第1話 猫の手も借りたい
――ぼくの背中から、太い触手が一本ずるりと這い出した。
暗い緑がかった黒で、ぬらぬらと濡れて、先端がゆらりと揺れている。
寝台の上の商人さんが、ごくりと喉を鳴らした。
「……本当に、これが治療なのですか」
「はい。見た目はかなり衝撃的ですけど」
先端を太ももの傷口へ。
ぬぷり。
「ひっ」
部屋の隅で、秘書の女性が息を呑んだ。
ずぶ……ずぶずぶずぶ……。
ぐちゅ。
ぐちゅぐちゅ。
みち、みちみち……。
「ほ、骨を……中からつないでいる……?」
「ついでに血管を伝って、上へ行きます」
どぅる、どぅるどぅる、どぅる……。
皮膚の下を、ぼこ、ぼこ、と小さな膨らみが這い上がっていく。
腹を過ぎ、胸へ。
――キュイン! キュインキュインキュイン!
「なんの音です!?」
「いや、ぼくにもわからんです」
――ガコンッ! ゴゴゴゴゴ……。
「今度はなんの音です!?」
「わかりません……!」
テレレレッテッテー!
「わかりません!!」
聞かれる前に答えた。
ずるるるるるるるるるる……ちゅぽん。
「……治りました」
商人さんは自分の胸に手を当てたまま、しばらく動かなかった。
「……軽い。胸が軽い。何年も胃が悪いのだと思っていたのですが」
「それ、胃じゃなくて心臓です」
「……え?」
断っておくが、ぼくは邪教の神官でも、触手の魔物でもない。
ただの町の治療家だ。
どうしてこうなったのか。
話は、ぼくが一度死んだ日までさかのぼる。
◆◆◆
「一徹。なぜ観音様には千本も腕があるか分かるか?」
腕のいい柔道整復師だった祖父は、施術台を拭く手伝いをしていた幼いぼくによくそう問いかけた。
「一つとして零れ落ちる苦しみを見過ごさないためだ。どれだけ『腕』を磨こうが人間の二本の手じゃあ、目の前の一人しか救えねえからな」
三十五年生きてきて、その言葉の本当の重みをまさか死に際に思い知る羽目になるとは思わなかった。
◆◆◆
白膠木一徹。
十一月生まれの三十五歳、独身。
早くに両親を亡くし祖父母に育てられた。
学生時代から祖父の営む鍼灸整骨院で助手を務め、高校を出ると専門学校で鍼灸と柔道整復を学んだ。
よその院で修行を積んで戻り、そのまま跡を継いだ。
祖父も祖母ももういない。
祖父が叩き込んでくれたのは柔道だけではなかった。
東北に源流を持つ古流――御留流。
甲冑を着たまま組み合う時代の技と、刀傷や落馬の骨折を手当てする術が、ひとつになって伝わってきた流派だ。
そこにヨガや中医術、ブラジリアン柔術まで節操なく齧ってきた。
おかげで人の身体のことなら、骨の一本から経絡の一筋まで、たいていは分かるつもりでいる。
柔道は三段。
中量級。
高校では全国に一歩届かなかった、その程度の腕前だ。
結婚を考えた人もいたけれど、自営業の時間はどうにも噛み合わなかった。
「あなたの手はいつも誰かのものだから」
――そう言って去っていった彼女をぼくは引き留められなかった。
朝から晩まで患者さんを診て、週に三度は往診に出て、夜は仕事帰りの人のために院を開ける。
忙しい日には決まって、猫の手も借りたいなんてぼやいていた。
そんな、どこにでもいる町の治療家だった。
◆◆◆
その日は火曜で午後いちばんの往診先は梅田のおばあちゃんの家だった。
八十を過ぎて膝を悪くしてからも、玄関先の鉢植えだけは欠かさず手入れしている人だ。
施術を終えて縁側で出がらしの番茶をいただいていたそのときだった。
ガシャン、と庭に面したガラス戸が割れた。
土足で上がり込んできたのは、目出し帽をかぶった若い男が四人。
手にはバールと刃物が一本。
最近ニュースでよく見る『トクリュウ』の、タタキというやつだ。
「金出せ、ババア!」
ぼくは湯呑みを置いておばあちゃんの前に出た。
「梅田さん、これで110番を。押すだけでいいですから」
スマートフォンを震える手に押しつける。
片手で電話をかけながら、もう片方の手でおばあちゃんを庇う。
それだけでぼくの両手は塞がってしまうからだ。
「さてはて……おっぱじめますか」
振り下ろされたバールの軌道から半身を外し、手首を取って、相手の勢いのまま畳に落とす。
二人目は懐に入って腰に乗せ、背中から床へ。
三人目の膝を払ったところで、遠くからサイレンの音が聞こえはじめた。
男たちに浮き足立った気配が走る。
ぼくは一瞬だけ、背後のおばあちゃんを振り返った。
四人目の姿が視界から消えていたことに、気づくのが遅れた。
ごっ、と後頭部で鈍い音がした。
視界が白く跳ねる。
膝が崩れる。
倒れ込む背中に、熱いものが深々と突き立てられた。
男たちの足音が割れたガラス戸の向こうへ遠ざかっていく。
◆◆◆
畳の目がすぐ目の前にあった。
後頭部の陥没。
たぶん頭蓋骨の骨折だ。
背中の刺し傷は肋骨の隙間から肺に届いている。
息を吸うたびにごぼごぼと嫌な音がする。
