第33話 手を染める
「ヌルデ。ひとつ、正面から問う」
休診日の翌朝、アンセルモさんは待合の隅に座らなかった。
ぼくの前に立って、まっすぐにこちらを見下ろした。
「そなたは、異形の神に手を染めたのか」
待合がしんとした。
ルチアさんの金の輪がゆっくりと回りはじめる。
「手を染めるというのが、何を指すのかによります」
「邪な神と契り、その力を借りて人を惑わしたのか、と問うている」
「契りはしてません。力は借りました。人を惑わしたつもりはないです」
「……真です」
アンセルモさんは短く息を吐いた。
「では、その神の祠を見せてもらいたい。旧都の分霊ではなく本体のほうだ」
「大岩壁まで荷馬車で二日かかりますよ」
「構わぬ」
「ちょうどひと月に一度の祠参りの頃なので。ご一緒しましょうか」
「……そなたは本当に何も隠さぬのだな」
アンセルモさんはどこか疲れたように言った。
◆◆◆
出立の朝、旧都の西門に荷馬車を回した。
御者台にぼくとイネスさん。
荷台にアンセルモさんとルチアさん。
それから、下町の皆から預かったお供えの山。
花。
果物。
お酒。
サヨさんの餅菓子。
子どもたちが描いた、まんまるのひとつ目の絵。
門を出たところで、街道脇の木陰から黒い外套の男が現れた。
音もなく荷台の端に腰を下ろす。
「……誰だ」
アンセルモさんの手が戦槌の柄にかかった。
「侯爵閣下の使いだ。審問官殿の道中に何かあっては困るそうでな」
男はフードを少しだけ上げた。
白髪交じりの無精髭と、刃物のように細い目。
「サイラスさん」
「久しいな、先生」
アンセルモさんの目がすっと細くなった。
「……その歩き方。そなた、『影の天秤』の者だな」
「元、だ」
サイラスさんは右の膝を軽く叩いた。
「この膝を治されてな。抜けた」
ルチアさんの金の輪がくるりと回った。
「……真です」
◆◆◆
二日目の昼過ぎ、森に入った。
木々の奥から、いくつもの視線を感じる。
ダイアウルフだ。
けれど近づいてはこない。
背中から助手くんが顔を出すと、視線はすうっと遠ざかっていった。
「……狼が、逃げていきます」
ルチアさんが荷台から身を乗り出した。
「助手くんが苦手みたいなんです」
「真です。……狼さんたち、本気で怖がっていました」
庵の結界の前で助手くんが膜にそっと触れる。
膜が大きく波打って、荷馬車ごとぼくたちを迎え入れた。
アンセルモさんは荷台の上で固まっていた。
「……賢者の結界が異形の触手を通すのか」
「ぼくもよくわかってないんですけど、通してくれるんです」
「……真です」
アンセルモさんはもう帳面に何も書かなかった。
◆◆◆
大岩壁は今日も空をふさぐように立っていた。
その根元に小さな洞がひとつ。
苔を払う。
蔦を払う。
洞の床を掃いて、平たい石の祭壇を水で清める。
イネスさんが慣れた手つきでお供えを並べていく。
ルチアさんも見よう見まねで手伝った。
子どもたちの絵を石像の前にそっと立てかける。
まんまるのひとつ目の石像。
少しだけデフォルメされた、かわいらしい神様。
アンセルモさんは洞の入り口から一歩も動かなかった。
祭壇を見る。
壁を見る。
床を見る。
「……血の跡がない」
ぽつりとアンセルモさんが呟いた。
「邪神の祭壇は生贄の血で黒く穢れているものだ。若い頃、何度か踏みこんだことがある」
「生贄なんて、とんでもない」
「わかっている。……わかっているが、確かめずにはおれぬのだ」
アンセルモさんはルチアさんを振り返った。
「ルチア様。この祠はどう見えますか」
ルチアさんは石像の前に膝をついていた。
金の輪が石像のひとつ目をまっすぐに映している。
くるくると回る。
