第26話 千手万触
救護所の入り口に人がいた。
長屋から戻ってきたイネスさんが、怪我人を背負った人足たちを、中へ導いていた。
戸口の脇には運び込まれたばかりの子どもたちが、毛布にくるまって、身を寄せ合っていた。
真上から赤翼が落ちてくる。
喉の奥が赤く赤く、膨れ上がっている。
あの火が吐かれたら、救護所ごと全部燃える。
考えるより先に体が動いていた。
ぼくは救護所の前に飛び出して両手を広げた。
「――下がって!」
ごうっ。
◆◆◆
世界が白くなった。
熱い、とは思わなかった。
熱すぎて、何も感じなかった。
炎がぼくを呑み込んだ。
服が一瞬で燃え尽きる。
皮膚が、ぱちぱちと音を立てて、焼けて、めくれて、剥がれ落ちていく。
髪が燃える。
眉が燃える。
それでもぼくは両手を広げたまま、立っていた。
背中の後ろにはイネスさんがいる。
子どもたちがいる。
怪我人がいる。
炎はぼくのところで止まっていた。
炎が途切れた。
煙の向こうで赤翼が怒り狂ったように吼えた。
それから巨体を翻した。
尾が来た。
尾の先に、人の腕ほどもある黒い棘。
ずぶり。
棘がぼくの胴を真正面から背中まで貫いた。
赤翼はそのまま尾を振り抜いた。
ぼくの体が棘に刺さったまま、宙を舞う。
荷揚げ場の上を越えて、川港の桟橋を越えて――。
どぼん。
ギガンテ河の、黒い水の中へ。
◆◆◆
「――イッテツ様っ!!」
イネスさんの叫び声が、川面に響いた。
いつも表情を変えない人だった。
帳面を落としたときも、侯爵閣下を見つけたときも、声を荒げることなど、なかった人だった。
その人が叫んでいた。
「イッテツ様っ! イッテツ様ああっ!!」
桟橋の端まで駆け出していく。
その腕をブルーノさんがつかんで引き止めた。
「よせ! 嬢ちゃんまで落ちる!」
「離してください! イッテツ様が! イッテツ様が――!」
川面は静かだった。
黒い水がゆるやかに流れていくだけだった。
泡ひとつ、浮かんでこなかった。
救護所の前に誰も声を出せなかった。
「……嘘、だろ」
ハンスさんが呟いた。
「先生が死ぬわけ……」
空の上で赤翼が勝ち誇ったように、長く長く、吼えた。
侯爵閣下が剣を握りしめたまま、唇を噛みしめていた。
その目から涙が一筋、流れ落ちた。
「また……またわしは……」
◆◆◆
ごぼり。
川面が泡立った。
ごぼっ。
ごぼごぼごぼっ。
桟橋の下の黒い水の中から何かがずるりと這い上がってきた。
手だった。
桟橋の杭をつかむ。
それからもう片方の手。
ずるり。
ずるるるる。
水を滴らせながら、ぼくは桟橋の上に這い上がった。
膝をついてげほっ、と水を吐いた。
それからゆっくりと、立ち上がった。
◆◆◆
桟橋の上の、誰もが息を呑んだ。
ぼくの体はひどい有様だった。
服は燃え尽きて、腰のあたりに焦げた布切れが巻きついているだけ。
全身の皮膚が焼けてめくれて垂れ下がっている。
そしてその焼け落ちた皮膚の下に見えていたのは。
赤い肉ではなかった。
暗い、緑がかった黒。
しっとりと濡れたように光る、無数の細い、細い繊維。
それがぎっしりと束ねられて腕の形を脚の形を胴の形を作っている。
その束のあいだから白い骨が覗いていた。
いや、骨の表面にも同じ暗い緑の繊維が、びっしりと絡みついていた。
筋肉が。
血の道が。
骨が。
臓物が。
全部、触手でできていた。
胴を貫いた黒い棘の穴の中で、繊維が、うねうねと蠢いていた。
棘の毒を絡め取り、絞り出して穴を内側から塞いでいく。
ぬちゅ。
ぬちゅぬちゅ。
みちみちみち……きゅっ。
焼けてめくれた皮膚の下から新しい皮膚がするすると這い出して、全身を覆っていく。
夜ごとに少しずつ、進めてきた実験だった。
細く。
細く。
骨と骨の間へ。
筋の繊維に沿って。
血の道に寄り添って。
ひとつずつ、助手くんと入れ替えてきた。
最後に残っていた場所は、心臓だった。
手が足りない、と、もう二度と言わないように。
