↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
33/33

第33話 手を染める

「ヌルデ。ひとつ、正面から問う」


 休診日の翌朝、アンセルモさんは待合の隅に座らなかった。


 ぼくの前に立って、まっすぐにこちらを見下ろした。


「そなたは、異形の神に手を染めたのか」


 待合がしんとした。


 ルチアさんの金の輪がゆっくりと回りはじめる。


「手を染めるというのが、何を指すのかによります」


「邪な神と契り、その力を借りて人を惑わしたのか、と問うている」


「契りはしてません。力は借りました。人を惑わしたつもりはないです」


「……真です」


 アンセルモさんは短く息を吐いた。


「では、その神の祠を見せてもらいたい。旧都の分霊ではなく本体のほうだ」


「大岩壁まで荷馬車で二日かかりますよ」


「構わぬ」


「ちょうどひと月に一度の祠参りの頃なので。ご一緒しましょうか」


「……そなたは本当に何も隠さぬのだな」


 アンセルモさんはどこか疲れたように言った。



◆◆◆



 出立の朝、旧都の西門に荷馬車を回した。


 御者台にぼくとイネスさん。


 荷台にアンセルモさんとルチアさん。


 それから、下町の皆から預かったお供えの山。


 花。


 果物。


 お酒。


 サヨさんの餅菓子。


 子どもたちが描いた、まんまるのひとつ目の絵。


 門を出たところで、街道脇の木陰から黒い外套の男が現れた。


 音もなく荷台の端に腰を下ろす。


「……誰だ」


 アンセルモさんの手が戦槌の柄にかかった。


「侯爵閣下の使いだ。審問官殿の道中に何かあっては困るそうでな」


 男はフードを少しだけ上げた。


 白髪交じりの無精髭と、刃物のように細い目。


「サイラスさん」


「久しいな、先生」


 アンセルモさんの目がすっと細くなった。


「……その歩き方。そなた、『影の天秤』の者だな」


「元、だ」


 サイラスさんは右の膝を軽く叩いた。


「この膝を治されてな。抜けた」


 ルチアさんの金の輪がくるりと回った。


「……真です」



◆◆◆



 二日目の昼過ぎ、森に入った。


 木々の奥から、いくつもの視線を感じる。


 ダイアウルフだ。


 けれど近づいてはこない。


 背中から助手くんが顔を出すと、視線はすうっと遠ざかっていった。


「……狼が、逃げていきます」


 ルチアさんが荷台から身を乗り出した。


「助手くんが苦手みたいなんです」


「真です。……狼さんたち、本気で怖がっていました」


 庵の結界の前で助手くんが膜にそっと触れる。


 膜が大きく波打って、荷馬車ごとぼくたちを迎え入れた。


 アンセルモさんは荷台の上で固まっていた。


「……賢者の結界が異形の触手を通すのか」


「ぼくもよくわかってないんですけど、通してくれるんです」


「……真です」


 アンセルモさんはもう帳面に何も書かなかった。



◆◆◆



 大岩壁は今日も空をふさぐように立っていた。


 その根元に小さな洞がひとつ。


 苔を払う。


 蔦を払う。


 洞の床を掃いて、平たい石の祭壇を水で清める。


 イネスさんが慣れた手つきでお供えを並べていく。


 ルチアさんも見よう見まねで手伝った。


 子どもたちの絵を石像の前にそっと立てかける。


 まんまるのひとつ目の石像。


 少しだけデフォルメされた、かわいらしい神様。


 アンセルモさんは洞の入り口から一歩も動かなかった。


 祭壇を見る。


 壁を見る。


 床を見る。


「……血の跡がない」


 ぽつりとアンセルモさんが呟いた。


「邪神の祭壇は生贄の血で黒く穢れているものだ。若い頃、何度か踏みこんだことがある」


「生贄なんて、とんでもない」


「わかっている。……わかっているが、確かめずにはおれぬのだ」


 アンセルモさんはルチアさんを振り返った。


「ルチア様。この祠はどう見えますか」


 ルチアさんは石像の前に膝をついていた。


