第4話 手探り
最初に感じたのは土の匂いだった。
湿った落ち葉と苔と、青くさい草の匂い。
目を開けると、見上げるほどの大木が何本も、空を覆うように枝を広げていた。
葉の隙間から細い光が斜めに差し込んでいる。
森だった。
それもただの森じゃない。
木の幹が妙に太く、ねじれていて空気がどこか重い。
遠くで聞いたことのない鳥が聞いたことのない声で鳴いている。
「……さてはて」
ゆっくりと上体を起こす。
後頭部にも背中にも、痛みはなかった。
ジャージの上下に往診用のスニーカー。
死んだときの格好のままだ。
ただひとつ、背中に違和感があった。
肩甲骨の間、胸椎の三番から七番あたり。
痛くはない。
凝っているのとも違う。
何かがそこに「ある」感じ。
施術中に患者さんの背中に触れて、ここに何かあるな、と指先が気づくときの、あの感覚を自分の背中で感じている。
――ピローン。
間の抜けた電子音と一緒に、目の前に半透明の板がふわりと浮かんだ。
【カルテ】 氏名:白膠木 一徹 年齢:二十五 状態:良好(転移直後) 特記:触手(一本)
「……カルテ?」
見覚えのある書式だった。
というか、ぼくが毎日書いていたものにそっくりだった。
「いや、これは厳密にはカルテじゃないな。ぼくら柔整師が書くのは施術録だ」
誰もいない森で思わずツッコんでいた。
職業病というのは死んでも治らないらしい。
年齢の欄に二十五とある。
書き損じだろう。
ぼくは三十五だ。
それよりも気になるのは特記の欄だった。
◆◆◆
ジャージの上を脱いでついでにTシャツも脱ぐ。
首をひねって、背中を覗き込もうとしたそのときだった。
視界の端を何かがにゅっと横切った。
暗い緑がかった黒。
腕くらいの太さで表面はしっとりと濡れたように光っている。
先端に向かって細くなり、裏側には小さな吸盤がきれいに二列に並んでいた。
それがぼくの肩越しに、ゆっくりと顔の前まで回り込んできた。
目はない。
顔もない。
なのにこっちをじっと見ている気がした。
「……」
「……」
しばらく、見つめ合った。
「……初めまして、だな」
触手の先端が、ぴくんと小さく跳ねた。
それからおずおずとぺこりと下を向く。
お辞儀をした。
たぶん。
「これはご丁寧に」
つられて頭を下げてから、我に返った。
背中に手を回して、根元を探る。
肩甲骨の内側、ちょうど真ん中から生えている。
皮膚との境目はなめらかで傷も腫れもない。
触れると、根っこが胸椎に沿って、肋骨や肩甲骨の裏側にまで広がっているのが分かった。
あの部屋で感じた熱の通り道、そのままだった。
「なるほど。……神様、本当に一本、くれたんですね」
世界最高の触手。
ぼくの最期の願いを、あの神様は文字どおりに叶えてくれたのだ。
◆◆◆
治療家として、まずやることは決まっている。
可動域の検査だ。
「はい、じゃあ前に倒してみましょうか。……はい、結構です。次は後ろに反らして」
患者さんにするのと同じ調子で声をかけると、触手は素直に動いた。
前へ、後ろへ。
右へ、左へ。
ぐるりと回旋。
どこまでも滑らかだった。
関節がないから引っかかりもない。
動かそうと思うより少し早く、思ったとおりに動く。
自分の腕よりもむしろ反応がいい。
「伸展は……」
伸びろと思った瞬間、触手はするすると伸びて、三メートル先の木の幹にぺたりと貼りついた。
「おお」
吸盤で幹をつかんだまま、くいっと引いてみる。
ぼくの体がずるずると前に引っ張られた。
牽引力も十分。
今度は太い枝に巻きつけて、体重を預けてみる。
ぼくの体がふわりと浮いた。
びくともしない。
「……すごいな、これ」
頭上の枝に、赤い木の実が生っているのが見えた。
手を伸ばしても跳んでもとても届かない高さだ。
