第32話 手の鳴る方へ
治療院は七日に一度休みにしている。
休診日の朝、アンセルモさんは旧都の教会へ出かけることになった。
旧都の教会を預かるヴァレリオさんに、これまでの検分を伝えに行くのだという。
「ルチア様は、宿でお待ちを」
「いやです」
ルチアさんはきっぱりと言った。
「わたくし、下町を歩いてみたいのです。治療院の外の旧都を、まだ何も見ていません」
「ルチア様……」
「アンセルモ。わたくしは自分の足で街を歩いたことが一度もないのです」
アンセルモさんの眉が困ったように下がった。
しばらく黙ってから、壁際のイネスさんに向き直る。
「……秘書殿。ルチア様を頼めるか」
「わたくしが、ですか」
「そなたが一番しっかりしているように見える」
イネスさんは小さくため息をついた。
「……承りました」
そういうわけで、ぼくも荷物持ちとしてついていくことになった。
◆◆◆
荷揚げ場の通りには、朝から屋台が並んでいた。
焼いた肉の匂い。
揚げた芋の匂い。
甘く煮た果物の匂い。
ルチアさんは、通りの真ん中で立ち止まったまま動かなくなった。
「……イネス様。あれは、何ですか」
「串焼きです」
「くしやき」
「肉を串に刺して焼いたものです。……召し上がったことは」
「ありません。大聖堂では、決まった刻限に決まったものしか出ませんでしたから」
イネスさんは黙って銅貨を出して、串を一本買った。
ルチアさんに差し出す。
「熱いので気をつけて」
ルチアさんは両手で串を持って、おそるおそるかじった。
金の輪がふわっと広がった。
「……おいしい」
屋台の親父さんが胸を張った。
「そうだろう、そうだろう! うちの串は旧都一だ!」
「……真です」
「聞いたか、おい! 聖女様のお墨付きだ!」
隣の屋台の親父さんが負けじと串を突き出してきた。
「いやいや、うちのほうが旧都一だ!」
「……偽です」
通りがどっと沸いた。
隣の親父さんは頭を抱えてしゃがみこんだ。
イネスさんはこめかみを押さえていた。
「ルチア様。思ったことを全部口にされなくてもよいのです」
「でも、真偽を問われましたので」
「問われていません」
◆◆◆
通りを抜けると、長屋の並ぶ路地に出た。
どの家の軒先にも小さな棚が吊ってある。
中には木を削ったまんまるのひとつ目。
その下に小さな賽銭箱。
ルチアさんの足がまた止まった。
「……ヌルデ様。これもあの方ですか」
「みたいですね」
いつの間にかこんなに増えていた。
ぼくが彫ったのは治療院の分霊ひとつだけのはずなのだけれど。
長屋のおかみさんが洗濯物を干しながら教えてくれた。
「先生んとこの神様を、うちらも真似して祀ってんのさ。賽銭は月にいっぺん集めて、先生の治療院へ持ってくんだよ。払えない人の治療代にしてもらうのさ」
「……真です」
「そりゃあ真だよ。嘘ついてどうすんのさ」
おかみさんはからからと笑った。
ルチアさんはしばらく棚の中のひとつ目を見つめていた。
それから自分の巾着から銅貨を一枚取り出した。
ちゃりん。
ぱん、ぱん。
両手を合わせて指をにょろにょろさせる。
路地の人たちとまったく同じ仕草だった。
「ルチア様」
イネスさんの声が少し低くなった。
「審問官の方が異形の神に手を合わせてどうするのですか」
「……いけませんか」
ルチアさんは首をかしげた。
「ここで聞いた言葉は、全部本当のことでした。大聖堂では、そうではありませんでしたから」
イネスさんは何か言いかけて口を閉じた。
ぼくも何も言えなかった。
◆◆◆
路地の先の小さな広場で子どもたちが遊んでいた。
一人が目隠しをして、両手を前に出して歩いている。
その周りを、ほかの子たちが手を叩きながら逃げ回る。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」
「鬼さんこちら!」
ルチアさんは目を丸くして見ていた。
「あれは何の儀式ですか」
「遊びです」
子どもたちがぼくに気づいた。
「あ、巨人の先生だ!」
「先生も入る?」
