。

 ここは一軒家や背の低いアパートが並ぶ何の変哲もない静かな住宅地。その中で路肩に停車していた黒の車が存在感を放っていた。とはいえ、普段から周囲を気にするタイプでなければ気が付かない程度の違和感だ。ファミリー層や単身者があまり乗らないタイプのセダン。この周辺ではあまり見ない車種だけに、和泉の気を引いたのだろう。


「じゃあ千和は? どっか行きたいところないの?」

「わたしかー」


 すると車が動き出した。まるで二人の視線を察知したようで、どこか気味が悪かった。


「家でゆっくりしたいのはもちろん。後はそうね……たまには美味しいものとか食べたいかも」

「美味しいものいいね! じゃあこれはお互いにリサーチしてプレゼンテーションごっこということで」

「え、ちょっとめんどくさい」


 千和が渋い顔をすれば、和泉はハハっと軽く笑った。


「あのぉ」


 するとそこへ背後からしゃがれた声がかけられた。二人はハッとして素早く振り返る。その速度は対応するためというより、対処するためのもの。


「……なにか」


 なんの害も為さなそうな小さい老婆がそこにいた。夏だというのに長袖の上着を羽織っている。

 平静を繕って老婆に声をかける。だが千和は内心、背後を取られたことに驚きを隠せなかった。何事にも対処できるよう、身体は緊張感を帯びていた。


「最近この近所にできたパン屋は知らないでしょうか? さっき友達から聞いて、行ってみようと思ったんだけど、迷っちゃって」


 二人はちらりと顔を見合わせる。自分たちに道を聞いて来るのは大抵が若い男か女。それぞれ道などどうでもよくて、和泉か千和を狙ってのことだった。

 だがこの老婆にそんな素振りはなく、カメラを構えるでもない、取材をするでもない、何かを売りつけてくるでもない。本当ににただ道を聞きたいらしい。二人にとっては珍しいタイプの人間だった。


「……パン屋か……確かこの前、開店のチラシが入っていたような」


 千和は小さく呟いた。少し時間を取ってもいいという許可の呟きだった。和泉はそれを受けてスマートフォンを操作した。


「えーっと……あ、あったあった。ちょっと待ってくださいね……。この道を大通りまで真っすぐ、そして右折して」


 和泉は高い背を屈めて、老婆に画面を示す。件のパン屋は、老婆の言う通りこの近所のようだった。自分たちも近場に住んでいることを暗に教えることになるが、この老婆がそれを知ったところで何になるというのか。千和はその思考を一旦放棄した。


「ああどうもありがとう。それじゃあ」


 ゆっさゆっさと体を揺らしながら、老婆はゆっくり二人から離れていく。太陽が傾いたにも関わらず、夏の日差しは暑かった。

 彼女の姿が遠くなり、見えなくなるまで、二人はその場にとどまっていた。


「……さて、うちらも帰ろうか」

「そうだね」


 そして二人は踵を返して、わざと遠回りに家を目指した。大学生の二人は、この地域に多く住む社会人やファミリーとの活動時間がかみ合わない。そのお陰で太陽の下を悠々と通学できているのだが、時折こうしたイレギュラーがあると不安に駆られるのである。

 昔は、道を訪ねてきた中年女に付きまとわれ家を暴かれそうになったこともある。隣近所に存在を隠し通すのは無理な話だが、それでも警戒するに越したことはない。引っ越したて、新生活とかいう枕詞は信用しないことにしている。

 だから居もしない追手をまくように、二人は遠回りで家を目指すのだった。

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