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明け待つ芍薬  作者: 烏野 佐枇
3章 深淵の数歩も手前
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深淵の数歩も手前(1)

 閉館間際のクーラーが利いた図書館。千和はその端の席を陣取り、夏の夕焼けを眺めていた。やがて太陽は沈むが、外の熱気は未だ和らいではいないだろう。見にまとわりつく熱を想像して、千和は無意識にため息をついた。

 普段であれば講義が終わり次第すぐに帰宅する。しかし昼間に呼び出しの連絡を受けたためにまだ学内に残っていたのだ。

 呼び出した張本人、雇い主の仁は現在准教授として勤務中。そのためこの時間まで待たなければ先方の用事を済ませられない。


「ねぇこれ見てよ」


 すると隣の和泉がなにやら分厚い本を差し出した。ここに来て二時間ほど。和泉は図書館ながらに黙って何かを読んでいた。


「『モガリ長者番付』……?」

「そう、国内で登録のあるモガリの長者番付。で、ここ」


 と指を差したところには『京月』の文字。


「六位……六位!?」


 はぁ? と和泉の手から本を引ったくると、穴が開くほどその字を眺める。それは何度瞬きしても変わらず、ただその事実だけを伝えていた。


「国内で有数にもほどがあるでしょ、なんでこんな大学で教授やってんのよ……」


 千和の剣幕に和泉は苦笑を浮かべる。


「本当にちょっとした暇つぶしなのかもね。別にここの教授職の収入無くても困らないだろうし」

「そうだろうけど、片手間で教授なんてできるんだ……それにしてもこの番付、凄いね」


 本を改めて見れば、各組の組織的な詳細、総資産、専門分野などあらゆる情報が記載されていた。

 それによると京月組の総資産はとんでもない値である。普通に生きていてまず目にしない桁の数字に千和は顔をしかめる。一桁ずつ数えるのも面倒なくらいだ。


「この前のレポート作る時にも参考したんだ。結構使える資料だよ」

「ふぅん。でもこの本ちゃんと信頼できる発行なわけ? モガリ資料ってそういうとこ難しいじゃん」


 情報や信頼が最重重要視されるモガリ社会では、こういった書物に関しても内部の息がかかっている可能性が高い。つまり各組の都合の良いように修正されていることも往々にしてあるのだ。


「んー、これは大丈夫だと思う。先生のおススメ参考資料でもリストアップされてたから。ちなみにこの出版会社を総括してるのは加美山組。……ほら、この四位の」

「えぇ、結局モガリの息かかってんじゃん……」


 再び番付のページを開いて和泉は指を添える。京月組の二つ上に『加美山』と記されていた。総資産は京月組のおよそ二倍。千和は目をぐるりと回す。


「なるほど、主な専門は出版、マスコミ系とリゾート系ね……手堅いわぁ」

「モガリの世界で出版は大きい存在だしね。まさに壁。変に手を出して変な情報流されたらたまったもんじゃないよ」

「それで言うと、京月組は金融とマスコミ方面か。加美山の方と被ってるけどマスコミも結構強くない?」


 狭い日本でマスコミ分野で競合しているとは、大きな波紋が想像できる。これが京月の言う〝争い〟の火種なのだろうか。しかし目下のところ、京月組と加美山組とは切っても切れない縁を感じる。


「強いと思う。でも、情報を握る二つの組がお互い穏健派なのはなかなか面白いよね。過激派だったら、ライバルの情報操作に余念が無さそうだし。穏健派だからこそ、ここを握れたのかもしれないけど」

「はぁ、モガリの世界って怖すぎ。そこまで上り詰めて、どうしたいのかねぇ」


 肩をすくめた千和は再び外へ目をやる。太陽の頭が少し見える程度になった。数分もすればとっぷりと暮れるのだろう。


「さぁなんだろうね。俺にもよく分からない。権力を持てば怖いものは無くなるんだろうけど、競争に追われることになるし。常に肉体と精神を酷使してまで得たいものって……なんだろう」