それから、ふっと速さをゆるめた。
「……悪しきものには、映りません」
ルチアさんの声は少し不思議そうだった。
「それに、あたたかいのです。目がではなくて……胸の奥のほうが」
◆◆◆
「審問官殿」
洞の外の岩に腰かけていたサイラスさんが口を開いた。
「三十年前、俺は南の湿地で邪神の教団を潰した。この膝は、そのとき奴らの長に砕かれたものだ」
アンセルモさんの眉が動いた。
「……湿地の討伐か。教会の記録で読んだことがある」
「なら知っているだろう。奴らの祭壇は子どもの骨で組まれていた。奴らは子どもに呪いをかけ、親から金と信仰を搾り取っていた。神像は口ばかりが七つある黒い蛇の像だった」
サイラスさんは洞の中の石像に顎をしゃくった。
「この祠には、そのどれもない。あるのは苔と花と子どもの落書きだけだ。先生の神様とあの邪神は別物だ」
「……真です」
ルチアさんが静かに言った。
「だが教会は、それを見分けようともしなかった」
サイラスさんは地面に目を落とした。
「異形であれば邪神。加護がなければ異端。……俺もずっとそうやって斬ってきた」
アンセルモさんは長いこと黙っていた。
◆◆◆
「ヌルデ」
しばらくして、アンセルモさんがぼくを見た。
「この神は、何者なのだ」
「……長い話になりますけど」
「構わぬ。二日かけて来たのだ」
ぼくは祭壇の前に腰を下ろして話しはじめた。
前の世界で強盗に刺されて死んだこと。
死んだあとの、役場のような待合。
地下のいちばん奥の666号室。
そこで待っていた、消えかけた単眼の神様。
何千年も誰も訪ねてこなかったこと。
力のない神ですまない、と謝られたこと。
最後の力でぼくに一本の手をくれたこと。
それきり消えてしまったこと。
「……ぼくが穏やかに暮らせるようにって。それだけを願って、くれたんです」
話し終えるまで、ルチアさんは一度も「真です」と言わなかった。
言う必要がないくらい、金の輪が静かだった。
ぽろりとその目から涙がこぼれた。
「……全部、本当のことです」
ルチアさんは袖で目をこすった。
「全部、全部、本当のことです……」
アンセルモさんは何も言わなかった。
ただ拳を強く握りしめていた。
◆◆◆
帰り支度をしていると、ルチアさんが巾着から何かを取り出した。
小さな天秤の形の、銀の飾りだった。
「大聖堂で初めて神託を授かった日に、いただいたものです」
ルチアさんはそれを石像の前にそっと置いた。
両手を合わせる。
指をにょろにょろさせる。
「……ルチア様」
「アンセルモ。わたくし、この方にお礼が言いたいのです。ヌルデ様をこの世界に送ってくださったことに」
アンセルモさんは何か言いかけてやめた。
それから、背負い袋から固い旅のパンを一つ取り出した。
石像の前に無造作に置く。
「……検分の礼だ。手は合わせぬ」
「はい」
サイラスさんが岩の上で小さく鼻を鳴らした。
助手くんがパンのほうをじっと見ていた。
「……あとで、ちゃんと神様に聞いてからだよ」
石像の単眼が、傾いた陽を受けてほんのりと緑に光った。
◆◆◆
『名も無き異形の神の祠に、新しい参拝者が訪れた』
【今日の「手」】手を染める:物事に取りかかること。とくに、よくないことに関わり始めること。もとは染物で手が染まることから来ています。
【治療家メモ】息をゆっくり長く吐くと、心と体を落ち着かせる神経が働き、脈が少し穏やかになります。祈るときや手を合わせるときに自然と深い息になるのは、理にかなっているのかもしれません。
邪な神に手を染めたのか。大岩壁の祠で、審問官が見たものは。
【★★★★★(評価)】で、異形の神さまに手を合わせていただけたら嬉しいです。




