第30話 一挙手一投足
夜明け前に、治療院の裏口を開けた。
井戸で顔を洗おうと思ったのだ。
門の前に、人影が二つ立っていた。
「……おはようございます」
「おはようございます、ヌルデ様」
ルチアさんが眠そうな目をこすってお辞儀をした。
その横で、アンセルモさんが腕を組んでいる。
「朝から晩まで、と申したはずだ」
「申してましたね」
「起きる刻限から検める」
まだ鶏も鳴いていなかった。
◆◆◆
朝の広場に、今日も百人が集まった。
昨日の騒ぎを聞きつけたのか、いつもより少し多い。
皆、門の脇に立つ審問官の二人をちらちらと見ていた。
「腕を前から上げて、触手の運動~」
ブルーノさんの号令で、百人がくねくねと揺れはじめる。
アンセルモさんの眉間に深い皺が刻まれた。
「……これは異形の神への祈りか」
「体操です」
「……真です」
ルチアさんが答えた。
それから、百人のくねくねをじっと見つめた。
金の輪がくるくると回っている。
「ヌルデ様。これをすると、どうなるのですか」
「体がほぐれます。朝いちばんに関節を動かしておくと、一日怪我をしにくくなるんです」
「……真です」
ルチアさんが一歩前へ出た。
もう一歩。
気がつけば、列のいちばん端に並んでいた。
「ルチア様!?」
「アンセルモ。真なのですから、やってみなくては」
ルチアさんは見よう見まねで腕を上げた。
くね。
くねくね。
ぎこちない。
隣にいた荷役の若いのが、にかっと笑った。
「お嬢ちゃん、腰から回すんだよ。腰から」
「こ、腰から……!」
くねくねくね。
「そうそう、うまいうまい!」
周りの女将さんたちまで手を叩きはじめた。
ルチアさんは真っ赤になりながら、最後まで揺れ続けた。
アンセルモさんは片手で顔を覆っていた。
指の隙間から、深いため息が漏れた。
◆◆◆
治療院を開けると、すぐに待合が埋まった。
アンセルモさんは昨日と同じ隅に陣取った。
ルチアさんはその隣で、頬を上気させたまま座っている。
一人目は肩の上がらない漁師のおじさんだった。
ぼくは診る前に、桶の水で手を洗った。
石鹸を泡立てて、指の股から爪の間まで。
それから、助手くんが蒸留した酒で手のひらを拭う。
アンセルモさんの筆が走った。
「……今のは何の儀式だ」
「手洗いです」
「なぜ洗う」
「ぼくの手の汚れが患者さんに移らないようにです。目に見えないくらい小さな汚れでも、傷に入れば膿みますから」
「……真です」
二人目を診る前にも洗った。
三人目の前にも。
十人目を過ぎたあたりで、アンセルモさんの帳面には「また洗った」とだけ書かれるようになった。
◆◆◆
十二人目は、腰の曲がったおばあちゃんだった。
施術台に横になると、ぼくの袖をちょいちょいと引いた。
「先生。あの人たち、先生を王都に連れてっちまうのかい」
小声のつもりらしい。
待合中に聞こえていた。
「見てるだけですよ」
ぼくが答えるより早く、ルチアさんが立ち上がった。
「連れていきません」
それから、少し考えて付け足した。
「……今のところは」
待合の空気が凍った。
アンセルモさんが、ルチアさんの袖を引いて座らせた。
「ルチア様。正直にもほどがございます」
「でも、真ですから」
おばあちゃんは、ぼくの手をぎゅっと握った。
「先生。何かあったら、あたしら下町が黙っちゃいないからね」
「ありがとうございます。じゃあ、まず腰を診ましょうね」
◆◆◆
昼になると、翡翠亭の娘のサヨさんがお弁当を届けに来てくれた。
竹の皮に包んだ握り飯。
今日はいつもより包みが二つ多かった。
「審問官さまの分も、って。おっかさんが」
サヨさんは包みを差し出すと、ぺこりと頭を下げて駆けていった。
アンセルモさんは、包みをじっと見下ろしていた。
「……これは、異形の神への供物の残りか」
「サヨさんのお弁当です」
「……真です」
ルチアさんは、もう包みを開けていた。
白い握り飯を両手で持って、不思議そうに眺めている。
「お米を、手で握ったものなのですね」
「手で握るから、おいしいんですよ」
