第25話 手を貸す
「イッテツ様はここに」
声がして、顔を上げた。
イネスさんが包帯の束を抱えて、立っていた。
「向こうはわたくしたちが参ります」
「でもイネスさん、あそこにはワイバーンが――」
「イッテツ様がここを離れれば、ここの方々が亡くなります。わたくしたちが行かなければ、向こうの方々が亡くなります」
イネスさんはまっすぐにぼくを見た。
「手当ては教わりました。十日間、毎日」
その後ろに人が集まっていた。
ハンスさん。
ブルーノさんと、担架班の人足たち。
リリアさん。
ヴィオレッタさんと、お姉さんたち。
サヨさん。
皆、両手いっぱいに、包帯と添え木とポーションの小瓶を抱えていた。
「先生が言ったんだぜ。皆さんの手が誰かの命をつなぐってよ」
ハンスさんが煤まみれの顔でにっと笑った。
「今度は俺の番だ。先生に拾ってもらった命だからな」
ぼくは何か言おうとして言葉にならなかった。
「……ポーションは、手のひらにひと垂らしです。傷のまわりに揉み込むように」
ようやく、それだけ言えた。
「承知いたしました」
イネスさんが頷いて、踵を返した。
皆がその後に続いて燃える街へ駆け出していった。
◆◆◆
見張りの分体が川港の先の景色を送ってくる。
崩れた長屋。
瓦礫の山。
その下から何本もの手が空をつかむように伸びている。
ブルーノさんたちが、瓦礫に取りついた。
「せーのっ!」
梁を持ち上げる。
その下から血まみれの男が引きずり出された。
年配の船乗りだった。
脚があらぬ方向に曲がっている。
太ももの傷から血がどくどくと噴き出していた。
ハンスさんが飛びついた。
きれいな布を当てて、両手で押さえる。
「押さえる! 強く! 離さない!」
けれど血は止まらなかった。
布が見る間に赤く染まっていく。
太い血の道が裂けている。
押さえるだけでは追いつかない。
船乗りの顔から血の気が引いていく。
「……っ、くそ……! 止まれ、止まれよ……!」
ハンスさんの手が震えていた。
「俺にも……俺にも、イッテツ先生みたいな力があれば……!」
そのときだった。
ハンスさんの手のひらが、ほんのりと光った。
ふわん。
小さな、本当に小さな、緑の魔法陣がハンスさんの手の甲に浮かび上がった。
布の下で噴き出していた血が、すうっと、勢いを失っていく。
「……え?」
ハンスさんが自分の手を見下ろした。
「い、今の魔法陣はなんだ!?」
隣で瓦礫をどかしていたブルーノさんが、ぽかんと口を開けた。
「わ、わかんねえ!」
◆◆◆
それはハンスさんだけではなかった。
瓦礫の下から助け出された老婆の、折れた腕に、添え木を当てていたお姉さん。
ふわん。
「えっ!? な、なにこれ!?」
「わかんない! わかんないけど、お婆ちゃんの顔色が戻ってく!」
煙を吸って、ひゅうひゅうと喉を鳴らす子どもの背中を、さすっていたリリアさん。
ふわん。
「……あんた、今の、見たかい」
「見た! 見たけど、わかんねえ!」
火傷を負った人足の腕に、ポーションをひと垂らし、揉み込んでいたサヨさん。
ふわん。
「先生……! 先生、これ、先生の……!」
ふわん。
ふわん。
ふわん。
見張りの分体たちが、街のあちこちの景色を一斉に送ってくる。
荷揚げ場で。
川港で。
長屋の路地で。
燃える倉庫の陰で。
手当てを覚えた人たちの手のひらに小さな、緑の魔法陣が次々と灯っていく。
ぼくに比べれば、ほんのかすかな光だった。
傷を塞ぐまではいかない。
折れた骨をつなぐまではいかない。
けれど、血が止まる。
息がつながる。
消えかけた命がもう少しだけ、持ちこたえる。
「い、今の魔法陣はなんだ!?」
「わかんねえ!」
「今のは!?」
「わかんないってば!」
「なんなんだよ、これ!」
「わかんねえけど、とにかく押さえろ!」
街中で同じやりとりが響いていた。
◆◆◆
救護所の真ん中でぼくは助手くんの触手を何十本も伸ばしたまま、立ち尽くしていた。
背中の真ん中が温かかった。
いや、違う。
温かいものが流れ出していく。
ぼくの背中から街中へ。
細い、細い糸のように。
皆の手のひらへ。
カルテに出ていた、あの文字を思い出した。
――白膠木の痕跡(微)。
ポーションを塗り込んだ人。
鍼を打った人。
もぐさで温めた人。
ぼくと助手くんがひとりずつ手を当ててきた、すべての人。
その人たちの体の、深いところに溶け込んだ、ほんのひとかけら。
それが今、皆の手のひらで灯っている。
「……手が足りないんじゃ、なかったんだ」
