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明け待つ芍薬  作者: 烏野 佐枇
3章 深淵の数歩も手前
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深淵の数歩も手前(2)

 そして契約書は完成した。


「これでこの契約は有効なものとなる。お互い最善を尽くそう」


 にこやかな笑みと共に手が差し出される。二人は硬い表情のまま交互にその手を握った。


「ところで、呼び方なんだが」


 仁が思い出したように声を上げた。


「外で『先生』と呼ばれると困る時もある。学内でそう呼んでくれるのは構わないが、ここでの呼び方は変えてほしい」


 二足のわらじを履くこのモガリは、双子にとっては無論「先生」である。しかし本来の世界に戻れば「若頭」と呼ばれる人間。呼び名一つをとっても気にすべきことなのだろう。


「えっ……と、でもなんて呼べばいいんですか」


 理屈は理解した二人だが、戸惑って顔を見合わせる。


「名前でいい」


 事も無げに言う仁に、千和は口を薄く開いた。


「……京月さん?」

「それだと父と同じだ。他にも京月家の人間はいる。仁でいい」

「えっ」


 無意識に困惑が漏れ出た。


「……仁さん、ですか?」


 和泉が探るように問いかけた。教師を先生と呼称しないことに背徳心にも似た感情を覚える。


「仁、さん……わかりました」


 一方の千和は軽く俯き、感情を悟られないよう努めていた。和泉はそんな姉のことを盗み見て、やれやれと内心苦笑を浮かべた。仁は二人の素直さに満足げな表情を見せる。


「俺も君たちのことは名前で呼ぶ」

「えっ、名前で?」


 さらに告げられた言葉に千和は熱くなった顔を上げざるを得なかった。あまりに驚いたのか、魚のように口をパクパクさせながら、仁を見つめている。


「二人とも染原なんだ。名字で呼んだらわからないだろう」

「それは、確かに……」


 これまでは名字に付く尊称を分けて呼ばれることが多かった。しかしそれでは長いし煩雑である。それぞれの名前を呼ぶのが一番手っ取り早い方法だった。

 煩悶しているとそこにノックの音が降る。顔を出したのは鷲田で、仁を呼びに来たようだ。


「すぐに戻る」


 報告を受けた仁が部屋を去るなり、千和は「はーっ……」と長いため息を吐き出した。


「どうしよ和泉……」

「呼び方のこと?」


 和泉は意を汲み取って話を促した。

 契約云々よりも、今しがた起こった注目すべきことがある。千和はひんやりするテーブルに両手を添えて、何とか涼をとろうと奮闘していた。


「そう……何、仁さんって何? いきなり名前で呼べなんて……!」

「そう言ってたし、仕方ないじゃん」

「で、私は私で名前で呼ばれるの? 緊張する……」


 長く憧憬を注いできた相手と近しくなり、さらには呼称まで親しげに変化する。未熟な千和の心でも十分に狼狽える条件がそろっていた。


「でも、この前から千和って呼ばれてたけど?」


 和泉が半ば呆れたように言った。突然降って湧いた新たな事実に、千和の目が見開かれる。


「えっ、それは気づいてなかった……あの時は急展開すぎて気にしてられなかったし」

「ここ最近は京――仁さんの前なのに毅然とできてるなぁ、と思ってたら。名前一つでこれだよ……千和、これから仁さんの護衛につくんだよ? どうする気?」


 呼称を間違いかけた和泉は、華麗に言い直して苦言を呈した。自分たち二人以外の登場人物、特に千和が熱い視線を注ぐ人物などこれまで現れなかった。しかし今やそれが出現し、深く関係していく存在となった。和泉には単なる心配だけでなく、言い表しようのない不安も去来していた。