ルチアさんは小さくかじった。
金の輪が、ふわっと広がった。
「……おいしい」
アンセルモさんはしばらく黙っていた。
それから、何も言わずに包みを開けた。
二つ、黙って食べた。
三つ目に手を伸ばしたところで、ぼくと目が合った。
「……審問に、空腹は禁物だ」
「ですね」
◆◆◆
患者さんの合間にも、アンセルモさんは問いを挟んできた。
「そなたは教会をどう思う」
「治癒料が高すぎると思います」
「……真です」
アンセルモさんの筆が止まった。
「その異形の力で何を為すつもりだ」
「肩こりと腰痛を治します」
「……真です」
「それだけか」
「あと、ぎっくり腰と寝違えと四十肩も」
「……真、です」
「旧都を、この国を、我が物にしようとは思わぬのか」
「思いません。そんな暇があったら寝たいです」
「……ものすごく真です」
アンセルモさんは帳面をしばらく睨んでいた。
それから低く呟いた。
「……審問とは、こういうものではないはずだ」
◆◆◆
夕方前、ポーションの在庫が心もとなくなった。
ぼくは奥の部屋に薬草の籠を運びこんだ。
助手くんが、待ってましたとばかりに背中から伸びる。
二人も当然ついてきた。
「ここで何をする」
「ポーションを作ります。助手くんが」
助手くんがヨモギとハッカと癒し草をまとめて頬張った。
にっちゅ。
にっちゅにっちゅ。
にっちゅにっちゅにっちゅにっちゅ。
ルチアさんが身を乗り出した。
アンセルモさんは戦槌の柄に手をかけた。
――ガコン。
ゴゴゴゴゴゴ……。
「ルチア様。今の音は真か偽か」
ルチアさんの金の輪がくるくると回った。
キュイン。
キュインキュインキュイン!
ぱっぱかぱーん。
――ポキューン!
助手くんの先から、とろりと緑の雫が瓶に落ちた。
ルチアさんの金の輪が、ぴたりと止まった。
「……判定、できません」
部屋が静まり返った。
「……何と?」
「わかりません。生まれて初めてです。あの音は真でも偽でもなくて……ただ、そこにあるのです」
アンセルモさんがぼくを見た。
「……そなた、あれは何の音だ」
「ぼくにもわからんです」
「……真です」
ルチアさんは即答した。
アンセルモさんは壁に手をついた。
◆◆◆
夜、最後の患者さんを見送ったあと。
ぼくは帳場の灯りの下で、今日の施術録をつけていた。
誰の、どこを、どう診たか。
どの経穴に鍼を打ち、何壮の灸を据えたか。
明日また来る人。
三日後に様子を見る人。
アンセルモさんはぼくの向かいに座って、それをじっと見ていた。
「……毎晩これを書くのか」
「はい。前の世界から、ずっとです」
「前の、世界」
「長い話になるので、またそのうち」
「……真です」
答えたルチアさんの声は、半分眠っていた。
待合の長椅子で、こくりこくりと船を漕いでいる。
朝から晩まで、一日中目を回していたのだ。
疲れもするだろう。
アンセルモさんが静かに立ち上がった。
自分の外套を脱いで、ルチアさんの肩にかける。
そのとき、ほんの一瞬だけ顔をしかめた。
左の首と右の腰。
ぼくは何も言わなかった。
アンセルモさんも、何も言わなかった。
「……ヌルデ」
しばらくして、アンセルモさんが口を開いた。
「今日一日、そなたの言葉に虚偽はひとつもなかった」
「はい」
「行いにも、咎めるべきものは見当たらなかった」
「はい」
「……ただ、あの音だけがわからぬ」
「ぼくもです」
アンセルモさんは両手で頭を抱えた。
灯りの向こうで、助手くんが申しわけなさそうにくねっていた。
◆◆◆
『神眼の聖女は白膠木に虚偽を見なかった』
【今日の「手」】一挙手一投足:手を一度挙げ、足を一度踏み出すような、細かな動作の一つひとつ。
【治療家メモ】患者さんごとに手を洗う習慣は、19世紀のハンガリーの医師ゼンメルワイスが産科で広めたのが始まりと言われます。手洗いだけで、亡くなる母親の数が大きく減りました。
一挙手一投足を見張られる日々。それでも一徹は、一人ごとに手を洗います。
【ブックマーク】しておいていただけると、審問の行方を見逃しません。




