第28話 お手柔らかに
治療院ができあがったのは、春の終わりだった。
焼け跡に建った、二階建ての、白い漆喰の建物。
一階は広い待合と施術の部屋が三つ。
二階は怪我人が泊まれる部屋が六つ。
裏には薬草を干す棚と、もぐさを仕込む小屋と、助手くん専用の、ポーションを作る部屋。
庭には小さな社が建った。
ゲンジさんが東の国の作法で屋根の反りまで丁寧に組んでくれた社だった。
その中に助手くんが彫った木彫りの分霊が、ちょこんと祀られている。
社の前には、ブルーノさんたちがどこからか見つけてきた大きな丸太をくり抜いた、立派な賽銭箱が据えられた。
そして玄関の上に看板を掛けた。
新しく作り直そう、と皆は言ってくれた。
旧都いちばんの木彫り師に頼もう、と。
けれどぼくはあの板きれがよかった。
倉庫の施術所を開いた日にぼくが自分で墨で書いた、あの板きれ。
『癒し手』
ブルーノさんが梯子に登って、釘を打ってくれた。
とん。
とん。
とん。
「……よし。開院だ」
◆◆◆
開院の朝。
治療院の前の広場でレィディオ体操666をやった。
最初はぼくひとりだった体操が、今では百人を超えていた。
人足たち。
冒険者たち。
酒場や娼館のお姉さんたち。
翡翠亭の板前さんたち。
神殿騎士の若い何人か。
それからなぜかヴァレンティ老と第二騎士団の騎士たちまで。
「腕を前から上げて、触手の運動~」
百人が、一斉に、腕を天へ伸ばして、くねくねと体を揺らす。
背中から伸びた助手くんも、一緒にくるくると回っていた。
もう隠す必要はなかった。
◆◆◆
体操が終わって、治療院の扉を開けた。
待合があっという間に埋まった。
それはいい。
患者さんが来てくれるのは、ありがたい。
問題は待合に入りきらなかった人たちだった。
庭の社の前に長い、長い列ができていた。
患者さんではない。
皆、元気そうだった。
手に花や果物や、お酒の瓶を抱えている。
社の前まで来ると、それを供えて、賽銭箱に銅貨を入れて、ぱんぱんと手を打って、それから指をにょろにょろさせて、拝んでいく。
「……イネスさん」
「はい」
「ここ、治療院ですよね」
「半分は」
イネスさんは帳面から顔も上げずに言った。
「本日の参拝者、開門から一刻で二百十四名です。お賽銭は銅貨八百六十二枚、銀貨十一枚。お供えは花が四十三束、果物が籠で二十七、お酒が十九本、干し肉が――」
「あ、いえ、もう大丈夫です」
社の前で子どもたちがぼくを指さしてきゃっきゃっと騒いでいた。
「巨人さまだ!」
「触手の巨人さまだ!」
巨人さま。
ぼくは指をにょろにょろさせて、手を振った。
子どもたちは大喜びでにょろにょろを返してくれた。
背中で助手くんがそわそわと揺れていた。
社のお供えの果物の籠のほうをじっと見ている。
「……あとでちゃんと神様に聞いてからだよ」
◆◆◆
昼過ぎ、侯爵閣下がレオンくんを連れてやってきた。
お忍びの、灰色の外套姿で。
ちゃんと待合で順番を待っていた。
もう、誰も驚かなかった。
ブルーノさんが閣下の隣で「よう、爺さん」と挨拶していた。
レオンくんは待合の中を元気いっぱいに走り回っていた。
金色の巻き毛を揺らして。
「イッテツせんせい!」
ぼくを見つけると駆け寄ってきて、ぼくの人差し指をきゅっと握った。
あの雨の夜と、同じように。
ただ今度の手はずっと、力強かった。
「……ああ。ちゃんと、握れるな」
「うん! にぎれる!」
◆◆◆
施術の部屋で閣下は懐から一通の書状を取り出した。
王都の、大聖堂の封蝋だった。
「グレゴリオの件で王都から返事が来た」
閣下の顔は少しだけ渋かった。
「グレゴリオは王都へ移されて裁きを受けることになる。それはよい。……だがもうひとつ書いてある」
閣下は書状の最後の一行を指でなぞった。
『旧都にて、加護なき身で奇跡を為し、異形の神を祀る者ありと聞く。近く異端審問官を遣わしその真偽を検める』
「王都の大司教がそなたに目をつけた」
閣下はため息をついた。
「もちろんガリバルディ家はそなたを守る。内側の貴族たちも下町の者たちも黙ってはおるまい。……だがしばらくは騒がしくなるやもしれん」
ぼくは書状を見下ろした。
それから窓の外の、社の前の長い列を見た。
穏やかに人の痛みに寄り添うような暮らしがしたい。
あの暗い部屋で神様にそう願った。
――どうやらそれはまだ当分、先になりそうだった。
「……お手柔らかに頼みたいですね」
閣下が腹を抱えて大笑いした。
◆◆◆
ひと月に一度の、庵への帰り道。
荷馬車の御者台に、ぼくとイネスさんが並んで座っていた。
手綱はぼくが握っている。
