第18話 赤をのせる
朝の食堂は忙しかった。
宿泊客が朝食を終え、次々と席を立っていく。
ミアは皿を片付けながら歩き回っていた。
リナも手伝いに入っている。
ようやく一息つけたのは昼前だった。
「疲れたー」
ミアが椅子へ腰を下ろす。
その様子を見ながら、リナは少し迷っていた。
昨日完成した赤。
自分では何度も試した。
だが他人にはまだ使っていない。
誰かに試してみるなら。
やはり最初はミアだった。
「ミア」
「はい?」
「ちょっと頼みがあるんだけど」
ミアは首を傾げる。
「頼みですか?」
「少しだけ手を貸してほしい」
その言葉にミアは不思議そうな顔をした。
だが断る理由もない。
「いいですよ」
あっさり返事が返ってきた。
その日の午後。
二人は宿の裏庭にいた。
日当たりの良い場所だった。
リナは小さな容器を持ってきている。
ミアはそれを見ていた。
「これですか?」
「うん」
リナは頷く。
そして少しだけ緊張していた。
前の世界では何百人も施術してきた。
それなのに妙に緊張する。
たぶん理由は簡単だった。
この世界では初めてだからだ。
「痛くない?」
「痛くないよ」
ミアが安心したように笑う。
リナもつられて笑った。
「じゃあ手を出して」
ミアが右手を差し出す。
働き者の手だった。
少し前よりは荒れていない。
保湿軟膏のおかげだろう。
リナはその爪を見た。
そして慎重に赤をのせる。
ほんの少しだけ。
親指の爪だけだった。
ミアはじっと見ている。
「動かないでね」
「はい」
数分後。
リナは手を離した。
「終わり」
「もうですか?」
「もう」
ミアは自分の親指を見る。
赤い。
それが第一印象だった。
ただ赤いだけ。
けれど、それまで見たことのない赤だった。
「変ですか?」
ミアが聞く。
リナは首を横に振る。
「変じゃない」
「そうですか」
ミアは再び見る。
角度を変える。
光にかざす。
そして少し笑った。
「なんだか不思議です」
「不思議?」
「自分の手じゃないみたいです」
リナはその言葉に少し驚く。
前の世界でも似た反応を見たことがあった。
初めてネイルをした人の反応だ。
鏡を見る。
手を見る。
何度も見る。
自分なのに少し違って見える。
「嫌じゃない?」
「嫌じゃないです」
ミアは素直に答えた。
そして少し考える。
「綺麗かどうかは分かりません」
正直な感想だった。
リナは笑う。
「それでいいと思う」
今はまだそれで十分だった。
ミアはその後も何度か親指を見ていた。
仕事に戻っても。
水を運ぶ時も。
ふとした時に目が行くらしい。
その様子を見ながら、リナは静かに思った。
この世界にはまだない。
だからこそ面白い。
誰も知らないから。
誰も気付いていないから。
始まりはきっとこんなものなのだろう。
夕方。
西日を受けたミアの親指は小さく赤く見えた。
それを見ながらリナは少しだけ満足そうに笑った。




