第2話 手を取る
ノックを二度。
返事の代わりに扉が音もなく内側へ開いた。
暗い部屋だった。
広さは分からない。
壁も天井も闇に溶けている。
その真ん中にそれはいた。
見上げるほど巨大な、黒い球体。
墨を何度も塗り重ねたような暗黒の表面に、ぼんやりと緑の光が脈打っている。
球体の中央にはぼくの背丈ほどもある目がひとつ。
周りからは数えきれないほどの触手が生えていて、ゆっくりと所在なさげに床を撫でていた。
どう見てもまともな神様ではなかった。
古い怪奇小説に出てくる名状しがたい何か、というやつだ。
単眼がぎょろりとこちらを向いた。
『……■■、▲▲▲××……?』
空気がざらりと震えた。
言葉ではない。
記号の羅列のような、壊れたラジオのノイズのような音だ。
なのに不思議なことに意味だけはすとんと胸に落ちてきた。
(……すまない。ひどい姿だろう。驚かせたかな)
「いえ」
ぼくは首を振った。
「驚くというより……圧巻ですね」
単眼がぱちりと瞬いた。
触手が何本か、戸惑ったように宙で止まる。
『▽▽……■××、▲▲▲、◎◎……』
(力のない神ですまない。この部屋を誰かが訪れるのは数千年ぶりなのだ。眷属も信者もとうの昔に途絶えた。神性など、もうほとんど残っていない。君に語りかけることすら、満足にできない)
ノイズが途切れ途切れになる。
言われてみれば、球体の緑の光は今にも消えそうな蝋燭のように弱々しかった。
触手もよく見ると、先のほうから少しずつ霧のように薄れている。
ずる、と何本かが力なく床に崩れた。
その姿はおぞましいというよりくたびれた老人のように見えた。
往診先で「もう何年も、誰とも話してないんですよ」と笑っていた、一人暮らしのおじいさんたち。
顔なんてないのに同じ気配をしていた。
「謝らないでください」
ぼくは一歩、前に出た。
「ぼくにはあなたがとても理にかなった姿に見えますよ」
『……■?』
「ぼくのいた世界には、千手観音という仏様がいましてね。千本の手を持っていて、その一本一本で、苦しんでいる人を救うんだそうです。阿修羅という神様にも、腕が六本ある。本気で誰かを救おう守ろうとする存在はどういうわけかたいてい腕が多いんです」
祖父の声が耳の奥でよみがえる。
――人間の二本の手じゃあ、目の前の一人しか救えねえ。
「それにぼくら治療家には『鬼手仏心』という言葉があります。手つきがどれほど恐ろしく見えても、その奥に相手を救いたいという仏の心があれば、それは慈悲の行いなんだ、と」
ぼくは床を撫でている触手の一本を見下ろした。
「あなたのその手も、きっと誰かの痛みを撫でるためのものだったんでしょう?」
単眼が大きく見開かれた。
触手がわなわなと震える。
緑の光が一瞬だけ強くなった。
『◎◎……! ■■■、▲×▽……!』
ノイズが乱れて意味がうまく届かない。
何かを伝えようとしているのに言葉の形にならない。
そのもどかしさだけが、ひしひしと伝わってきた。
「……無理しないでください。話すのがつらいなら」
ぼくはそっと右手を差し出した。
「触れてもいいですか」
少しの間があって、一本の触手がおずおずとぼくの手のひらに乗った。
ひんやりとしてしっとりと濡れていた。
けれど表面の下には、細かな筋繊維がびっしりと走っているのが分かる。
弱々しく、それでも確かに脈打っていた。
ぼくは患者さんにするのと同じようにその上にもう片方の手を重ねた。
手当て。
手を当てる。
治療の、いちばん古いかたち。
その瞬間、頭の中に光景が流れ込んできた。
――見たことのない光景、ではなかった。
ぜんぶ、ぼくの記憶だった。
小学三年の夏。
祖父が院で倒れた夜、たまたま通りかかった看護師さんが、救急車が来るまで心臓マッサージを代わってくれた。
開業したての冬。
インフルエンザで受付の人が休んだ日、昔の患者さんの奥さんが「暇だから」とふらりと現れて、一日中電話番をしてくれた。
往診の帰り、坂道で自転車ごと転んだ雨の日。
散らばった鍼箱と薬袋を見知らぬ中学生たちが黙って拾い集めてくれた。
柔道の団体戦。
足を痛めたぼくの代わりに、補欠の後輩が「行けます」と言って畳に上がってくれた。
――手が足りない、そう思った瞬間に、いつもどこからか誰かの手が差し伸べられていた。
ぼくはそれをずっと、運が良かっただけだと思っていた。
記憶の最後は梅田のおばあちゃんの家だった。
震える指で押した110番は、その位置情報から、たまたま近くを巡回していたパトカーに繋がった。
サイレンは驚くほど早く届いた。
男たちは逃げ出しおばあちゃんにはかすり傷ひとつなかった。
その全部の場面の端に緑の光がほんのかすかに灯っていた。
「……あなた、だったんですか」
声が震えた。
「ずっと、手を貸してくれていたのは」
『▲▲……■、××……』
(……たいしたことは、できなかった。ほんの少し、巡り合わせを寄せただけだ。誰も私を覚えていなかったが君はいつも誰かのために手を伸ばしていた。それが嬉しくてな。気づけば、目が離せなくなっていた)
ノイズまじりの声は、どこか照れくさそうだった。
(最後は間に合わなかった。すまない。あのご婦人を守るので精一杯だった)
「何を言ってるんですか」
ぼくは重ねた手に少しだけ力を込めた。
「梅田さんを守ってくれた。それだけで十分すぎますよ。……ありがとうございます。三十五年分、本当に」
単眼からぼろりと何かが零れた。
緑に光る、大粒の雫だった。
ひとつ、またひとつ。
床に落ちるたびに小さな光の輪が広がっては消えていく。
何千年ぶりに誰かに礼を言われたのだろう。
巨大な球体は子どものように震えながら、静かに泣いていた。
ぼくは手を離さなかった。
泣いている患者さんの手を途中で離す治療家はいない。
やがて触手の一本が、ぼくの手の甲をそっと撫でた。
『……■■。▲▲、◎……』
(……優しき人よ。私に残された力はもう僅かだ。だがそのすべてを君への手向けにしたい)
単眼がまっすぐにぼくを見た。
(願いはあるか)
【今日の「手」】手を取る:相手の手を握ること。親しみをこめて迎えること、手を引いて導くことも言います。
【治療家メモ】痛むところに思わず手を当てる「手当て」は、治療の原点だと言われます。触れられることで痛みが和らぐ仕組みは、医学でも研究されています。
一徹が最初に手を当てた患者さんは、神様でした。
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