第19話 見たことのある赤
市場は朝から賑わっていた。
ミアは宿の買い出しを任され、籠を抱えて歩いている。
昨日塗った赤はまだ残っていた。
親指の爪だけ。
小さな赤色だ。
仕事の邪魔になるほどではない。
けれど自分で思っていた以上に目立つらしかった。
「おや?」
野菜を並べていた店主が声を上げる。
「どうしたんだ、その爪」
ミアは思わず親指を見る。
今日だけで何度目だろう。
「ああ、これですか」
「珍しいな」
店主は身を乗り出した。
怪我だとは思わなかったらしい。
しばらく見つめたあと、
「貴族がやってるやつみたいだ」
と言った。
ミアは少し驚く。
「そうなんですか?」
「昔見たことがある」
店主は頷いた。
「祭りの日だったかな。領主様のところへ来ていた貴族の娘さんがな」
ミアは親指を見る。
貴族。
そんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「同じですか?」
「同じかどうかは分からん」
店主は笑った。
「でも色を付けた爪なんて、そうそう見ないからな」
その会話を近くにいた客が聞いていた。
「何の話だ?」
自然と輪に加わってくる。
そしてミアの親指を見る。
「おお」
予想していた反応だった。
「綺麗な色だな」
客は素直にそう言った。
ミアは少しだけ嬉しくなる。
昨日はよく分からなかった。
今もよく分からない。
けれど誰かにそう言われると悪い気はしなかった。
「宿屋の娘がそんなことする時代になったのか」
別の客が冗談めかして言う。
周囲から笑い声が上がる。
からかわれているわけではない。
ただ珍しいのだ。
それがミアにも分かった。
買い物を終えた頃には、何人もの人に声を掛けられていた。
全員が同じ反応ではない。
不思議そうな人。
興味を示す人。
特に気にしない人。
それでも誰も否定はしなかった。
宿へ戻ると、リナが食堂で帳簿を眺めていた。
「ただいまです」
「おかえり」
ミアは籠を置く。
そして椅子へ腰を下ろした。
「いっぱい聞かれました」
リナは笑う。
「やっぱり?」
「貴族がやるやつだって言われました」
その言葉にリナは少し興味を持った。
「へえ」
「知ってたんですか?」
「知ってた」
リナは頷く。
この世界へ来て間もない頃。
街で見かけた貴族の女性たち。
その手に色が付いていたことを覚えている。
前の世界のネイルとは違う。
もっと単純なものだった。
けれど確かに存在していた。
「じゃあ珍しくないんですね」
ミアが言う。
リナは少し考えてから答えた。
「貴族にはね」
「庶民には?」
「珍しいと思う」
ミアは納得したように頷く。
確かにそうだ。
市場の人たちは皆、初めて見るような顔をしていた。
「でも綺麗だって言われました」
その言葉にリナは少し嬉しくなる。
自分が褒められたわけではない。
それでも嬉しかった。
作ったものが誰かの目に留まった。
それだけで十分だった。
窓から午後の日差しが差し込む。
ミアはまた親指を見た。
小さな赤色。
昨日はただ不思議だった。
今日は少しだけ誇らしかった。
その様子を見ながら、リナは静かに思う。
貴族だけのものだったものが。
いつかもっと身近になる日が来るのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった。
けれど今はまだ始まったばかりだった。




