日常、盆に返らず(5)
すると仁は小さく咳払いをした。千和が心の中でもがいているのを見抜いているのだろう。
「あぁ、話がズレてすまなかった。では、もう一度単刀直入に言おう――染原千和、俺のボディーガードになりなさい」
穏やかながら圧のこもった口調。普段なら安心を得られるはずの仁はそこにいなかった。薄らと細められた目元が権力者としての底知れなさを感じさせる。
「……嫌です」
それでも千和は決意を崩さなかった。彼に淡く憧れていた気持ちにはとっくのとうに蓋をしている。かつてそういう対象であったとしても、和泉に危害を与え巻き込んだ今の彼は、千和の中では単に敵対する存在に成り下がっていた。
「――モガリだか二代目だか知りませんが、私は生まれながらにして和泉のボディーガードです。アイツ以外の人間には付きません」
する仁は体勢を崩し、背もたれに身体を預ける。ふぅ、と悩まし気なため息が千和の耳を撫でた。
「美しいまでに純粋で、恐ろしいほど空っぽだな」
「…………」
千和はその言葉に眉をひそめる。真意の表面さえも読み取れなかった。
「欲にまみれたこの社会では目立つ存在だ。良くも悪くも、ね」
「何のことですか」
「君が魅力的、ということだ」
一向に話が見えない現状に、千和は怪訝そうな表情を崩さない。
「初めに手をかけたのがうちでよかったな。他の組じゃここまで丁寧に扱われないぞ。選択肢さえ与えられない。和泉くんも無事ではなかっただろう」
「脅しですか」
「いや、事実だ。君らの住む世界と違って、ここは何でも合法の世界。財の力はそのまま権力の大きさ。モガリの権力の下では国家権力など塵芥。人一人を取り込んで、もう一人を社会から消すことくらい何ということはない。朝飯前だ」
教えを説くようにあくまでも穏やかに、そして同意を得る。それが仁の狙いらしい。
千和は唇を噛んだ。現状では和泉は実質的に人質と言える。下手な行動をすべきではない。
何しろ相手は自称穏健派とは言え、名のあるモガリ。先程の外堀を埋めるような発言も嘘ではないだろう。千和も社会学部の学生だ、彼らの手の内についての知識はある程度持っているつもりだ。こうなってしまえば、二者の力の差は目に見えていた。
「……お互い、危ない橋を渡ることになりますよ」
千和は意を決し、ある種の賭けに出た。握りしめる手に力がこもる。
「というと?」
「あなたは教授、私はその大学の学生。いくら自己責任が主流の高等教育でも、モガリの教授とそれに手を貸す学生なんて関係は不適切です。ましてやイメージが売りの私立大学で許容されたものではないでしょう。明るみに出ればお互い無事では済みません。私としても面倒事はごめんです。和泉も巻き込むことになる」
至って落ちついた声で淡々と語っていく。仁は千和の弁をどこか楽し気に聞いている。
「ああ、確かに。俺にとって教授職は片手間のものだが、慕ってくれている学生もいる。君のようなね。だから君らのためにも、急に姿をくらますことは極力したくないものだ」
不意に教授としての目線を向けられ、千和の心臓がどきりと跳ねた。だがそんな気持ちは奥底に押しやり、考え得る最後の一手を繰り出した。
「なので、契約を結びましょう。それに同意してくれるなら……ボディーガードの依頼を吞みます」
京月の眉が興味深げにぴくりと動いた。
「契約?」
「私がボディーガードになるのと交換で、京月組が守らなければいけないルールです」
沈黙で先を促されるので、千和は拳を握りしめ条件を伝える。
「この契約は相互的なものです。京月組が私を雇う旨と、こちら側からのそれに関する条件。こちらは和泉についてや、私たちの生活に支障が無いようにすることを条件として提示します。これを呑んでくれるなら……私もあなたの依頼を呑みます」
ほぼ即興で作り上げたものである。不備があるかもしれないという不安は付きまとっている。だから賭けなのだ。
すると仁はふっと口角を上げた。
「なるほど、さすが社会学部だね。法的なことも押さえているなんて。こんなに立派な学生がいて、教授たちはさぞ喜ばしいだろう」
言いながらドア付近に控えていた強面の男を呼び寄せると「契約書を準備しろ」と指示を飛ばした。
とんとん拍子に進む話に千和は驚くが、仁は笑みを湛えたまま言う。
「君の条件を呑もう。ご存じだろうが、なにも俺たちは非道な集団じゃない。相互的な信頼で成り立っている」
「……上辺は、ですよ」
苦々しく顔を歪めて呟く。モガリは空虚な言葉が飛び交う世界である。常にお互いが腹を探り合う、孤独な世界。千和たちが生きる世界とは空気が違うのだ。
「ふふ……お見通しだね」