ぼくは呟いた。
「皆が手を貸してくれている」
背中で助手くんがぶるりと震えた。
それから誇らしげにぶんぶんと揺れた。
◆◆◆
長屋の路地でイネスさんが瓦礫に挟まれた女性の脇腹を両手で押さえていた。
鉤爪で裂かれた、深い傷だった。
血が指の間から溢れ出してくる。
「……お願い」
イネスさんの右手が、震えていた。
子どもの頃に動かなくなった手。
ぼくがつなぎ直した手。
毎晩、リハビリで揉みほぐしてきた手。
「……動いて。この手で助けたいの」
ふわん。
イネスさんの右手に緑の魔法陣が浮かび上がった。
他の誰のものよりも、少しだけ、大きく。
少しだけ、強く。
女性の脇腹から溢れていた血が、ぴたりと、止まった。
イネスさんは自分の右手を見つめて、それからほんの少しだけ、唇を震わせた。
◆◆◆
路地の向こうで炎を吐こうと喉を膨らませていたワイバーンが、突然、悲鳴を上げてのけぞった。
その首筋に細身の短剣が深々と突き立っていた。
屋根の上に黒い外套の男が立っていた。
――サイラスさんだった。
サイラスさんは懐から何かを取り出した。
天秤の形をした、小さな銀の印だった。
それを燃える路地へ無造作に放り捨てた。
「膝を大事にしろ、と言われたんでな」
屋根から屋根へ跳ぶ。
右の膝で踏み切って。
三十年、疼き続けたという膝で。
「今日は大事に使わせてもらう」
もう一頭のワイバーンの背に音もなく舞い降りて、翼の付け根に刃を突き立てた。
◆◆◆
内側の城壁の上で何かが起きていた。
分体が送ってきた景色の中で白銀の鎧の列がざわめいていた。
その列の前にひとりの痩せた神官が、進み出ていた。
司祭ヴァレリオだった。
「見よ」
ヴァレリオは震える指で外周を指さした。
燃える街の、あちこちで。
小さな、緑の光が灯っては消え、灯っては消えている。
「加護なき者に治癒はできぬと、我らは教えてきた。……だが見よ。あれは何だ。あの光は何だ」
ヴァレリオの声がかすれた。
「癒やしと金貨は等価。……我らは天秤の意味を履き違えていたのだ。癒やしとは金貨で量るものではない。金貨と等しいほどに尊いものなのだと」
「ヴァレリオ! 持ち場に戻れ!」
露台の上から司教グレゴリオの怒声が飛んだ。
ヴァレリオは振り返らなかった。
「女神の天秤は今、あちらに傾いておられる。……わたくしは参ります」
ヴァレリオは城壁の階段を駆け下りはじめた。
法衣の裾をたくし上げて。
一瞬の、静寂。
それからひとりの若い騎士が、槍をつかんでその後を追った。
またひとり。
またひとり。
十人。
二十人。
「何をしている! 戻れ! 戻らぬか!」
司教の叫びを背に白銀の鎧が次々と、外周へ向かう門をくぐっていった。
◆◆◆
救護所の前に白銀の鎧の一団が駆け込んできた。
先頭の騎士が兜を脱いだ。
下町の娼館で何度か見かけた顔だった。
「……加勢に参った」
騎士は気まずそうに目を逸らした。
救護所の入り口で包帯を抱えて戻ってきたヴィオレッタさんが、腕を組んだ。
「あら。敷居を跨ぐ気になったのかい」
「……出禁を解いていただけるなら」
「働き次第だね」
ヴィオレッタさんは、ふん、と鼻を鳴らした。
それからほんの少しだけ、口の端を上げた。
「死なない程度にしっかり働いておいで」
◆◆◆
そして。
荷揚げ場のほうから蹄の音が轟いた。
ガリバルディ侯爵家の紋章を掲げた、騎馬の一団。
その先頭で白い口髭の老人が剣を抜いていた。
アレクシス・ガリバルディ侯爵閣下だった。
閣下は救護所の前で手綱を引き、空を見上げた。
救護所の真上を赤い翼の影が輪を描いて飛んでいる。
「……見つけたぞ」
閣下の声は静かだった。
「息子の、仇」
その声に応えるように。
空の上で赤翼が翼をたたんだ。
黄色い目がまっすぐに、こちらを見下ろした。
救護所を。
その前に立つ、ぼくを。
――急降下。
巨大な影が真っ逆さまに落ちてくる。
喉の奥が赤く、赤く膨れ上がっていくのが見えた。
◆◆◆
『信者が数百人になった』
『下町に、小さな癒し手たちが生まれた』
【今日の「手」】手を貸す:人の仕事を手伝うこと。力を貸すこと。
【治療家メモ】血が出ているときは、傷口を清潔な布で直接強く押さえるのが基本です。「直接圧迫止血法」と言い、特別な道具がなくても誰にでもできます。
手当て教室の、本当の始まり。下町の皆の手が光りました。
「下町の手が光った」場面で胸が熱くなった方、【★★★★★(評価)】で手を貸していただけると、作者の手も光ります。