ぼくは首を、こきりと鳴らした。
「……無駄に頑丈な身体だなあ」
◆◆◆
桟橋の上でイネスさんが膝から崩れ落ちた。
ブルーノさんの腕をつかんだまま、へたり込んでぼくを見上げていた。
泣いているのか、笑っているのか、分からない顔だった。
「……イッテツ様の、ばか」
小さな声だった。
「すみません」
ぼくは頭を下げた。
それから空を見上げた。
赤翼がこちらを見下ろしていた。
黄色い目が驚きに見開かれている。
焼き殺したはずの獲物が、毒の棘で貫いたはずの獲物が、川から這い上がってきたのだ。
赤翼は喉を膨らませてもう一度、急降下の構えを取った。
ぼくは桟橋の上で一歩、前に出た。
◆◆◆
身体は触手でできている。
そう、思った。
口が勝手に動いていた。
『 身体は触手でできている。
鍼は一本、灸は一壮、腕は二本。
されどそれでは手が足りなかった。
零れ落ちる痛みをひとつも見過ごさぬよう。
全てはただの一本から、始まった。
鬼の手に仏の心。
手渡されたすべてをいま、千の手に――。 』
背中が熱かった。
いや、背中だけではなかった。
全身が。
腕の一本一本の繊維が。
脚の、胴の、骨の、臓物の、すべてが、どくん、どくんと、脈打っていた。
街中から流れ込んでくるものがあった。
神棚に供えられた花と、果物と、お酒と、弁当と、銅貨の一枚一枚。
手を合わせた人たちの、ありがとう、の気持ち。
小さな魔法陣を灯した、皆の手のひら。
手渡された、すべてのもの。
「――千手万触」
◆◆◆
ぶわっ。
ぶわわわわわわわわわわわわわわっ!!
背中から。
腕から。
脚から。
全身から。
触手が溢れ出した。
十本。
百本。
千本。
数えられない。
しゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅるるるるるるるっ!!
暗い緑の奔流が桟橋を埋め尽くし、荷揚げ場へ溢れ、川面を覆っていく。
――ギュイーン! キュインキュインキュインキュインッ!
――ガコンッ! ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
――ぱっぱかぱーん! ぱっぱかぱっぱっぱーん!
――テレレレッテッテー! チャラララララ~ン♪
――ドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!!
「なんの音だああああっ!?」
ブルーノさんが叫んだ。
「わかりませんっ!!」
ぼくも叫んだ。
◆◆◆
荷揚げ場の端。
川港の、桟橋の付け根。
そこに大岩があった。
倉庫の施術所を開いた日に、ロドリゴさんが教えてくれた。
荷揚げ場の子どもたちも、よく話してくれた。
むかしむかし、ギガンテ河を堰き止めていた大岩を、心優しい巨人が、ひと晩のうちに片手で持ち上げて、岸に置いていってくれたのだと。
だからこの港は『巨人の渡し』と呼ばれ、この岩は『巨人の置き石』と呼ばれているのだと。
小山のような、岩だった。
三階建ての家ほどもある。
ぼくは触手を一本、伸ばした。
たった一本。
最初にもらった、あの一本と、同じように。
しゅるり。
置き石に巻きつく。
ぎゅうううう……。
ずずっ。
ずずずずずずずず……。
地面が揺れた。
何百年も動かなかった岩が、根こそぎ、持ち上がっていく。
ごごごごごごごごごご……。
救護所の戸口で毛布にくるまった子どもたちが、口をあんぐりと開けて、空を見上げていた。
「……巨人だ」
「二人目の、巨人だ……!」
◆◆◆
赤翼が急降下してきた。
喉の奥が赤く膨れ上がる。
今度こそ、すべてを焼き尽くすつもりで。
ぼくは触手一本で、巨人の置き石を、振りかぶった。
ぶおんっ。
空気が唸る。
「――おっぱじめますか」
振り抜いた。
――どっごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおんっ!!!
