第7話 手が届く
森の外れまで来ると、木々の向こうに土を踏み固めた一本道が見えた。
街道だ。
賢者の地図によれば、この道を西へ何日か行くと、旧都オーフェンという大きな街に出るらしい。
道端には日当たりのいいヨモギの群生があった。
夢中になって摘んでいると、遠くから何かが聞こえた。
金属がぶつかる音。
獣の唸り声。
人の怒鳴り声と、悲鳴。
ぼくは背嚢を担ぎ直して、立ち上がった。
「……助手くん」
肩越しにこちらを向いた助手くんに小声で言う。
「人前に出るなら、隠れていたほうがいい。ちょっとだけ、我慢してくれるか」
助手くんは一瞬、不満そうに揺れた。
それからくるくるとぼくの背中で丸くなり、シャツの下にすっぽりと収まった。
端から見れば、背中に少し肉のついた男にしか見えないはずだ。
初めて、助手くんを隠した。
それから音のするほうへ走った。
◆◆◆
街道の曲がり角を抜けた先は、ひどい有様だった。
横倒しになった幌馬車。
散らばった木箱と荷物。
土の上に点々と赤い染み。
灰色の影が何頭も森の中へ逃げ去っていくところだった。
ダイアウルフの群れだ。
道の上にはその何頭かが倒れていた。
そして人間たちも倒れていた。
剣を握ったまま膝をついている、大柄な男。
弓を抱えて木にもたれている女性。
地面に伏せたまま動かない、杖を持った女性。
ナイフを手に、ふらつきながら仲間に駆け寄ろうとしている若い男。
馬車の陰には身なりのいい中年の男性が、太ももを押さえて倒れていた。
そのそばで剣を手にした若い女性が、脇腹から血を流しながら、それでも男性を庇うように立っている。
護衛の冒険者と、商人の一行。
狼の群れをどうにか追い払ったところらしい。
ただし追い払った側も全員が深手だった。
「治療家です! 手当てをさせてください!」
叫んで駆け寄ると、ナイフの若者が振り返った。
目に警戒の色。
「ち、治療家……? 治癒師じゃないのか」
「治癒師ではありません。でも怪我の手当てなら専門です」
答えながら、ぼくの目はもう全員を見ていた。
◆◆◆
トリアージ。
大勢の負傷者を前にしたとき、誰から手をつけるかを決める。
救急の現場の、いちばん最初の、いちばん大事な仕事だ。
大柄な剣士。
腹部に深い裂傷。
顔色が紙のように白く、呼吸が浅い。
内臓に届いている。
最優先。
商人の男性。
太ももの開放骨折、出血多量。
それに胸を押さえている。
脈が乱れている。
最優先。
剣の女性。
脇腹の咬傷が深い。
立っているのは、気力だけだ。
最優先。
弓の女性。
前腕の骨折と咬傷。
待てる。
杖の女性。
頭を打って意識が朦朧としているが、呼吸は安定。
待てる。
ナイフの若者。
脚の咬傷。
自分で動ける。
「あなた、動けますね」
ぼくは若者の肩をつかんだ。
「なら、手を貸してください。この布でそこの女性の腕をこう押さえて。強く。離さないで」
「お、おう!」
背嚢から作り置きのポーションの瓶を取り出す。
五本。
剣士の腹の傷に一本。
開いた傷口を両手で寄せて、上から圧迫する。
商人の太ももには、ベルトで止血帯を巻いてもう一本。
骨の端が皮膚を破って覗いている。
剣の女性の脇腹に一本。
「……会頭を先に……」
女性がかすれた声で言った。
自分の傷より、主人の心配をしている。
「全員、診ます。だから座っていてください」
弓の女性の腕を整復して、添え木を当てる。
杖の女性の瞳孔を確かめる。
ここまでは、前の世界でも何度もやってきた手順だ。
手は迷わずに動いた。
――けれど。
四本目の瓶が空になったところで、剣士の呼吸が、ひゅう、と細くなった。
傷口を押さえた手のひらの下で血が止まらない。
商人の男性が胸をかきむしるようにして呻いた。
脈がまた飛んだ。
最後の一本を、どちらに使う。
剣士の腹を押さえたまま、ぼくは唇を噛んだ。
――このままじゃ、間に合わない。
両手が塞がっている。
止血を続けなければ、剣士が死ぬ。
けれど手を離さなければ、商人の心臓に届かない。
剣の女性の顔からも、どんどん血の気が引いていく。
あの日と、同じだ。
畳の上で手が届かなかった、あの日と。
◆◆◆
もぞ。
背中で何かが動いた。
シャツの襟元から助手くんの先端がにゅるっと顔を出した。
ぼくの耳元で先端をくいっと自分のほうへ曲げる。
それから空になったポーションの瓶を指してまた自分を指す。
――ぼくが作ったんだから、ぼくが出す。
そう言っていた。
顔はないのにはっきりと分かった。
「こら、引っ込んでなさい」
小声で押し戻す。
助手くんはしゅるんと襟元に引っ込んだ。
にゅるっ。
すぐにまた出てきた。
今度はさっきより勢いよく、ぶんぶんと先端を振っている。
「だからだめだって」
ぐいっと押し込む。
「……今、何か……そこに何か……?」
弓の女性の腕を押さえていたナイフの若者が、怪訝な顔でこちらを見た。
「気のせいです」
にゅるっ。
三度目だった。
助手くんはもう押し戻されまいと、ぼくの頬をぺちぺちと叩いていた。
急げ、と言っている。
剣士の呼吸がまた細くなった。
祖父の声が耳の奥で響く。
人間の二本の手じゃあ、目の前の一人しか救えねえ。
――手が届くところに命がある。
ここで手を伸ばさなかったら、ぼくは何のために二度目の人生をもらったんだ。
ぼくはひとつ息を吐いた。
「……みなさん」
顔を上げて、全員に聞こえるように言った。
「どうか、これから起きることは、他言なさりませんよう」
◆◆◆
シャツの裾から助手くんがずるりと這い出した。
ずるるるるるるっ。
背中から伸び上がった暗い緑の触手が、陽の光を浴びてぬらりと光る。
ナイフの若者が、声にならない悲鳴を上げて尻もちをついた。
「な、な、な、なんだそれぇっ!?」
「助手です。お気になさらず」
助手くんはすでに動いていた。
ぐぷっ、ぐぷぐぷっ……。
先端が膨らむ。
体内で何かを練り上げている。
――ギュイーン!
