第3話 手向け
願い、と言われて少し考えた。
生き返りたい、とは思わなかった。
梅田のおばあちゃんは無事だった。
院のことは気がかりだけれど、ぼくがいなくなったあともどうにか回っていくだろう。
人がひとりいなくなっても、世界はいなくなったなりに回る。
だからぼくが願えることはひとつしかなかった。
「もし次があるなら……また治療家として生きたいです」
単眼が静かにぼくを見ている。
「派手なことは要りません。どこかの町の片隅でもぐさを摘んで身体を鍛えて痛いところのある人の話を聞いて手を当てる。穏やかに人の痛みや苦しみに寄り添うような暮らしがしたい」
それから喉の奥に残っていた最後の思いをそのまま口にした。
「それと……どうか次の生は、手が足りないなんてことのない、ゆとりのある暮らしを――」
ぴたり、と。
部屋中の触手が、一斉に動きを止めた。
『……▲▲。■■、◎◎◎……!』
(手が足りない。……そうか。そうだったな。君は最期にそれを願ったのだったな)
緑の光がぐっと強くなった。
消えかけた蝋燭が最後に大きく燃え上がるように。
「あ、いえ、それはものの例えというか、慣用句で――」
言いかけたぼくの声は、ノイズの奔流にかき消された。
『■■■■、▲▲▲▲、××××……!』
(すまない。本当はもっと与えたかった。言葉を交わす力も技も加護も山ほど持たせてやりたかった。だが今の私に残っているのは、これだけだ)
何十本もの触手が、ぼくのほうへ伸びてきた。
けれどぼくに触れる前にその先から次々と光の粒になってほどけていく。
残ったのは、一本だけだった。
(ならば、せめて。この一本に、私の残りのすべてを注ごう。数は与えてやれない。だから格だけは――この世で最も優れた手を)
最後の一本が、ぼくの背中に回った。
左右の肩甲骨の、ちょうど真ん中。
胸椎のあたりにそっと先端が触れる。
熱い、と思った。
痛くはない。
温灸の熱が皮膚の奥へじんわりと沈んでいくときの感覚に似ていた。
熱は背骨に沿って根を張るように広がり肋骨の一本一本に、肩甲骨の裏側に、静かに染み込んでいく。
同時に身体の芯から何かが抜けていく気がした。
三十五年分の疲れ。
腰の鈍い重さ。
目の奥にこびりついていた寝不足。
(それから……少しだけ、時間を返そう。いまの私にはこれが精一杯だ)
球体が小さくなっていた。
さっきまで見上げるほどだった暗黒は、もうぼくの胸の高さもない。
緑の光は今にも途切れそうで表面のあちこちが砂の城のように崩れはじめていた。
「待ってください」
ぼくは思わず膝をつき、両手で球体を包むように触れた。
「そんなに使ったら、あなたが――」
(いいのだ)
ノイズはもうほとんど聞こえなかった。
意味だけがぼくの手のひらを通って、直接流れ込んでくる。
(数千年、誰の手も握らずにここにいた。最後に君の手を握れた。それで十分だ。……行きなさい、優しき人よ。今度は手が足りなくて泣くことのないように)
「……忘れません」
声が掠れた。
「あなたのこと、絶対に。向こうでもしあなたを祀る場所があったら、必ず手を合わせに行きます。花も供えます。毎日だって」
単眼が細くなった。
笑ったのだと、なぜか分かった。
(……ありがとう)
球体がほどけた。
無数の緑の光の粒が、ふわりと宙に舞い上がる。
蛍の群れのように部屋を満たして、それからゆっくりとぼくの背中へ吸い込まれていった。
手のひらの中には何も残らなかった。
――神様の手は思っていたより、ずっと温かかった。
足元から床が消えた。
落ちていく。
暗闇の中をどこまでも。
けれど、怖くはなかった。
背中の真ん中で預かったばかりの何かが、心臓と同じ速さで、とくん、とくんと脈打っていたから。
白膠木一徹の意識は、そこで途切れた。
◆◆◆
『白膠木は世界最高の触手を得た!』
【今日の「手」】手向け:神仏や亡くなった人に供えるもの。旅立つ人への餞別のことも言います。
【治療家メモ】助手くんが宿った肩甲骨のあいだには、「膏肓」というツボがあります。「病膏肓に入る」の膏肓で、昔は薬も鍼も届かない体の奥とされた場所です。
神様からの最後の手向けは、手が一本でした。
次回、ついに助手くんが動きます。【ブックマーク】しておいていただけると、更新を見逃しません。