――ああ、これはまずいな。
治療家の頭が勝手に自分の身体を診ていた。
押さえるべき場所は分かっている。
止血の手順も分かっている。
けれど背中に回した手は、どうしても傷口まで届かなかった。
泣きじゃくるおばあちゃんの背中をさすってあげる手も、自分の命を繋ぎ止める手も、どちらも足りない。
「……無駄に頑丈な身体だと思ってたんだけどなあ」
口から出たのは血の泡まじりのかすれた声だけだった。
「おい、寝るなよ! 救急車来てるからな! 目ぇ開けろ!」
「先生、ああ、先生! 私なんかのためになんてことに……っ」
駆けつけた警察官の怒鳴り声と救急隊員の足音。
おばあちゃんの泣き声が、水の底から聞こえるように遠い。
――泣かないでください、梅田さん。
せっかく膝、良くなってきたのに。
冷えるとまた痛みますよ。
そう言いたかったのにもう声にならなかった。
どれだけ『腕』を磨いてもいざというときに伸ばせる『手』は二本しかない。
千手観音も阿修羅も、なんて合理的な姿をしていたんだろう。
忙しいときには猫の手も借りたいなんて言っていたけれど。
まさか最期に思うのが『手が足りない』なんてことだったとはなあ……。
それが白膠木一徹の、最後の思考だった。
白膠木一徹 享年三十五歳(死因:脳挫傷および失血死)
◆◆◆
「――1128405番でお待ちの方。13番窓口までお越しください」
気の抜けたアナウンスで目が覚めた。
黒いビニールレザーの、ところどころ破れたソファ。
白い蛍光灯。
等間隔に並んだ長椅子と番号札の発券機。
壁の掲示板には色褪せた『お手続きの流れ』の貼り紙。
どこからどう見ても市役所の待合室だった。
後頭部に触れてみる。
陥没も血も痛みもない。
背中にも刺し傷はなかった。
手の中には番号札が一枚。
『1128405』。
「……混んでるなあ」
思わず、うちの院の受付を思い出していた。
これだけ待たせるなら、予約制にすればいいのに。
13番窓口の向こうでは、くたびれたスーツの男がパイプ椅子に浅く腰掛け、バインダーをめくっていた。
「ああ、どうぞおかけください。……驚かれました? この番号。地球だけでも一日に十五万人ほど亡くなりますからね。これでも少しは落ち着いたんですよ。一時期、異世界転生がやたら流行りまして」
男は眠そうな目でこちらも見ずに続けた。
「色々システム化したんですけど、まだまだ転生の割り振りが大変でしてね。希望の世界を選んでいただけるほど、お役所仕事も細やかじゃないんです。まぁ大体は最期の願いとか終生願ったことを参考に振り分けられるんですけど……」
ぱらり、と書類がめくられる。
「えーと、お名前が白膠木一徹さん、ですね。珍しい苗字ですね――いや、珍しいのは苗字だけじゃないか」
男は書類から顔を上げ、ぼくを見てほんの少しだけ表情を歪めた。
「白膠木一徹さんは666号室です。担当の神様が転生先と恩恵について説明してくれますので。そこの階段から下へどうぞ」
ボールペンの先がフロアの隅の薄暗い階段を指した。
「はあ。ありがとうございます」
ぼくは頭を下げて階段へ向かった。
背中の向こうで男がぽつりとこぼす声が聞こえた気がした。
「『手が欲しい』ねぇ……本当にこの望みでよかったのかな、あの人……」
何のことだろう。
振り返りかけてやめた。
◆◆◆
コンクリートの階段は、降りても降りても終わらなかった。
階を重ねるごとに蛍光灯の数が減り空気は重く、冷たくなっていく。
人の気配はいつの間にかすっかり消えていた。
ようやく辿り着いた最下層の、さらに奥。
延々と続く殺風景な廊下を歩ききった、端の端の、そのまた端。
冷たい壁から切り取られたように古ぼけた木の扉が一枚だけぽつんとあった。
擦り切れた真鍮のプレートが、薄暗がりで鈍く光っている。
『666号室』
死後の世界にしては、ずいぶんとお役所じみた場所だった。
けれど扉の向こうから漏れてくる気配だけは、市役所のそれとは決定的に違っていた。
ぼくは小さく息を吐いて扉を叩くために手を上げた。
【今日の「手」】猫の手も借りたい:とても忙しく、役に立たない猫の手でも借りたいほど人手が欲しい、という意味です。一徹の人生は、ずっとこの状態でした。
【治療家メモ】柔道整復師は、骨折・脱臼・捻挫・打撲を手で整える国家資格です。ただし骨折と脱臼は、応急の手当てを除いて、医師の同意を得てから施術します。
一徹の物語、はじまりです。手が足りない人のお話に、しばしお付き合いください。
ここまでお読みいただきありがとうございました。もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、ページ下部の【ブックマーク追加】や【★★★★★(評価)】をポチッと押していただけると、執筆の大きな励みになります。




