↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/24

第5話 手入れ

 日が傾きはじめると、森は驚くほど早く暗くなる。


 今夜は川べりで過ごすことにした。


 まずは食料と火だ。


「助手くん、魚いるかな」


 言い終わる前に助手くんはもう川に潜っていた。


 ちゃぽん。


 ……しゅるん。


 ぴちぴちぴちっ。


 ものの数秒で銀色の川魚が三匹、河原の石の上に並んだ。


 どれも丸々と太っていて、鑑定によれば『食用可。塩焼きが美味』らしい。


 塩はないけれど。


 問題は火だった。


 ライターもマッチもない。


 木の枝をこすり合わせる錐揉み(きりもみ)式は知識として知っているが、やったことはない。


「……ものは試しか」


 乾いた枝を地面に立てて、両手で挟んでこすりはじめる。


 三分やって、煙ひとつ出ない。


 腕が先に音を上げた。


 すると助手くんがそっとぼくの手から枝を取り上げた。


 先端で枝を巻き込むようにくわえて――。


 ぎゅるるるるるるるるるっ!


 とんでもない速さで回しはじめた。


 十秒で煙が上がり、二十秒で火種が赤く光った。


 乾いた枯れ草に移すと、ぽっと小さな炎が立ち上がる。


「……ありがとう」


 助手くんはなんでもないというように、ゆらりと揺れた。


 ぱちぱちと爆ぜる焚火で串に刺した魚を焼く。


 皮がぱりっと香ばしく、身はふっくらと甘かった。


 塩がなくても十分においしかった。


 満腹になって、焚火のそばに横になる。


 頭上の枝の隙間に見たことのない星座が瞬いていた。


 月が二つあった。


 ああ、本当に別の世界に来たんだなと、そこでようやく実感した。


 助手くんがくるりとぼくの体の周りを囲うように丸くなった。


 夜の森で見張りをしてくれるらしい。


「おやすみ、助手くん」


 その夜は夢も見ずに眠った。



◆◆◆



 翌朝。


 目が覚めて、まずやることは決まっている。


「腕を前から上げて、触手の運動~」


 ぼくの自作の体操だ。


 前の世界で往診先のお年寄りでも無理なくできるようにと考えたものを毎朝欠かさず続けてきた。


 異世界に来ても体が覚えていた。


 ……触手の運動という掛け声は今朝、なんとなく口から出た。


 両腕を前から頭の上へ伸ばして、指先から足の先まで体をくねくねと波打たせる。


 首、肩、肘、手首、背骨のひと節ずつ、股関節、膝、足首。


 順番にゆらり、ゆらりと。


 これが背伸びと各関節の動的ストレッチ、それに体幹の運動にいいのだ。


 ふと横を見ると、助手くんがぼくの動きを真似していた。


 くねくね。


 いや、ぐねんぐねん。


 ぼくが一回くねる間に、助手くんは十回くらい波打っていた。


「……それはもう別の生き物の動きだな」


 いや、別の生き物なのだけれど。


 せっかくだから名前をつけよう、と思った。


「レィディオ体操666、だな」


 666号室の神様に敬意を込めて。


 深呼吸で締めると、助手くんも大きく膨らんでしゅうっと縮んだ。


 どうやら深呼吸のつもりらしい。



◆◆◆



 朝食の木の実を食べ終えたころ、助手くんが急にそわそわしはじめた。


 先端を森の奥へ向けて、くいくいと引っ張る。


 ダウジングのときと同じ動きだ。


 ただ、今度は水を探しているのではないらしい。


「どこか、行きたいところがあるのか?」


 くいっ。


 助手くんに引かれるまま、森を一時間ほど歩いた。


 木々の向こうに、空を切り取るような灰色の壁が見えてくる。


 山ではない。


 地平線の端から端までどこまでも続く巨大な岩の壁だ。


 その麓、森が途切れるあたりに一軒の小屋がひっそりと建っていた。


 石を積んだ土台に苔むした木の壁。


 煙突のついた屋根。


 小さな畑の跡と、薪棚。


 何十年も――いや、もっと長いあいだ、誰も住んでいないように見えた。


 小屋に近づくと、空気がふっと揺らいだ。


 見えない膜のようなものが、小屋をすっぽりと包んでいる。


 ――ピローン。


【鑑定】 結界:異形の神の加護を持つ者のみ通過可。


