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第31話 手を焼く

「アンセルモさん。首、診ましょうか」


「要らぬ」


 検分の二日目だった。


「アンセルモさん。腰、温めましょうか」


「要らぬ」


 三日目。


「アンセルモさん。せめて湿布だけでも」


「要らぬと言っている」


 四日目。


 アンセルモさんは相変わらず体ごと向きを変えていた。


 左の首は日に日に固くなっている。


 右の腰も、座るたびに小さく息を詰めていた。


 ぼくの目には、もう痛みの地図がはっきり見えている。


 見えているのに、手が出せない。


 こういうのを手を焼くと言うのだろう。



◆◆◆



 四日目の昼、アンセルモさんは待合を出て、下町の聞き取りを始めた。


 狙いは、あの大火事の夜の話だった。


 あの夜、ぼくは人前で助手くんを解き放った。


 その一部始終を、下町の皆が見ている。


 最初に呼び止められたのはリリアさんだった。


「酒場の女将よ。大火事の夜、ヌルデの背から何が出た」


 リリアさんは腰に手を当てて胸を張った。


「さあねえ。あたし達は慣れない手当てで忙しかったからね。何も見ちゃいないよ」


「……偽です」


 ルチアさんが申しわけなさそうに言った。


 リリアさんの胸がすうっとしぼんだ。


 次はヴィオレッタさんだった。


「わたくし、あの夜は煙で目をやられておりまして。何も見ておりませんの」


「……偽です」


 ゴンサロさん。


「酔ってたからな。何にも覚えちゃいねえ」


「……偽です」


 ブルーノさん。


「見てねえ」


「……偽です」


 ブルーノさんは腕を組んだまま天を仰いだ。


 待合の戸口から声をかけた。


「あの、皆さん。もう見られて困ることは何もないので、大丈夫ですよ」


「……そうだったな」


 ブルーノさんがばつが悪そうに頭を掻いた。


「先生のことになると、つい口が勝手に守っちまう」


 ルチアさんの金の輪がそっと細くなった。


「……真です」


 アンセルモさんは帳面に何か書きかけて、やめた。



◆◆◆



 五日目の夜明け前。


 門の前に立っていたのは、ルチアさん一人だった。


 髪も結わずに、肩で息をしている。


「ヌルデ様! アンセルモが……アンセルモが、起き上がれないのです!」



◆◆◆



 二人の宿は、内側の城壁に近い巡礼宿だった。


 狭い部屋の寝台で、アンセルモさんが仰向けに固まっていた。


 首が左に傾いたまま動かない。


 顔は脂汗で光っている。


「……来るな、と言ったはずだ」


「言われてませんよ」


「……今、言った」


 声を出すだけで首に響くらしい。


 寝違えだった。


 それも、長旅で溜めこんだ首と腰の疲れの上に、どかんと載った寝違え。


 これは痛い。


 ぼくはアンセルモさんの額にそっと指を当てた。


 ――ピローン。


【カルテ】 氏名:アンセルモ 年齢:四十八 状態:急性の寝違え(左頸部)、腰椎のずれ(右)、慢性の肩こりと腰痛(十年もの) 特記:我慢強い。強すぎる。


 カルテにまで言われていた。


「アンセルモ」


 ルチアさんが寝台の脇に膝をついた。


「お願いです。もう痛まぬとは言わないでください」


 アンセルモさんはしばらく天井を睨んでいた。


 それから絞り出すように言った。


「……頼む」



◆◆◆



 まずは桶の水で手を洗った。


 いつもと同じに、指の股から爪の間まで。


「首は今は触りません」


「……首が痛むのだぞ」


「痛めたばかりの首を揉むと、かえって腫れるんです。まずは手から」


 ぼくはアンセルモさんの右手を取った。


 手の甲の人差し指と中指の骨のあいだ。


 指の付け根から少し戻ったところに、小さなくぼみがある。


「ここに、落枕という経穴があります。枕から落ちる、と書いて落枕。寝違えのための場所です」


「……なぜ手に打つ。痛むのは首だ」


「首に聞くより手に聞いたほうが早いこともあるんですよ」


 ミスリルの鍼をすっと打つ。


 つぷ。


 鍼の頭に特級もぐさを載せて火を点けた。


 ふわん。


