深淵の数歩も手前(4)
そしてようやく外へ出る。ネオンが光り始めた夜の繁華街とは言え、ビル内よりも新鮮な空気を吸うことができた。ようやく千和の心は少し落ち着きを取り戻した。
今日はこれで終わりかと千和は助手席に腰を落ち着けた。しかししばらく揺られている間に、車窓が見知らぬ景色を映しているのに気がついた。京月邸に向かっているのではないらしい。不思議に思っていると、車は数十分をかけて見知らぬ建物へと到着していた。
怪訝な表情のまま、降車した仁の後をついていく。そこは小さな公民館のような地味な建物で、繁華街の煌びやかさとは無縁である。少なくとも黒塗りの高級車が似合う場所ではなかった。
「……ここは?」
「少し体を動かすといい」
「はい……?」
そして促されるまま中へと入ると、そこは広い運動場だった。床は衝撃を吸収しそうな緑色。奥にはボクシングのようなリングもあるし、揃う器材はまるでトレーニングジムだ。
そこで数人が組み手の最中だった。名を付けられるような競技ではない、強いて言えば異種格闘技である。蹴り上げたり殴ったり、節操のない攻撃が繰り返されている。それらはやがて仁の姿を捉えるやピタリと止まった。
「若」
その中にいた一人が機敏に進み出た。仁はその男と二言三言交わすと、千和へと目線を向ける。
「千和、これから数人と組んでもらう」
「えっ、はい」
唐突なことに戸惑いながらも渡された簡単な防具を身に着けた。千和としてはこういったものが無い方が動きやすいのだが、着けろと言われては着けるしかない。
準備を整えると、言われるがままにリングに入る。先程やり合っていた男ら三人との連戦のようだ。軽く身体をほぐしていると、不意に開始の笛が鳴らされた。
一戦目。痩身の男は素早い動きだった。何発か拳を受け止め、打撃力に欠けるのを理解した。攻撃をいなしてしまえば、より素早い千和の方が有利だった。空いた脇腹に足蹴りを叩き込んで終了した。
二戦目。筋肉質の体格のいい男だった。一戦目とは打って変わって、重い打撃と硬い身体。それを合気の要領で流していくと、やがて攻撃のバランスが崩れた。そこを柔道の容量でひょいと投げ、ラウンドを制す。
三戦目。前の二人を足して二で割ったような手練れだった。三人の中では最もバランスが良く、油断ならない相手だった。下手に手を出さず、伸びてきた腕を適当に掴んだ。そして関節を逆に突き上げ、戦闘不能にした。
続けて出てくる人はいない。少し待って場内から去ろうとすると、男が一人進み出た。その顔を視界に入れて、千和はハッと息を飲んだ。
「あんた……」
千和の目は憎々し気に細められる。
「やぁ、しばらくぶりだね」
ひらひらと片手を振った男は、スーパーの駐車場で千和と和泉の交渉に来たあの男だった。当時もらった借りが一気に思い出される。
「僕は溝田。どうぞお見知りおきを」
頼んでもいない自己紹介と共にわざとらしい会釈が送られた。しかし鼻につくパフォーマンスに千和は苦々しく吐き捨てた。
「……結構」
「あははっ、連れないなぁ」
前回の邂逅と同様に、溝田との組手は連戦の後である。千和は軽薄な笑顔に嫌味をぶつける。
「今日も体力温存ってわけ?」
「悪いね。でも前の部下より弱かったでしょ、彼ら。まだ訓練中なんだ」
「別に……どっちも弱かった」
「ははっ、超絶にクールだね。じゃ始めようか、染原さん」
ゴング代わりの笛が鳴る。前回手を合わせた時よりも体力は残っている。どうにかして溝田に一勝を挙げ、借りを返したいところだった。
攻めの姿勢でかかるが、際どいところで押さえられ決定的な一撃は繰り出せない。部下と同じ人間とは思えないほど、実力に雲泥の差がある。
するとお返しとばかりに、今度は溝田が猛攻を仕掛けてきた。防戦一方に持ち込まれ、体力を温存するのに手一杯の状況に追いやられる。
しばらくして、再び笛が鳴らされた。終了の合図だ。どちらも立ったままである。決着はつかず、引き分けとなった。
しかし千和はその場に崩れるように座り込んだ。はぁはぁと荒い息が溢れ、心臓の鼓動がドクドクと聴覚を遮る。
「耐え続けるなんてすごいなぁ」
そんな千和に溝田は労いをよこした。肩にタオルをひっかけて息も切らしていない様子だ。千和はその余裕さに苛立ちの目線を送る。
「ははっ、そんな怖い顔しないでよ」
軽くいなす様はさらに千和を煽ることとなった。
「溝田」
すると仁が溝田を呼び寄せた。怒りの矛先は仁の元へと去り、千和は憤怒の表情を押し込めるしかなかった。
「若。彼女中々やりますよ」
「承知の上だ」
「でも課題は体力でしょうね」
溝田は防具を外して汗を拭っている千和に目をやった。戦闘時以外の彼女はただのうら若い女性で、大の男三人を一瞬で沈められるとは思えない。溝田はキュッと目を細めた。
「任せてもらえれば、それなりに鍛えられますが」
「それなりじゃ困る。部隊トップのお前だ。お前の実力に見合う成果を期待する」
「ええ、かしこまりました」
去り際にポンと肩が叩かれる。どんな攻撃よりも重いそれに、溝田は再びきつく口を結んだ。
「千和、君は今後、溝田に稽古をつけてもらうことになった」
「えっ」
聞くなり、千和はあからさまに嫌そうな顔を浮かべた。隠そうともしない。
「そんな顔をするな。私怨での攻撃は厳禁だが、稽古中なら間違えて殴ってしまっても問題はない」
そんな復讐心を汲み取って仁は規律に沿った助言を施す。すると千和は表情を緩めた。
