第6話 井戸のそばで
数日後の昼下がり。
市場からの帰り道、リナは井戸の前を通りかかった。
街の人々が水を汲み、洗濯をし、世間話をしている。
この街では珍しくない光景だ。
リナも足を止め、水面を覗き込んだ。
澄んだ水が陽の光を反射している。
その時だった。
「っ……」
小さな声が聞こえた。
振り向くと、井戸の脇で桶を持ったミアが顔をしかめている。
「ミア?」
「あ、リナさん」
ミアは慌てて笑顔を作った。
だが、その表情は少し引きつっていた。
「どうしたの?」
「なんでもないです」
そう答えたものの、桶を持つ手を見れば分かる。
指先に力が入りきっていない。
「手?」
リナが尋ねると、ミアは少し困ったように笑った。
「ちょっとだけです」
そう言って手を見せる。
指先の皮膚が小さく割れていた。
大きな怪我ではない。
だが水仕事をするたびに痛みそうだった。
「痛そう」
「慣れてますから」
ミアは苦笑する。
宿の仕事は想像以上に手を使う。
皿洗い。
洗濯。
掃除。
以前見た手荒れも、そのせいなのだろう。
リナは少し考えた。
そして宿の部屋に置いてある小さな容器を思い出す。
蜜蝋と油から作った保湿軟膏。
ネイルを作ろうとしていた時に偶然できたものだ。
自分では何度か試している。
悪くない。
少なくとも肌への刺激はなかった。
「少し待ってて」
「え?」
「すぐ戻るから」
そう言うとリナは宿へ向かって走り出した。
ミアは訳が分からないまま、その背中を見送る。
数分後。
リナは小さな容器を手に戻ってきた。
「これ」
ミアは首を傾げる。
「なんですか?」
「保湿用の軟膏みたいなもの」
「軟膏?」
「まあ、薬のようなものかな」
リナは苦笑した。
特別な効能を保証できるものでもない。
だが手の乾燥には良さそうだった。
「もし嫌じゃなければ試してみる?」
ミアは容器とリナの顔を見比べる。
少し迷った後、小さく頷いた。
「お願いします」
リナは少量を指先に取る。
傷口ではなく、その周りへ薄く伸ばしていく。
蜜蝋と油の匂いがほのかに漂った。
「これで終わり」
「早いですね」
「塗るだけだからね」
ミアは手を見つめる。
劇的な変化はない。
傷が消えるわけでもない。
それでも何度か指を動かした後、不思議そうな顔をした。
「なんだか突っ張る感じが少ないです」
「なら良かった」
リナはほっとした。
自分で試した時と同じ感想だったからだ。
「ありがとうございます」
「お礼を言われるほどじゃないよ」
たまたま作ったものだ。
それに、本当に役立つかどうかはまだ分からない。
ミアは容器を見つめる。
「こういうの作れるんですね」
「作れるというか……偶然できたというか」
「偶然?」
「本当は別のものを作ろうとしてたから」
ミアは意味が分からなかったらしく、くすりと笑った。
「変わってますね」
「よく言われる」
二人とも笑う。
井戸の周りでは相変わらず人々が行き交っている。
誰も二人のことなど気にしていない。
だがリナにとっては少し不思議な気分だった。
異世界へ来てから、自分の知識が誰かの役に立ったのは初めてかもしれない。
ほんの小さなことだ。
大した成果でもない。
それでも悪い気分ではなかった。
「無理しないでね」
リナが言うと、ミアは笑顔で頷いた。
「はい」
そう言って再び桶を持ち上げる。
先ほどより少しだけ表情が柔らかく見えた。
リナはその背中を見送りながら思う。
爪を彩ることはできなくても。
手を守ることなら、今の自分にもできるのかもしれない。
そんなことを考えながら、リナは井戸を後にした。