馬はもうちゃんとぼくの言うことを聞いてくれるようになった。
たぶん、背中の助手くんのおかげだけれど。
大岩壁の祠に着いた。
苔を払う。
蔦を払う。
洞の床を掃いて平たい石の祭壇を水で清める。
石像に供物を並べた。
下町の皆から預かってきた、花と、果物と、お酒と、サヨさんの餅菓子と、子どもたちが描いた、まんまるのひとつ目の絵。
手を合わせる。
「ただいま、帰りました」
ぼくは石像に向かって、話しかけた。
「街の治療院、できましたよ。お社も建ちました。お供えが毎日、すごいんです。それから助手くんがお供えをつまみ食いするので困ってます」
背中で助手くんがぎくりと固まった。
ぼくは笑った。
「……ありがとうございます。あなたにもらった、一本の手のおかげで、ここまで来られました」
石像の単眼が陽の光を受けて緑に光った。
いつもよりずっと、はっきりと。
まるで目を細めて笑っているように。
◆◆◆
「先に戻って、お茶を淹れておきますね」
ぼくが立ち上がるとイネスさんは小さく頷いた。
「わたくしはもう少しだけ」
ぼくは庵へ向かって、歩き出した。
背中の向こうでイネスさんが石像の前に膝をついたまま、手を合わせているのが、見えた。
右手と左手をきちんと揃えて。
何を祈っているのかは、分からなかった。
いつかこの祠で言いかけてやめた、あの続きなのかもしれない。
――それから。
――あの方に出会わせてくださったことに。
風に乗って、そんな声が聞こえた気がした。
気のせいだろう。
ぼくは庵の扉を開けてかまどに火を入れた。
湯が沸く。
ハッカの葉をひとつまみ。
庵の窓から顔を出して呼んだ。
「イネスさーん。お茶、入りましたよー」
祠のほうでイネスさんが慌てたように立ち上がるのが見えた。
なぜか、顔が赤かった。
◆◆◆
その夜、庵の石段に腰かけて空を見上げた。
月が二つ。
見たことのない星座。
森を渡る風。
背中で助手くんがぼくの肩にそっと先端を乗せていた。
『一徹。なぜ観音様には千本も腕があるか、分かるか』
祖父の声を思い出していた。
一つとして零れ落ちる苦しみを見過ごさないためだ。
人間の二本の手じゃあ、目の前の一人しか救えねえ。
――じいちゃん。
ぼくは自分の手のひらを見下ろした。
世界最高の触手をもらった。
それが千本になった。
けれど千本でも、足りなかった。
あの日、救護所でそう思った。
足りないと思った瞬間に皆が手を貸してくれた。
ブルーノさんの手。
リリアさんの手。
ヴィオレッタさんの手。
スイランさんとゲンジさんの手。
ゴンサロさんの手。
ロドリゴさんの手。
ハンスさんの手。
サイラスさんの手。
ヴァレリオさんの手。
閣下の手。
イネスさんの、右手。
ぼくがひとりずつ手を当ててきた人たちの、手。
「……千本どころじゃ、なかったよ」
ぼくは呟いた。
背中で助手くんがぶんぶんと嬉しそうに揺れた。
◆◆◆
――遥か遥か、高いところ。
神々の座、と呼ばれる場所で。
天秤を手にした美しい女神が雲の切れ間から地上を見下ろしていた。
商業と癒やしの女神、アウレサリア。
女神はふと小首をかしげた。
「……あら?」
地上の、どこか。
遠い遠い、国境の大岩壁のあたりから。
ほんのかすかに懐かしい何かが立ちのぼっている。
「なんか、懐かしい気配を感じるわね」
女神はしばらく首をかしげたまま、考えていた。
それからぽんと手を打った。
「……まあ、いいわ。そのうち、思い出すでしょう」
女神はくるりと踵を返して、雲の向こうへ去っていった。
自分の教団の地上の惨状には、まだ、少しも気づいていなかった。
◆◆◆
大岩壁の、小さな祠の中で。
まんまるの、ひとつ目の石像が。
夜の闇の中ほんのりと緑色に光っていた。
◆◆◆
『白膠木は神格を得た!』
『名も無き異形の神の信仰が、触手一本分溜まった!』
『……ありがとう、イッテツ』
第一部 完
【今日の「手」】お手柔らかに:手加減して、穏やかに扱ってほしいと頼むときの言葉。
【治療家メモ】千手観音は、正しくは「千手千眼観音」とも呼ばれます。千の手の一つひとつに眼があり、すべての人の苦しみを見て、すべての人に手を差し伸べるのだそうです。千の手には、千の眼が要る。その意味は、また先のお話で。
第一部、完結です。ここまで一徹と助手くんと神様にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
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第二部、王都編でお会いしましょう。お手柔らかに。