「ぼくは見てるよ。……代わりにこのお姉さんはどうかな」
ルチアさんの背中をそっと押した。
あっという間に子どもたちに手を引かれていった。
目隠しの布がルチアさんの目に巻かれる。
金の輪の浮かぶ瞳が布の向こうに隠れた。
「……何も見えません」
ルチアさんの声が少しだけ震えた。
「見えないのは、生まれて初めてです」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん! 音のするほうに来ればいいの!」
ぱん、ぱん。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」
ルチアさんが一歩を踏み出した。
ふらり。
もう一歩。
ぱんぱん。
「こっちだよー!」
ルチアさんの口元がゆるんだ。
「……こっちですね!」
子どもたちがきゃあきゃあと逃げ回る。
ルチアさんも両手を前に出して追いかける。
つまずいて笑う。
また立ち上がって笑う。
聖女様の顔ではなかった。
ただの十八の女の子の顔だった。
イネスさんが少し離れたところでその様子を見ていた。
いつもの無表情がほんのわずかにやわらいでいる。
ぱん。
イネスさんが一度だけ手を叩いた。
ルチアさんの顔がくるりとそちらを向いた。
ぱたぱたと駆けてきて、イネスさんの腕をつかむ。
「つかまえました!」
目隠しの布をほどく。
金の輪がすぐ目の前のイネスさんの顔を映した。
くるくると回る。
それからぼくを見た。
またイネスさんを見た。
「……まあ」
ルチアさんの顔がぱっと明るくなった。
「イネス様は、ヌルデ様のことを――」
イネスさんの手が、目にも止まらぬ速さでルチアさんの口をふさいだ。
「むぐ」
◆◆◆
広場がしんとした。
子どもたちまでぽかんとしている。
イネスさんはルチアさんの口をふさいだまま、にっこりと微笑んだ。
見たことのない種類の笑顔だった。
「ルチア様」
「むぐ」
「見えても、言わないでくださいね」
ルチアさんがこくこくと頷いた。
すごい勢いで頷いた。
イネスさんの手がゆっくりと離れる。
「……あの」
ぼくはおそるおそる口を挟んだ。
「何の話です?」
「イッテツ様には関係のないことです」
即答だった。
「……関係ないんですか」
「ございません」
ルチアさんの金の輪が、イネスさんとぼくのあいだを行ったり来たりした。
それから両手でぎゅっと自分の口を押さえた。
◆◆◆
夕方、ルチアさんを宿まで送った。
宿の前で、ルチアさんはぺこりと頭を下げた。
「今日、わたくしは二つのことを覚えました」
「二つですか」
「手の鳴る方へ行くこと。それから、見えても言わないこと」
ルチアさんはイネスさんを見上げた。
イネスさんはそっぽを向いていた。
耳の先が、夕日のせいか赤く見えた。
「見えても言わないことは、見ないこととは違うのですね。……わたくし、ずっと見ないことしか知りませんでした」
ルチアさんはもう一度お辞儀をして、宿に入っていった。
帰り道、イネスさんに聞いてみた。
「イネスさん。結局何が見えたんでしょうね」
「存じません」
「でも、ルチアさんは――」
「存じません」
イネスさんは足を速めた。
ぼくは首をかしげた。
背中で、助手くんがなぜか小刻みに震えていた。
笑っているように見えたのは、たぶん気のせいだ。
◆◆◆
『ルチアは下町と親密な関係になった』
【今日の「手」】手の鳴る方へ:目隠し鬼の「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」から。手を叩いて、こっちだよと呼ぶ遊びです。
【治療家メモ】目を閉じて片足立ちをすると、急に難しくなります。体のバランスの多くを、目に頼っているからです。
聖女さま、生まれて初めての「見えない」体験。そしてイネスさんの、そっぽ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。【ブックマーク】の鳴る方へ、どうぞ。