 アンセルモさんの手の甲に、淡い緑の魔法陣が浮かんだ。


「……っ」


「ゆっくり息を吐いてください。吐きながら、ほんの少しだけ顎を右へ」


 アンセルモさんの首がじわりと動いた。


 指一本分。


 二本分。


「……動く」


「もう少し」


 三本分。


 アンセルモさんの目がわずかに見開かれた。



◆◆◆



「では、次は腰です。うつ伏せになれますか」


「……腰もやるのか」


「首の寝違えは、腰をかばって寝たせいでもありますから」


 助手くんが背中から伸びて、アンセルモさんの体をそっと抱えた。


 ごろん、と転がしてうつ伏せにする。


「ひっ」


「大丈夫です。助手くんは力持ちなので」


 ぬるぬるのポーションを首から腰まで薄く塗り広げる。


 ぬちゃ。


 ぬちゃぬちゃ。


 背骨の両脇を親指で下からたどっていった。


 腰のあたりで骨が一つ右へずれている。


「少し音がします」


「音……?」


 ぼくは体重を乗せて、ずれた骨を押しこんだ。


 ボキッ。


 ボキボキボキボキッ。


「ぐおっ……!」


 ――テレレレッテッテー!


「今の音は――」


「判定、できません!」


 ルチアさんが聞かれる前に答えた。


 助手くんがアンセルモさんの腰に、先端の吸盤をぺたりと吸いつけた。


 吸い玉の代わりだ。


 古い血の滞りを皮膚の上から吸い上げる。


 ずぞぞぞぞ……。


 ぎゅいんぎゅいん。


 ――ヴォオオオオオオオッ!


「獣!? 獣の声が!?」


「ここには助手くんしかいません」


「その助手が恐ろしいのだ!」


 ぽこぽこぽこ。


 ぴろりろりーん。


 ちゅぽん。


 助手くんの吸盤が離れた。


 腰には丸く赤い跡がひとつ残っていた。


「……治りました」



◆◆◆



 アンセルモさんはゆっくりと寝台に起き上がった。


 首を右へ回す。


 左へ回す。


 上を向いて、下を向く。


 それから立ち上がって腰を伸ばした。


 しばらく何も言わなかった。


「……十年だ」


 ぽつりとアンセルモさんが言った。


「ルチア様の護衛についてから十年。首と腰が痛まぬ朝は、一度もなかった」


「よく我慢されましたね」


「……我慢していたつもりはなかった。痛むのが当たり前だと思っていた」


 アンセルモさんは自分の右手の甲を見下ろした。


 鍼の跡はもう消えかけていた。


 それから、ぼくに向き直った。


 首を回して、まっすぐに。


「ヌルデ。……礼を言う」


「……真です」


 ルチアさんが目をこすりながら言った。


 声が少しだけ震えていた。


 アンセルモさんはばつが悪そうに咳払いをした。


「……審問は続けるからな」


「どうぞ、ご自由に」


 助手くんが得意げにくねっていた。



◆◆◆



 その日の昼過ぎ、アンセルモさんはいつもの待合の隅に戻ってきた。


 帳面を膝に載せて、背筋を伸ばす。


 入ってきた患者さんのほうへ、首だけをくるりと向けた。


 待合がざわついた。


「お、審問官の旦那。首が回るようになったじゃねえか」


 順番を待っていたブルーノさんが、にやりと笑った。


「……回る」


 アンセルモさんはむすっとしたまま答えた。


 リリアさんが店から冷たい麦湯の壺を提げてきた。


 黙ってアンセルモさんの前に湯呑みを置く。


「……これは」


「首が治った祝いだよ。毒なんか入ってないからね」


「……真です」


 ルチアさんが言うより先に、アンセルモさんは湯呑みを干していた。


 リリアさんはふんと鼻を鳴らして店へ戻っていった。


 口の端が少しだけ笑っていた。



◆◆◆



『アンセルモは白膠木に感謝した』

【今日の「手」】手を焼く:扱いに困ること。どうにも手に負えないこと。

【治療家メモ】痛めたばかりの首は、揉むとかえって悪くなることがあります。まずは安静にして冷やし、強い痛みが落ち着いてから手を入れるのが基本です。


アンセルモさんには、なかなか手を焼かされます。首にも、性格にも。

「アンセルモさん、頑固だけど好き」という方は、【★評価】で応援を。

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