届くかなと思っただけで、触手はもう枝の先に伸びていた。
器用に実をひとつもぎ取り、ぼくの手のひらにそっと載せてくれる。
――ピローン。
【鑑定】 赤い木の実:食用可。甘酸っぱい。
「鑑定まで……」
どうやら、触手で触れたものはカルテに書き込まれるらしい。
かじってみた。
甘酸っぱかった。
カルテは正しかった。
◆◆◆
木の実を三つ食べたところで喉が渇いていることに気がついた。
「水場、あるかな」
独り言のつもりだった。
触手がぴんと伸びた。
先端がゆらり、ゆらりと左右に振れる。
やがて、ある一方向でぴたりと止まって、くいくいとそちらを指し示した。
ダウジングだった。
半信半疑でついていくと、五分ほどでさらさらと水音が聞こえてきた。
岩の間を縫うように、澄んだ小川が流れている。
触手が水面に先端をつけた。
――ピローン。
【鑑定】 川の水:飲用可。冷たくておいしい。
両手ですくって飲んだ。
冷たくて、おいしかった。
カルテはまた正しかった。
ひと息ついて川べりを見渡したとき、ぼくは思わず声を上げた。
「――ヨモギだ」
見間違えるはずがない。
ぎざぎざの切れ込みのある葉、裏の白い産毛。
少し先にはスッとした香りのハッカまで茂っている。
触手が葉に触れる。
ピローン。
【鑑定】 ヨモギ(に似た草):薬草。止血・保温・鎮痛。もぐさの原料に最適。
「最適、って書いてある」
ヨモギがあれば、もぐさが作れる。
もぐさがあれば、お灸ができる。
知らない世界の知らない森の真ん中でぼくは初めて、ちょっとだけ泣きそうになった。
◆◆◆
ヨモギとハッカを摘めるだけ摘んで、川べりの岩に腰を下ろした。
触手は摘んだ葉を器用に束ねて、ぼくの膝の上に揃えて置いてくれた。
言わなくても、ぼくのやりたいことを先回りしてやってくれる。
これは腕というより――。
「助手、だな」
昔、うちの院にもいた。
言わなくても次のタオルを差し出して、患者さんの靴を揃えて、ぼくが手を離せないときには電話を取ってくれた。
「……触手、って呼ぶのも味気ないからね」
触手の先端がくいっとこちらを向いた。
「じゃあ、きみは今日から助手くんだ。よろしく、助手くん」
一拍おいて、触手がぶんぶんと左右に振れた。
犬の尻尾みたいに。
喜んでいる。
たぶん、ものすごく。
名も無き異形の神――そんな大層な触手のはずなのに、なんだか可愛かった。
◆◆◆
顔を洗おうと、川面を覗き込んだ。
水の中から、知らない男がこちらを見ていた。
いや、知っている。
ぼくだ。
ぼくのはずだ。
けれど、何かがおかしい。
目の下の、あの万年消えなかったクマがない。
眉間の縦じわもほうれい線もずいぶん浅い。
髪にはツヤがあって、白髪が一本もない。
どう見ても十年は若返っていた。
「……書き損じじゃ、なかったのか」
カルテの年齢欄を思い出す。
二十五。
――少しだけ、時間を返そう。
あの神様の、最後の言葉がよみがえった。
水面の中の、少し若いぼくの肩越しに助手くんがひょっこりと顔を出した。
顔はないけれど。
「……ありがたいことだなあ」
ぼくは川の水で顔を洗って、もう一度、空を見上げた。
◆◆◆
『名も無き異形の神の触手は『助手くん』と名付けられた』
【今日の「手」】手探り:見えないところを手でさぐること。見通しの立たないまま物事を進めること。
【治療家メモ】医師が書くのは「診療録」ですが、柔道整復師が書く記録は「施術録」と呼ばれます。一徹が思わずツッコんだのはそこです。
知らない森で、手探りの一日目。助手くんがいてくれて本当によかった。
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