「……確かにそうですね。わかりました」
「いい子だ」
千和は素直に憎しみのこもった瞳を浮かべる。その様子をうかがって仁はにやりと口角を上げた。
夕食時をとっくに過ぎた頃、千和はようやく帰宅した。家に入るなり、玄関先で倒れ込む。
「ちょっ、千和大丈夫?」
和泉は散らばる荷物を脇にどけ、千和をどうにか立ち上がらせた。その顔はげっそりと疲れ果てていて、普段の快活な様子は見受けられなかった。
「久々にこんな疲れた……」
「どうしたの」
リビングのソファに運ばれたところで、千和は今日の経緯を話して聞かせた。
「あぁ……あの男の人とやったんだ。強いんだっけ?」
和泉はあの時を思い出すようにぼんやりと聞いた。当時は腹部が筋肉痛になったような痛みで数日間は重苦しかった。しかしそれを千和は知らない。和泉はその点だけは口をつぐんでいた。「和泉を殴った」という怒りだけに抑えておかなければ、千和は自分の身を顧みず溝田に向かっていくだろう。
「アイツ、ムカつくけど強い。軸が全然ぶれないの、パワーもあって……」
千和は、溝田の強さは体幹の強さと力の配分の上手さにあると考えていた。力の抜き方入れ方、それを上手く調整し、鍛えられた体幹で惜しみなく放出している。実戦の経験値や努力値の影響もあるが、素質も大きく影響するポイントである。
「千和も勝てないって相当だね。もしかして初めての強敵?」
「そんなかっこよく言わないで。でもいつか絶対一発入れる、渾身のやつ」
和泉の仇と私の恨み、と呪うように呟く。
「一発じゃ済まなくなりそう」
既にあの出来事を水に流したかのような聖人っぷりで、和泉はへらりと苦笑を浮かべた。
「で、和泉は留守番大丈夫だった?」
温め直された食事が千和の前に運ばれる。丁寧にラップまではがす和泉に問いかけた。
「問題ないよ。静かだった」
「そ。それならよかった。たまに訪問販売装った変なのとか来るから気を付けてよ」
これまで来たのは『体にいい深海のお水』に『高画質カメラ』の訪問販売。さらに変わり種として『週刊○○』の読者モニターの依頼という胡散臭さ十分の訪問を経験している。
「でもあれね。私が呼び出されるとあんたが自由にできないよね」
「それはしょうがないよ。こっちはこっちでゆっくりできるから」
和泉は肩をすくめて答える。真面目な彼のことだ、きっとレポートの処理や自主的な勉強に励んでいるのだろう。
「そう? でも今後、連日呼び出されると困るな」
買い物とか最低限あるし、と困ったように眉をひそめる。
「うーん……断れないのかな」
「契約した通り多少の融通は利かせてくれると思うけど……断り過ぎたら後が怖くない?」
「……それもそうだね」
二人は結局渋い顔に落ち着いた。
すると、そんな雰囲気を払拭するかのように千和があっと声を上げた。和泉は「何?」と首を傾げる。
「溝田との稽古で忘れてたけど、今日行ったモガリの現場、凄かったんだよ」
「えっ、どんな風だった? レポートに役立つかな」
和泉は俄然興味をひかれたようで、身を乗り出すようにして続きを促した。
「いや。そんな生々しいレポート受け取ってもらえないでしょ」
「あぁ、そうか……」
底なしの学習意欲に苦笑しつつ、千和は今日の出来事を話して聞かせる。絡んできた男二人に関しては思い出すだけでも不快であったが、メインイベントでもあるため省略はできなかった。そして案の定聞いていた和泉も顔をしかめた。
「――そっか、仁さんがわざわざ出向いて……。きっと重要なことなんだろうね」
「多分ね。でも私としては興味ない話だし」
「でももったいないよ、せっかく生きる資料がそこにあるってのに」
学生の鏡とも言える言動に千和はやれやれと箸を動かす。
「いい? 和泉。私は護衛。変に首突っ込んで、変に情報収集したら、どこから何言われるかわかんない。それをレポートに使おうものなら尚更ね。バレるかもしれないし」
「……まぁ、確かに。参考文献としては載せれないもんね……信憑性疑われそう」
和泉は無念そうに声を落とす。この様子では図書館の資料を一通り読み込んでいそうだ。そうでないとここまで情報を欲しがりはしないだろう。
「でしょ」
「でも、とりあえず千和が絡まれたって話が気になるんだけど」
唐突に話が転換した。千和はギョッとして目を泳がせた。あまりの不快さに適当に端折って説明したのが仇となった形である。
「……別に。面倒くさい奴に話しかけられただけ。大して強い人間じゃないし、捻ればすぐ終わる。でも、やっぱりああいう業界で女って珍しいんだろうね」
「まぁそりゃあね……でも……」
と和泉はもの知り顔で、千和をじっと見つめた。
「なに、人の顔じっと見て」
「千和だって普通に男の人によく声かけられるよね」
公園や息抜きに行った商業施設、ただ歩いていた道端など。度胸のある男がたまに千和に声をかける。無論冷たくあしらわれるのだが。
「え。うん、まぁ、あんたほどじゃないけど」
一日六ナンパを記録したこともある目の前の美男子を引き合いに出せば、千和への声かけの実績も霞む。
「でもスカウトも来るくらいだし、そっちの世界だとかなり重宝される存在だろうし……気を付けて」
いつになく真剣な和泉。それを受ける千和はどこかむず痒そうに座り直した。
「……わかってるよ」
健康に配慮した薄味のチキン南蛮を噛み締める。家庭の、和泉にしか出せないこの味は千和の疲労を取っていく。