 そんな和泉の表情を見て、千和もようやく落ち着きを取り戻したらしい。ゆっくり目線を落として、深呼吸をする。


「護衛……契約、しちゃったもんね」

「うん……俺の傍にいるのとはわけが違う」

「でもいくら京――仁さんに憧れがあるからといっても、和泉のボディーガードの方が最優先。相手が一般人か、モガリかってだけ」

「京月組ほどのモガリに目を付けられてたなんて……俺らじゃ太刀打ちできない相手だよ」

「この前帰って調べたし、さっきも見たし……。業界ではほんとに名が通っているみたい。強大すぎる」


 一般人、もといなんの力も持たない二人は、京月組にしてみれば簡単に消せる程度の存在である。彼らの前ではまるで赤子同然なのだ。譲歩され、対等でいられていること自体が奇跡といえる。


「そんな相手に契約持ち掛けるのはさすがだね。さすが不利を解消するプロ」


 和泉はもの知り顔で言う。今までどんな不利な状況でも救われてきた和泉だからこそ、千和のそういった力量を信頼していた。この契約に名前を書いたのもそれが根底にある。


「不利なんて解消してなんぼのものでしょ。むしろ、そんなもの被らないが吉。今までは力技でなんとかできたからよかったけど。今回は少し焦った……こういう時のために勉強しとかなきゃって思ったわ。仁さんが吞んでくれて良かった」


 クールダウンしている最中、ドアが開いて仁が戻る。だが幾分か表情に硬さがあり、呼び出された話は良くないものだったのだろうと思わせた。


「待たせてすまなかった。今日の用事は以上だ。――あぁ、千和」


 ほっと体の力を抜くが、呼ばれた千和は瞬時にびくりと背筋を伸ばした。


「明日は少し時間をもらう。初任務だ」


 硬い表情のまま言われ、任務という言葉に空気が張り詰める。准教授である仁とは異なる人相に千和はささやかな畏怖を抱く。


「……わかりました」

「詳細は追って連絡する。明日は迎えに鷲田をやるから、それで来てくれ。一人でいい」


 本格的な起用を告げられ、双子はそれぞれ緊張の面持ちを浮かべた。

 やがて空っぽの家に明かりが灯る。鷲田に送り届けられ、やっと帰宅したのだった。時刻は二十時を回ったところ。遅めの夕食だが、手早く終わらせようと二人は慣れた様子で手分けして進める。

 調理担当の和泉は残り物の食材を使って適当に何品か作り上げた。時短料理にかけては和泉の方が達者である。

 その間に千和は残っている家事を終わらせる。洗濯やら掃除やら、煩雑なことが多いが和泉の準備が終わる前に済ませるのが密かなマイルールだった。

 そうして数十分が経ち、二人はようやく夕食にありつく。


「今日も一日お疲れ様」


 深い呼吸と共にそんな言葉が口を突く。いただきます、と小さく言葉を合わせてからはしばし無言が続いた。


「明日は家で静かにしてるよ」


 不意に和泉が言った。目線は手元に落ちていて、表情は伺えない。


「うん、そうして。ごめん」


 千和が傍に居ない以上、和泉一人で出歩くことはできない。家でじっと時間を潰すしかないのだ。


「千和のせいじゃないって。気を付けてね」


 和泉が顔を上げる。その大きな瞳は不安げに揺れていた。他人が見てもわからないほど微かなものだが、千和には読み取ることができる。そんな弟を安心させるようにふっと軽く微笑んでおく。


「もちろん。体力づくりに動いてくるよ」


 そしてあっと声を上げる。普段ありえない事ゆえに、失念しかけていたのを思い出したのだ。


「私いない時はちゃんと戸締りしてよ。あと異変は常に気にかけることね」


 自宅マンションにはオートロックが付いているとはいえ、油断はできない。これまでも幾度か予測不能の事件に巻き込まれたことがある。


「わかってるよ」

「いつも通り電話はすぐ出れるようにしておくから、何かあったら即連絡」

「それ、明日も同じこと言うでしょ」


 耳にタコができそう、と和泉は目線を流す。


「言うだろうけど、大事なことだし」

「……夜ご飯作っとくから」

「ん、よろしく」


 お互いどこか緊張し、ぎこちないままその夜は明けていった。

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