 金の輪が石像のひとつ目をまっすぐに映している。


 くるくると回る。


 それから、ふっと速さをゆるめた。


「……悪しきものには、映りません」


 ルチアさんの声は少し不思議そうだった。


「それに、あたたかいのです。目がではなくて……胸の奥のほうが」



◆◆◆



「審問官殿」


 洞の外の岩に腰かけていたサイラスさんが口を開いた。


「三十年前、俺は南の湿地で邪神の教団を潰した。この膝は、そのとき奴らの長に砕かれたものだ」


 アンセルモさんの眉が動いた。


「……湿地の討伐か。教会の記録で読んだことがある」


「なら知っているだろう。奴らの祭壇は子どもの骨で組まれていた。奴らは子どもに呪いをかけ、親から金と信仰を搾り取っていた。神像は口ばかりが七つある黒い蛇の像だった」


 サイラスさんは洞の中の石像に顎をしゃくった。


「この祠には、そのどれもない。あるのは苔と花と子どもの落書きだけだ。先生の神様とあの邪神は別物だ」


「……真です」


 ルチアさんが静かに言った。


「だが教会は、それを見分けようともしなかった」


 サイラスさんは地面に目を落とした。


「異形であれば邪神。加護がなければ異端。……俺もずっとそうやって斬ってきた」


 アンセルモさんは長いこと黙っていた。



◆◆◆



「ヌルデ」


 しばらくして、アンセルモさんがぼくを見た。


「この神は、何者なのだ」


「……長い話になりますけど」


「構わぬ。二日かけて来たのだ」


 ぼくは祭壇の前に腰を下ろして話しはじめた。


 前の世界で強盗に刺されて死んだこと。


 死んだあとの、役場のような待合。


 地下のいちばん奥の666号室。


 そこで待っていた、消えかけた単眼の神様。


 何千年も誰も訪ねてこなかったこと。


 力のない神ですまない、と謝られたこと。


 最後の力でぼくに一本の手をくれたこと。


 それきり消えてしまったこと。


「……ぼくが穏やかに暮らせるようにって。それだけを願って、くれたんです」


 話し終えるまで、ルチアさんは一度も「真です」と言わなかった。


 言う必要がないくらい、金の輪が静かだった。


 ぽろりとその目から涙がこぼれた。


「……全部、本当のことです」


 ルチアさんは袖で目をこすった。


「全部、全部、本当のことです……」


 アンセルモさんは何も言わなかった。


 ただ拳を強く握りしめていた。



◆◆◆



 帰り支度をしていると、ルチアさんが巾着から何かを取り出した。


 小さな天秤の形の、銀の飾りだった。


「大聖堂で初めて神託を授かった日に、いただいたものです」


 ルチアさんはそれを石像の前にそっと置いた。


 両手を合わせる。


 指をにょろにょろさせる。


「……ルチア様」


「アンセルモ。わたくし、この方にお礼が言いたいのです。ヌルデ様をこの世界に送ってくださったことに」


 アンセルモさんは何か言いかけてやめた。


 それから、背負い袋から固い旅のパンを一つ取り出した。


 石像の前に無造作に置く。


「……検分の礼だ。手は合わせぬ」


「はい」


 サイラスさんが岩の上で小さく鼻を鳴らした。


 助手くんがパンのほうをじっと見ていた。


「……あとで、ちゃんと神様に聞いてからだよ」


 石像の単眼が、傾いた陽を受けてほんのりと緑に光った。



◆◆◆



『名も無き異形の神の祠に、新しい参拝者が訪れた』

【今日の「手」】手を染める:物事に取りかかること。とくに、よくないことに関わり始めること。もとは染物で手が染まることから来ています。

【治療家メモ】息をゆっくり長く吐くと、心と体を落ち着かせる神経が働き、脈が少し穏やかになります。祈るときや手を合わせるときに自然と深い息になるのは、理にかなっているのかもしれません。


邪な神に手を染めたのか。大岩壁の祠で、審問官が見たものは。

【★★★★★(評価)】で、異形の神さまに手を合わせていただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。