「今の音なに!?」
「ぼくにもわかりません!」
びゅるるるるるるるるっ!
助手くんの先端から、緑色の粘液が勢いよく噴き出した。
剣士の腹にどぷっ。
商人の太ももに、どぷどぷっ。
剣の女性の脇腹にべちゃあっ。
弓の女性の腕に杖の女性の頭についでにナイフの若者の脚にも。
びゅるっ、びゅるるっ、どぷぅっ、べちゃっ、ぼとぼとぼと……。
生産元からの、直接投与だった。
数秒後、街道の上には頭のてっぺんからつま先まで緑のぬるぬるにまみれた七人が転がっていた。
ぼくも含めて。
「……」
誰も何も言わなかった。
ただ、粘液をかぶった傷口からしゅわしゅわと細かな泡が立ちはじめていた。
◆◆◆
「助手くん、剣士さんの腹を頼む。傷口を寄せて、そのまま押さえて」
助手くんが剣士の胴にしゅるりと巻きつき、傷口をぴたりと閉じ合わせた。
にゅむ、にゅむ、と粘液を傷の奥へ押し込んでいく。
空いたぼくの両手で右手は商人の太ももへ。
骨の端をつかんで引いてずれを戻す。
ごり、と鈍い手応え。
整復。
左手は男性の胸に当てる。
乱れた拍動を手のひらで感じながら、背中の心兪のツボへ指を沈めた。
そのまま、助手くんの胴の一部をもう一度ひねって、剣の女性の脇腹にも、そっと巻きつけさせる。
両手と、助手くん。
三人を、同時に。
手のひらの下で、商人の脈が、とくん、とくんと落ち着いていく。
助手くんの巻きついた剣士の顔に、少しずつ赤みが戻ってくる。
剣の女性の浅かった呼吸が深くなる。
ぼくは気づけば笑っていた。
「……今度は足りる」
◆◆◆
出血は止まった。
全員、命はつないだ。
ただし、応急処置にすぎない。
剣士の内臓も商人の骨もまだきちんと治ったわけではない。
屋根のある場所で腰を据えて治療する必要があった。
横倒しの幌馬車に助手くんが巻きついた。
ぐぐぐ……ぐいっ、どすん。
大人が何人がかりでも動かなそうな馬車が、あっさりと起き上がった。
ナイフの若者がもう一度尻もちをついた。
逃げずに残っていた馬が一頭、怯えて嘶いた。
助手くんがそっと鼻面を撫でると、馬はぶるると鼻を鳴らして、おとなしくなった。
重傷の三人を荷台に寝かせ、弓の女性と杖の女性にも乗ってもらう。
ナイフの若者には自分の足で歩いてもらった。
荷台の上で商人の男性がうっすらと目を開けた。
「あなたは……いったい、何者、ですか……」
緑の粘液まみれの顔でぼくは答えた。
「通りすがりの、治療家です」
男性はしばらくぼくと、ぼくの背中で揺れる助手くんを見比べていた。
それから粘液でべとべとの顔のまま、かすかに笑った。
「バルデラマ商会の……ロドリゴ、と申します。……このご恩は必ず」
隣で剣の女性もぼくを見上げていた。
何かを言おうとして、言葉にならないまま、目を閉じた。
眠ったのだ。
呼吸は穏やかだった。
ぼくは御者台には上がらず、馬の轡を取って歩きだした。
馬車など走らせたことがない。
前の世界の往診は自転車だった。
それでも馬は助手くんにひと撫でされてから、ぼくの歩く速さにおとなしく合わせてくれた。
「さてはて。……おっぱじめますか」
本当の治療はこれからだ。
ぼくたちは庵へ向かった。
◆◆◆
『商会主は白膠木に感謝した』
『秘書は白膠木に感謝した』
【今日の「手」】手が届く:力や世話がそこまで及ぶこと。もう少しで届きそうなこと。
【治療家メモ】けが人が大勢いるとき、誰から手当てするかを決めることを「トリアージ」と言います。手当ての順番を決めるのも、救うための技術です。
――手が届くところに命がある。祖父の言葉が、一徹を動かしました。
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