 助手くんがぼくの背中からするりと前に出て、膜に触れた。


 膜は水面のように静かに波打って、ぼくたちを中へ通してくれた。



◆◆◆



 小屋の中は思ったよりも整っていた。


 分厚い埃をかぶってはいるものの、寝台も机もかまどもそのまま使えそうだ。


 壁一面の棚には革表紙の本がぎっしりと並んでいる。


 乾いた薬草の束、すり鉢、瓶、刃物。


 誰かがここで、薬を作りながら暮らしていた跡だった。


 壁に曇った鏡が掛かっていた。


 袖で埃を拭うとそこに映ったのは、やはり昨日、川面で見た顔だった。


 目の下のクマはなく、肌には張りがある。


 こうして明るいところで見ると、間違いない。


「……十年、か」


 鏡の中の二十五歳のぼくが、少し照れくさそうに笑った。


 机の上には一冊の手記が置かれていた。


 表紙に名前はない。


 めくると几帳面な文字でこう綴られていた。


 この庵(いおり)を訪れた者へ。


 結界を越えられたということは、あなたは、私が生涯をかけて仕えた御方の加護を受けた者なのだろう。


 名も無き御方の祠(ほこら)が、大岩壁のふもとにある。


 今では誰も覚えていない。


 私もじきにここを去る。


 どうか、時折でいい。


 祠を清め、手を合わせて差し上げてほしい。


 この庵にあるものは、すべてあなたのものだ。


 ――名も無き、異形の神。


 あの暗い部屋で数千年、誰の手も握らずにいたと言っていた。


「……ちゃんと、いたんじゃないですか。あなたに仕えた人」


 助手くんがぼくの肩の上でじっと手記を見下ろしていた。



◆◆◆



 祠は庵から歩いて五分ほどのところにあった。


 大岩壁の表面を人ひとりが入れるほどの大きさにくり抜いた、小さな洞。


 入り口は蔦(つた)と苔にすっかり覆われていて、言われなければ気づかなかっただろう。


 蔦をかき分けると、奥に小さな石像が祀られていた。


 まんまるの球体に大きな目がひとつ。


 周りに短い触手がちょこちょこと生えている。


 ずいぶんと、可愛らしくデフォルメされていた。


「……似てますね」


 思わず笑ってしまった。


 あの神様を知っている人が、愛情をこめて彫ったのだと分かった。


 石像は苔と泥にまみれていた。


 足元にはとうの昔に朽ちた供物(くもつ)の皿が転がっている。


「さてはて、おっぱじめますか」


 腕まくりをした。


 まずは蔦を払う。


 助手くんが壁に張りついた根を一本一本丁寧に剥がしていく。


 ぼくは川から汲んできた水で石像の苔を洗い流した。


 柔らかい布で目のくぼみも触手の一本一本も、患者さんの身体を拭くように丁寧に拭った。


 洞の床を掃いて割れた皿を片付けて平たい石を据えて新しい祭壇にする。


 手入れが終わるころには、日が高く昇っていた。


 苔の下から現れた石像は、つややかな灰色をしていた。


 陽の光を受けて、単眼がほんの少しだけ緑色に光ったように見えた。


 祭壇に摘みたてのヨモギと、白い野の花と、赤い木の実を供える。


 それから両手を合わせた。


「約束どおり、来ましたよ」


 あの部屋で交わした約束。


 祀る場所があったら、必ず手を合わせに行く。


 花も供える。


 毎日だって。


「助手くんのおかげでなんとかやっていけそうです。……ありがとうございます」


 目を閉じる。


 森を渡る風が洞の中をそっと吹き抜けた。


 隣で助手くんも先端をぺこりと下げていた。


 手を合わせているつもりなのだろう。


 手は一本しかないけれど。



◆◆◆



『名も無き異形の神の祠が清められた』

【今日の「手」】手入れ:手を加えて整えること。草木や道具、体の手入れなど。

【治療家メモ】ラジオ体操は昭和3年(1928年)に始まりました。体を伸ばし、関節を順に動かすので、準備運動としてよくできています。「触手の運動」は、本家にはありません。


祠の神様の手入れは、助手くんが心をこめてやってくれました。

腕を前から上げて、触手の運動~。読者の皆さまもご一緒に。そして【ブックマーク】もご一緒にいかがでしょうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。