 考えるようにすっと目を細めたのを見て、千和は鼻を鳴らした。


「和泉にもわかんないなら私にもわかんないや」


 千和は投げやるように言う。考えたところで答えの出ないことに頭を使うのは趣味ではなかった。

 すると館内に穏やかな曲が流れ始めた。閉館が近い。


「さて、そろそろ行きますか。約束の時間ももうすぐだし」


 椅子から立ち上がるとぐっと背中を伸ばした。

 荷物をまとめて、和泉の資料返却にも付き添う。荷物を放置しようものなら何かが消える。和泉を放置しようものなら、図書館なので消えはしないが、盗撮くらいはされるだろう。

 大学を出て指定された人気のない場所まで行けば、黒塗りの車が停まっていた。運転席には鷲田ではない男が座っていた。少し警戒しながら近づくと、窓ガラスを開けて男が顔を覗かせる。


「染原だな」

「……はい」


 訝し気な目線を送ると、男は続けた。


「若に言われて迎えに来た。八重だ」


 銀縁眼鏡の奥で目線が鋭いが、その名乗りに千和の警戒は和らいだ。

 二人が乗り込むと、八重はアクセルを踏み込んで発進させた。お世辞にも上手とは言えない雑な運転に二人は顔をしかめて見合わせる。

 そんな運転で約四十分。先日も訪れた京月邸へと到着した。広大な土地を占領しているこの屋敷。門と玄関までの距離は車移動が適切である。ロータリーを通って、二人は玄関らしき場所で降ろされた。ドアの先には鷲田の姿があった。


「来い」


 その言葉に従って長い廊下や階段を進んでいく。

 何度か通らないと絶対に迷う豪邸だ。経路を叩き込もうと千和は懸命に記憶する。

 そして通されたのは先日と同じ部屋。ここは彼の執務室だという。


「急に呼び立ててすまない」


 京月は既に椅子に座っていて、書類を片付けているようだった。二人を見るなり顔を上げる。


「今日は例の契約書の確認で呼んだ。正式なものが出来上がったからな」


 大学から帰ったばかりのようで、京月の格好は校内で見かけたスーツのままだった。テーブルを挟んで近づくと、千和の心臓が少し早まる。

 二人は渡された書類を丁寧に確認していく。先日取り決めた内容が専門家の手によってすり合わされ、正式なものとして出来上がっていた。


「どうかな?」


 仁はただ講義内の問題を取り扱うかのような調子で問う。二人はついに差し迫った緊張感で唾を飲んだ。


「大丈夫、です」

「大丈夫です」

「じゃあ改めて署名を」


 以前も見た黒い万年筆が置かれる。仁の署名は先に記入されていたが、よくよく見れば署名欄が三つに増えていた。


「これ、和泉も書くんですか?」

「一応記入欄は用意した。だが和泉くんに関しては任せよう。直接的には関わらないからね」


 これは京月組と千和の、二者間での契約である。千和はパッと和泉の手を掴んで止めた。


「あんたはいい」


 和泉の口が抗議するように動くが、それよりも早く千和が言葉を継いだ。


「ここに名前があれば、何かあった時あんたにも影響が出る。でもここに何もなければ、やましい事があっても無関係でいられる」


 捲し立てるような姉の言葉に、和泉は取り合わなかった。仁を真っ直ぐに見つめて言う。


「……京月先生、千和には法に触れるようなこと、させませんよね」

「もちろん。そのつもりだ。そもそもうちは犯罪集団じゃない。少しばかり……顔が利くというだけだ」


 仁の言葉に、キュッと口を結んだ和泉は再び千和に向き直った。長年護られてきた者として、千和の人生を横で見てきた者として、この事態を彼女だけに背負わせる気はさらさらなかった。


「僕の名前がここにあろうと無かろうと、千和と繋がっている限り無関係ではいられないよ。それに、何より僕らは離れられないでしょ。だからせめて……一緒に」


 強固な意志は千和と同様だった。この状態の和泉に何を言っても、てこでも動かないのは千和も十分承知である。千和は苦々しい表情のまま和泉の手を自由にした。


「ありがとう」


 そして和泉は万年筆を握るとさらりと記名する。


「……私が和泉を護るのは変わらない。これからも」


 千和は呟くように言うと、和泉の横に自分の名を記した。似た筆跡で二人の名前が並んだ。

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