指示された男が戻ってくる。机に置かれた上質な紙と黒く光る万年筆が、後戻り出来ない碇のようで、千和の手は微かに震えた。
「ひとまずは仮契約といこう。正式な書類は後日業者に作らせる」
仁は先程の条件を事細かに記し、千和もそれを確認する。全て終わったところで万年筆を差し出される。
「間違いが無ければ署名を」
「…………」
書類下部にある記名欄。達筆な整った筆跡で『京月 仁』と既に名が書き込まれていた。
ここに名前を書けば後戻りはできない。だが、書かなくても後が恐ろしい。グッと唇をかみしめると、押し付けるようにしてペンを走らす。
二人の名前が並んだ。
「これで準備は完了だ。改めて、君を京月組に歓迎しよう、染原千和」
満足したように立ち上がると、京月は真っすぐに手を差し出す。千和は一瞬ためらうが、結局立ち上がりその手を取った。
「私は、和泉のボディーガードです。契約した以上誠意は尽くしますが、それでも、あなたの護衛は二の次です」
強気な発言に京月は見透かすような視線を向ける。繋がる手に力が込められた。
「ここまでしても崩れないんだね。鋼の意志だ。面白いよ」
千和はそれに取り合わず、最優先事項を問いただした。
「和泉は?」
「あぁ、そうだった。鷲田」
再び部下に指示を出したところで、二人の手はようやく離れた。京月はソファに腰かけるが、千和は立ったまま京月を見おろす。
「それにしても、手荒な真似をして悪かったね。君の実力を鑑みて腕の立つ部隊を送ったんだ。丁重に、穏やかにいけとは伝えたはずだったんだが……。君たちとの交渉に向かわせたあの男、反省していた。少し頭に血が上ったそうだ。こちらでお灸は据えた」
千和の脳裏に神経を逆なでる軽薄な男が思い出される。不快な映像を締め出すように、目の前の仁をじっと見つめた。
「今後会うことはありますか?」
「あるだろう。仕事のときや、後はそうだね……必要であれば」
「そうですか。和泉の分、借りを返さないと」
ふつふつと沸き上がる怒りを抑えた低調な声で言うと、京月は高みの見物をするかのように優雅な笑みを零した。
「ふふっ、本気の君は怖いね」
その時背後の扉が開いた。瞬発的に振り向いた先に、探していた姿があった。
「和泉ッ」
「千和ッ! 無事なの?」
姿を捉えるなりお互いの声が上がる。駆け寄って来た和泉の外傷を探すように、千和の視線は忙しなく動く。
「私は平気。あんたは?」
「最後にやられた一撃で少しヒリヒリするくらい。――あぁでも大丈夫だよ!」
その言葉に一瞬にして千和の表情が険しくなる。しかし「大丈夫だから」と慌てたように言葉を足せば、千和のその表情も少しは和らぐ。
「和泉くんにも、少し説明しておこうか」
新たな声が降ってきたことで、和泉はそこで初めて仁の存在に気が付く。飛び上がらんばかりに驚いた和泉は目を丸くしている。
「えッ、京月先生!?」
「君も大概、千和に夢中だな。千和は君の護衛に加え、俺の護衛としても動くことになった。ちゃんとした同意の上でな」
和泉の端正な顔に困惑と驚愕の色がありありと浮かぶ。千和はため息混じりに口を開いた。
「京月先生、というか京月組はモガリらしいよ。先生はその若頭、ナンバーツー。なんか他の勢力とのいざこざで物騒らしいから、私に護衛の打診ってわけ。条件付きで呑んだ」
千和の端的な説明にも和泉は無言で目を見張る。
「ちなみに毎日、何時間も、という形にはしないつもりだ。必要があれば俺から呼び出す。こちらでも壁を本業とする奴らは多く雇っている。千和だけに負担は掛からない。それに、和泉くんの自由を奪わないようにこちらとしても気を使おう」
仁としてはかなりの譲歩と優しさを伝えているとだが、容姿端麗な双子はあらゆる感情が混ざり合っているようだった。どちらも複雑な顔をして仁からは目を逸らしている。
「さて、夜も遅い。せめてもの詫びに、自宅まで送らせよう」
二人の様子に可愛らしさを感じ、仁はついそんな指示を鷲田に飛ばす。教鞭を執るようになってからだろうか、こうした若い人間には弱くなったものだと心の中で自嘲した。
「京月先生」
すると難しい顔をしていた和泉が声を上げた。
「まだ、頭がごちゃ混ぜで理解しきれていませんが……千和に、一切の不利益を起こさないと約束してください」
不安が残る表情の中、その目だけは澄んでいて真っすぐだった。こちらも相当純粋に出来ているようだった。
「善処しよう、和泉くん」
仁は心の底からの笑顔を作った。彼らはとても綺麗で美しく、強く脆い。雑に触れてしまっては壊してしまいそうだ。輝く真っ直ぐな光。
それこそ仁の求めていたものだった。




