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明け待つ芍薬  作者: 烏野 佐枇
3章 深淵の数歩も手前
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深淵の数歩も手前(3)

 翌日。

 講義を終えた千和は和泉と帰宅してから、迎えに来た鷲田の車で京月邸へと向かった。

 仁の部屋に通されるかと思いきや、促されて入ったのは見知らぬ別室だった。クローゼットやメイク道具が揃ったドレッサー、畳までもがあるところを見ると、ここはどうやら衣装部屋らしい。


「若に指定された衣装があります。これを」


 使用人らしき初老の女性に手渡されたのは黒いパンツスーツだった。


「これで動けるのかな……」


 言われるがままに着替えて、腕や足を回してみる。すると想像以上に可動域はあった。大学の入学式で取り急ぎ用意した安物のスーツとは訳が違うようだ。


「ではこちらでお化粧を」

「えっメイクもですか?」

「若のお隣に立つには、それなりの品格も必要です。いやはやそれにしても、あなたは綺麗な顔をなさっていますねぇ、腕が鳴るというものです」


 女性は有無を言わさず千和を座らせると、瞬く間にメイクを施した。普段は流行りでもない適当なメイクで済ませている。そのせいか、改めて鏡に映った自分は別人のようだった。素肌の健康美はそのままに、意思の宿る目元には相手を射止めそうな迫力があった。


「素敵ねぇ。若もさぞかし鼻が高いでしょう」

「そう、ですかね……」

「自信もっていってらっしゃい。若をよろしくね」


 そう言って女性は千和を衣装部屋からさっさと追い出し、ドアの奥に消えていった。

 上から自分の姿を見下ろして、千和は不思議と気分が高揚していた。こんなに上質なスーツを着たのは初めてで、メイクまでされたとあっては、いつもの自分とは全く違う心持ちだった。


「染原」

「あ、鷲田さん」

「……若の指示か」

「そうらしいです」

「……気合いが入ってるご様子だな」

「気合い?」

「いや、なんでもない。もうじき若が来る。待機しておけ」


 鷲田はドアの傍に立つと、それ以上は口を開かなかった。千和もよくわからないままに、鷲田にならって廊下の端に立って仁を待つことにした。

 やがて廊下の奥がざわりと動く。見れば千和の主が数名を従えていた。簡単な打ち合わせだろうか、スケジュールを確認している様子だった。


「――待たせてすまない」

「準備は出来ております」


 鷲田はドアマンのように機敏に動く。一緒にいた組の人間と思われる人々は一列に並んで見送る体勢をとっていた。


「――あぁ、千和」

「は、はい」


 そのまま外に出るかと思われた時、仁は千和に声をかけた。そして少し高い目線から、目新しい格好の千和に頬を緩める。

 一方の仁は普段とは少し違った、わかりやすく格のあるスーツを着ていた。大学用で見かける彼はもっと庶民的で親しみのある雰囲気を纏っている。


「今日はただ、付いて来ればいい」

「えっと……はい」


 改めてそんなことを言われ、千和はきょとんとぎこちなく頷いた。元よりボディーガードなのだから、そのつもりであった。その裏に仁なりの真意でもあるのだろうか。千和は顔をしかめる。


「モガリの雰囲気を感じろということだ」


 そんな千和に、今度は鷲田が短く言葉を投げやった。唐突なことに眉をもしかめて「えっ」と聞き返す。


「気は抜くな」

 疑問の核心を上手くかわした形で、鷲田は仁を追いかけて足早に去っていった。困惑を抱えたまま、千和も仕方なしに彼らを追った。

 乗り込んだ黒塗りの高級車は街の中心部、華やぐ繁華街へと向かう。車窓を過ぎる店店はどこも営業時間前のようで、準備で忙しない。

 時刻は十七時を過ぎたあたりだ。まだ空も明るく、昼間の気配がずるずると尾を引いている。ここから一気に宵が訪れればこの街は表情を変える。

 やがて目的地らしき複合ビルの前で車が停まった。無骨なビルには色んな形のネオン管がまとわりついている。もう少しすれば太陽の代わりに派手なネオンが騒ぐのだろう。

 そこに鷲田を先に立たせ仁が入っていった。千和も緊張を覚えつつそれに続く。

 ここの廊下は奥に長い。その両端に大学の教室のような部屋がいくつもあり、それぞれが店舗として独立しているようだった。準備のざわめきは聞こえるが、廊下にひとけはない。

 だがそんな中、廊下に座り込む男がいた。片手には途中まで空いた酒瓶が握られている。

 仁と鷲田はそれに目もくれず通り過ぎる。しかし千和が目の前を通った瞬間、男が突然千和の手首を掴んだ。


「おう? いい女連れてんな?」


 酔って朧げな男の目が、息を飲む千和を捉えた。欲を隠さない好奇に染まった視線が千和をすみずみまでなぞる。


「ねぇちゃん、俺とどうだ?」

「…………」


 冷めた視線で睨みつけると、不快な気持ちをそのまま腕にこめる。力のままに掴まれていた手首を本来とは逆方向に捻った。すると「ギャッ」という轢かれた猿のような声を上げ、男は痛みでうずくまった。そんなものは放置して、千和は駆け足で仁のところへと戻った。


「……すみません」

「問題ない」


 追いつくと涼しい顔で許される。その時仁が少し楽しげな表情を浮かべているのに千和は気が付かなかった。

 しばらく行くと、ビルの最奥らしき場所に辿り着く。そこでは鷲田がドアを解放して待っていた。


「ここが今日の目的地だ。千和は毅然としていればいい」


 室内に入る前にそう指示される。鷲田の助言と併せ、千和は今日の役割を薄々と理解し始めていた。

 照明が十分でない、窓無しの埃っぽい室内。カウンターと酒の詰まった棚があり、一見バーのような設えである。そして端に寄せられた赤い革張りのソファには目をぎらつかせた男が座っていた。