小山のような岩が真正面から赤翼の頭をぶん殴った。
赤翼の巨体が空中でくの字に折れ曲がった。
炎があらぬ方向へ空しく噴き上がる。
そのまま、真っ逆さまに落ちてくる。
どしゃあああああああああんっ!!
荷揚げ場の石畳を砕いて、赤翼が地に叩きつけられた。
◆◆◆
しゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅるっ!
千の触手が赤翼の巨体に絡みついた。
翼を。
脚を。
尾を。
首を。
ぎゅうううううううっ。
赤翼はもがいた。
吼えた。
けれど、もう、どこも動かせなかった。
ぼくはゆっくりと、侯爵閣下のほうを振り返った。
閣下は剣を握ったまま、立ち尽くしていた。
「閣下」
ぼくは言った。
「最後は閣下の手で」
閣下がぼくを見た。
ぼくが殺せないからではない。
それは閣下の手でなければならないことだった。
閣下は長いこと、ぼくを見ていた。
それからゆっくりと頷いた。
剣を手に一歩、また一歩と、縛り上げられた赤翼の前へ進み出る。
赤翼の、黄色い目が閣下を見上げた。
「……息子の、分だ」
閣下は剣を振り下ろした。
◆◆◆
赤翼が動かなくなった。
空の上で輪を描いていたワイバーンの群れが、一斉に悲鳴のような声を上げた。
頭目を失って、統率が崩れていく。
一頭、また一頭と、翼を翻して森のほうへ逃げ帰っていった。
ぼくは赤翼の左の翼に触手を伸ばした。
皮膜の、赤いアザ。
近くで見ると、それはアザではなかった。
古い、深い傷だった。
何かが皮膜を貫いてその奥にまだ、残っている。
触手の先でそっと探る。
ずる。
引き抜いたのは折れた、槍の穂先だった。
錆びついた、鋼の刃。
その根元に紋章が刻まれていた。
ガリバルディ侯爵家の、紋章だった。
閣下の手から剣がからんと落ちた。
閣下は震える手で穂先を受け取った。
「……あやつの、槍だ」
声が震えていた。
「最期まで……最期まであやつは民を守って……こいつに一太刀、浴びせておったのか……」
閣下は穂先を胸に抱きしめた。
それから荷揚げ場の真ん中で声を上げて泣いた。
ぼくは千の触手をゆっくりと、背中に収めていった。
最後の一本が、背中に戻ったとき、ぼくは、ようやく、自分がほとんど裸だということに気がついた。
「……あ」
イネスさんが黙って、自分の外套を脱いでぼくに放ってよこした。
目はぼくのほうを見ていなかった。
耳まで真っ赤だった。
◆◆◆
『白膠木は触手の身体に成っていた!』
『旧都オーフェンは白膠木に救われた』
【今日の「手」】千手万触:千手観音から作った、この作品だけの言葉です。千の手で、万に触れる。
【治療家メモ】千手観音の像の多くは、実は手が42本です。合掌の2本をのぞいた40本が、それぞれ25の世界を救うので、40×25で千の手、という考え方だそうです。
身体は触手でできている。第一部、最大の見せ場でした。二人目の巨人、ここに。
ここまで読んでくださった皆さまに、心から感謝を。もしこの回で心が動いたら、ページ下部の【ブックマーク追加】や【★★★★★(評価)】で、一徹の背中を押していただけたら嬉しいです。




