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明け待つ芍薬  作者: 烏野 佐枇
5章 這いよる毒牙
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這いよる毒牙(3)

 この日で前期の授業が終わる。

 長くも短くも感じた半期の授業への感傷に浸りつつ、千和は窓の外を眺める。

 最後のテストは近代経済史。近代の経済界を学ぶ授業だが、その内容の多くはモガリについてである。この国の近代経済を支えたのは開国と共に生まれたモガリたちだった。

 千和にとっては、ここ最近一気に身近になった話題である。人間はその世界に触れれば自ずと興味が湧くものである。空き時間に和泉と調べていたことも手伝って、テスト用紙は早々に埋めることができた。

 隣の和泉も既にペンを置いている。優秀な頭脳を持つ彼なら、今回のように勉強しなくともなんの苦もなく解くことができるのだろう。

 羨ましい限り。

 そんなことを考えていると、普段よりも強く恨めしい気持ちが湧き出てきた。そう思うのも、実はレポートが一つだけ残っているから。しかもそれは京月准教授に提出する授業レポート。

 大学では真面目に准教授をしている仁に提出するものである。千和としても他の授業以上に力を入れたい。そして何より、千和は大学にいる彼に憧れた。現在の関係性はともかく、勉学の面では落胆されたくない。

 微かな緊張感をまとって悶々と頭を巡らせていると、タイマーの音が思考に割り込んでくる。教室内はすぐさま体を伸ばす学生で溢れた。


「テスト終わったぁぁぁ」


 そして千和も例に漏れず腕を精一杯伸ばした。袖の軽いフレアがパサリと顔にかかる。


「お疲れ様。提出して帰ろう」

「例のレポートが一個残ってるけど、とりあえず終わり! なんか帰りに美味しいものでも買って帰ろっか」

「うーん、大賛成」


 出来がいいはずのテストを提出して教室を出ると、なぜか広いはずの廊下が混雑していた。受講者以上の学生が端々に溜まっている。

 千和は視線の多さに、久々のため息をついた。大方、夏休みに入る前に和泉を一目見ようとあっちやそっちから見物者が集合してきたのだろう。千和は臆面もなく顔をしかめるが、和泉は時折振られる手に応じてさりげなく笑顔を振りまいている。


「――和泉」

「……ごめんって」

「いいいから無視しなって何回も言っているでしょ」

「だってあんまりガン無視しちゃうのもかわいそうかなって……」

「そのあんたの優しさが後に自分を追い込むの」


 人波がやっと落ち着いたところで、千和は和泉に釘を刺す。幾度も繰り返したやり取りだが、和泉の底抜けの優しさは変わらない。だから勘違いする輩が出て来るのである。


「――あ」


 すると突然、千和ははたと立ち止まった。和泉は一歩先で振り返る。


「ごめんちょっと電話」


 ポケットの中で振動したスマートフォンの画面には「鷲田さん」。普段はメールの文面で来るのだが、今回は珍しく電話である。緊急の呼び出しだろうかと千和は急いで耳にあてた。和泉は隠れるようにして千和の後ろにそっと潜り込んだ。


「はい……はい……分かりました」


 二言三言交わして、電話はすぐに切れた。千和は口を真一文字に結んでいる。


「……鷲田さん、なんて?」

「なんかやっぱり緊急みたい。今から鷲田さんが来てくれるから、そのまま行かなきゃいけない」

「そっか……じゃあ美味しいものは最後のレポート終わりに持ち越しかな」

「うん……そうしよう。ごめん」


 つい謝るが、千和のせいじゃないよと相変わらずの言葉がかかる。

 やがて、約束の定位置に鷲田の車が到着する。千和は真っ先にお人好しを後部座席へと押し込めた。味気ない帰宅となってしまったが、和泉を自宅に送り届けると、千和は単独で京月邸へと向かった。

 まだ日の高い時間にここに来るのはあまりない経験だった。普段は闇夜に紛れるかのように、夜間の活動がメインである。

 おかげで家の隅々までよく見えた。母屋は少なくとも地上三階建て。たしかエレベーターがあったから、地下もあるのかもしれない。そして外。バラ園や噴水らしきものがある庭の奥や、その横に独り暮らしに丁度良さそうな離れ、その反対側には渡り廊下付きの小さい別棟も付いていた。

 ロータリーからそれらを眺めて、一体どれだけの土地なのかと考えると頭が痛くなる。どのくらいの人数が住み込んでいるのかも分からないが、この広さでは何人暮らせるのだろう。アパートの2LDK程度にしか住んだことがない千和にとっては、まるで公共の施設ほどに思えた。

 いつも通り鷲田について、仁の部屋に通される。この時間にここに居るということは、大学業務はなかったのだろうか。


「急に呼び立ててすまない」

「テストは終わったので大丈夫です。仕事ですか?」

「いや、少し話があった。鷲田」


 仕事でないなら一体何なのか。千和が訝しんでいると、意外なことに仁は鷲田へと話を振った。

 後ろに控えていた鷲田を軽く見上げれば、彫りが深く頑強な目と視線がかち合う。


「先日の加美山を覚えているか」

「は、はい」


 ここで登場した加美山という言葉。千和は薄らと嫌な予感を覚えた。鷲田は表情を変えず、一度ゆっくりと瞬きをした。


「その加美山が、お前をつけ狙っているそうだ」

「えっ……」


 重厚な物言いに、嘘の気配は感じられなかった。元より、そんなことをして千和をだます理由も思い当たらなかった。

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