「京月さんか」


 その男の声はかなりがさついていて耳に障る。言葉の端から粗野な雰囲気が十二分に伝わってくる。


「お前の上司は?」

「奥でお待ちだ」


 アゴで店の奥を指す。下手に触れれば噛みつかれそうな猛々しさをまとっていた。


「…………」


 ゆっくりと歩を進める一行の中で、その男はじっと千和だけを見つめていた。千和も鋭い視線をいやと言うほど感じていた。たが先程の泥酔男とは違う、軽薄な視線ではなかった。

 店の奥は先程の店内とは打って変って、完全な個室で格式高そうな調度品がそろえられている。そんなVIPルームには男が一人、派手に飾られたイスに座って待ち構えていた。


「これはこれは。京月組の若頭が直々にいらっしゃるとは。こんな薄汚い場末までようこそ」


 くたびれたスーツでヒゲ面の男は自嘲気味に笑う。仁にイスを勧めるがそれは無視された。


「要件はわかってるな?」


 何も取り合わず、仁は問いかけた。

 すると男は怯んだように嘲笑を引っ込める。それも当然である。後方にいる千和でも仁のプレッシャーを感じたのだ。場は一気に重苦しい空気へと変貌した。


「……ええそりゃもう」


 それを受けて男は憎々し気に言い返す。


「これ以上は延ばせない。わかったか?」


 千和にとっては到底把握しきれない内容であるが、何やら取引のようだとぼんやりとした想像を膨らませていた。


「……ところで京月さんよ」


 男は僅かな反抗心を盾に食い下がるようだ。

 仁は答えないが、彼の沈黙は大方続きを促す合図である。男もそれをわかったように言葉を継いだ。


「こんな場所に固執していていいのか? こんなことしてる間に狙ってるモン、ライバルに奪われっちまうんじゃねぇか?」


 黙ったままの仁に対し少し気が大きくなったのか、男は唾が飛ぶ勢いで話し出す。


「俺らはどうせ下働きの下郎だからよ、結局お上が誰だろうが関係ねぇのよ。条件さえ悪くなきゃな。もしお宅のライバルがうちに好条件を提示して来たら何の未練もなく移らせてもらうからな。そういうルールだ、何も言わせねぇさ」


 もはや立ち上がり、身を乗り出さんばかりの男に、仁はふっと口元を緩めた。「なんだ、そんなことか」と冷たい憐憫の情を向ける。


「勝手にするといい。ここでの稼ぎなんてウチにとっては雀の涙にも満たない。さっさと見切らず、懇切丁寧に世話をしてやっているのは誰のお陰だったか思い出せ。そして、引き止められたいのなら、さらに成果を出せ」


 情も無しに言い放つと、話は終わったとばかりに踵を返した。


「――ッ、おいっ」


 男は青筋を浮かべて身を乗り出す。


「おい若頭、その女はなんだッ。初めて見る顔だな」


 しかし仁は取り合わずにさっさとVIPルームを出ていった。だが当の千和はキッと睨みつけるようにして男を振り返る。


「ボディーガード」

「――はっ、ボディーガード? お前が?」


 一言の返事に、男は千和をあざ笑うかのようにヒゲを持ち上げた。そして千和を舐め回すかのように見定める。


「見たとこ世間知らずのキレイなお嬢ちゃんだな。しかもとんだ美形。そんな女、看板になるために生まれてきたようなもんだろ? 京月なんかよりうちの方がお前の言い値で使ってやれるが?」

「…………」


 千和は黙ってツカツカと歩み寄る。


「……ほぅ、スタイルもいいな。肌も白いし質もいい。うちの客は見た目にうるせぇのが多いからな。はっ、どうだ? その気になったか?」


 男の目と鼻の先まで詰め寄ると、切れ長の目をキュッと細めた。


「――なぁ? 数年に一度の上玉ちゃん?」

 場違いなほど目じりを下げた笑みを向けられ、千和は全身の肌が粟立つのを感じた。


「……薄汚いのと一緒にしないで」


 テーブルに乗っていた男のずんぐりとした手首を外側に捻る。


「――ッ!?」


 男は痛みに息を飲むと、廊下のくだらない酔っ払いと同じようにイスに崩れかかった。

 千和は最後に汚物を見るような目で見下すと、その場を後にした。


「…………」


 足早に店内を通り抜けた時、初めにも見た獣のような男が「おい」と千和に声をかけた。

「……何か」


 顔をしかめてぶっきらぼうに答える。


「お前……面白い奴だな」

「……は?」


 予想だにしていない言葉に、店を出ようとした足が止まった。すると男が立ち上がるなり千和に近づく。安易な品定めではない、千和の中身を見透かすような真っすぐな視線だった。


「……あぁ、やっぱりそうだ。オレにゃ京月さんがお前を選んだ理由が分かるよ。ははッ、こりゃ面白くなりそうだな」


 男は満足げに笑みを漏らす。そしてそのまま奥の部屋へと消えていった。

 釈然としない中、千和はそれを振り切るように駆け足で仁の元へと急いだ。


「千和」


 少し進んだ先で仁と鷲田が待っていた。少し小さくなりながら駆け付ける。


「すみません、ボディーガードなのに……」

「何か言われても無視しろ。有事にいなくてどうする」


 千和にとっては違和感を覚えるほど、仁の暖かみが排除されていた。普段との差に心苦しく感じ、「気を付けます」と顔を俯けて言うことしかできなかった。

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