第24話 手を拱く
最初の一頭が降りてきたのは、荷揚げ場の倉庫街だった。
ずしん、と地面が揺れた。
屋根瓦が雨のように降り注ぐ。
翼を広げれば家二軒分はある、鱗に覆われた巨体。
鉤爪が倉庫の屋根をやすやすと引き裂いた。
ワイバーンはひと声吼えると、喉の奥から炎を吐いた。
ごうっ。
麦の袋を積み上げた倉庫が、一瞬で火の海になった。
それが始まりだった。
◆◆◆
救護所に怪我人が運び込まれはじめた。
「先生! 火傷だ! 三人!」
「こっちは瓦が頭に落ちた!」
「鉤爪でやられた! 腹が裂けてる!」
ブルーノさんの担架班が、四人ひと組で、次から次へと戸板を担ぎ込んでくる。
「赤! 黄! 黄! 緑!」
入り口でイネスさんが怪我人の腕に布を結んでいく。
迷いがない。
前の火事のときより、さらに速い。
救護所の中では下町の人たちが手当てを始めていた。
「血が出てたら、押さえる。きれいな布で強く。離さない」
リリアさんが、泣きわめく人足の腕を両手で押さえつけている。
「骨が折れてたら、動かさない。板を当てて、縛る」
ヴィオレッタさんのお姉さんたちが、驚くほど手際よく、添え木を当てて、包帯を巻いていく。
「息が浅かったら、横向き! 喉に詰まらせないように!」
サヨさんが気を失った老人をそっと横向きに寝かせた。
十日間の講習が生きていた。
ぼくはその間を縫うように赤い布の人のもとへ走った。
ずるり。
助手くんが背中から這い出して、ぶわっと分かれる。
十本。
二十本。
ぬるぅ、ぺたぺた、じゅわわ。
火傷を粘液で包む。
ぐちゅ、ずぶ、みちみち、きゅっ。
裂けた腹を内側から縫う。
ちくちく、しゅしゅしゅ、ちょきん。
切り傷を閉じる。
ちゅぽん。
ちゅぽん。
すぽーん。
「……治りました。次!」
治しても治しても戸板が運ばれてくる。
◆◆◆
見張りの分体たちが、街のあちこちから景色を送ってくる。
城壁の外。
地上の戦い。
常設軍の槍の列が押し寄せる魔獣の波を必死に食い止めていた。
大猪の突進に盾の列がたわむ。
角の熊が兵士を薙ぎ倒す。
その最前列でガレスさんが大盾を構えて踏ん張っていた。
「下がるな! ここが抜かれたら、下町までまっすぐだ!」
ミレイユさんの矢が、空のワイバーンの目を射抜く。
ノーラさんの水の魔法が、燃えさかる魔獣を押し返す。
ティオさんが魔獣の群れの隙間を縫って走り、倒れた兵士を引きずり出してくる。
ヴァレンティ老が古い槍を振るっていた。
「どうした若造ども! 儂より先にへたばるな!」
大猪の突進を槍の柄でいなし、その勢いのまま首筋を貫く。
若い騎士たちが雄叫びを上げて続いた。
三十年ぶりに握ったという槍が、少しも衰えていなかった。
けれど魔獣の波は尽きなかった。
盾の列のあちこちで血が流れていた。
◆◆◆
川港の分体が別の景色を送ってきた。
ワイバーンが三頭、川面すれすれを飛んで停泊した船に炎を吐きかけていた。
帆が燃え、檣が倒れる。
その燃える甲板の上でゴンサロさんが銛を構えていた。
「てめえら、俺の船に何しやがる!」
膝はびくともしなかった。
揺れる甲板の上でゴンサロさんはまっすぐに立っていた。
銛が唸りを上げて飛び、ワイバーンの翼の付け根に突き刺さる。
「乗れたんだぜ、先生! 二度と乗れねえって言われた船によ! 誰がこんな奴らに渡すかってんだ!」
炎の中でゴンサロさんが笑っていた。
◆◆◆
それからもうひとつ。
内側の城壁の上に置いた、分体の景色。
白銀の鎧がずらりと並んでいた。
神殿騎士団だ。
百人を超える騎士たちが、城壁の上から、外周を見下ろしていた。
燃える倉庫街を。
煙の上がる川港を。
逃げ惑う、下町の人たちを。
騎士たちは動かなかった。
槍を立て盾を構え、腕を組んで。
ただ、見下ろしていた。
手を拱く、という言葉がある。
腕を組んだまま、何もしないこと。
城壁の上の教会の露台に肥えた男が立っていた。
金の指輪をいくつも光らせた手で手すりをつかんでいる。
司教グレゴリオだった。
「動くな。門を閉ざしたまま、内側を守れ」
「司教様!」
その傍らで痩せた神官が声を上げていた。
司祭ヴァレリオ。
「外周が燃えております! 民が逃げ惑って――」
「異端に与した者どもへの、女神の裁きだ」
司教は外周の煙を見下ろしたまま、口の端を歪めた。
「あの下町は異端を匿い、教会に楯突いた。荷を止め納品を止め、騎士を店から締め出した。……これはその報いだ。女神アウレサリア様の天秤は、正しく傾いたのだ」
ヴァレリオは震えていた。
その手が法衣の胸のあたりでぎゅっと握りしめられていた。
何かを必死に押しとどめるように。
――癒やしと金貨は、等価。
その天秤の意味を履き違えるな。
分体の記憶の中で聞いた、あの声をぼくは思い出していた。
城壁の上の騎士たちの中にも、落ち着かない様子で互いの顔を見合わせている者が、何人もいた。
下町の、酒場や娼館で顔を見たことのある騎士たちだった。
それでも誰も動かなかった。
◆◆◆
「先生! 向こうだ! 川港の先の長屋でまだ大勢!」
ハンスさんが煤まみれの顔で救護所に飛び込んできた。
「ワイバーンが三頭、長屋に降りた! 逃げ遅れた奴らが瓦礫の下に――」
分体の景色が頭の中に流れ込んでくる。
川港の先の、崩れた長屋。
瓦礫の下から伸びる、誰かの手。
血だまり。
泣き叫ぶ声。
降り立ったワイバーンが、炎を吐こうと、喉を膨らませている。
ここから、走って、十分。
けれど救護所の床には赤い布の人がまだ十人以上、横たわっていた。
助手くんの触手がそのひとりひとりの体の中で今も裂けた血管をつなぎ、破れた臓物を塞ぎ続けている。
今、ここを離れれば、この人たちが死ぬ。
けれどここにいれば、向こうの人たちが死ぬ。
助手くんをもっと伸ばせば。
もっと分ければ。
――届かない。
救護所の中だけでもう、四十本を超えていた。
これ以上分ければ、一本一本が細くなりすぎて、治しきれない。
川港の先までは遠すぎる。
ぼくは自分の両手を見下ろした。
二本の、手。
世界最高の触手をもらった。
四十本に分けられるようになった。
神様の加護でどれだけ使っても底が見えない、無限のような力があると思っていた。
それでも。
「……手が足りない」
声がかすれた。
あの日、畳の上でそう思ったのと同じ言葉だった。
◆◆◆
そのとき、救護所の天井がずしん、と揺れた。
ぱらぱらと、埃が降ってくる。
見張りの分体が真上の空を送ってきた。
救護所の屋根の、すぐ上。
ひときわ大きな影が、ゆっくりと、輪を描いて飛んでいた。
左の翼の皮膜に、血のような赤いアザ。
赤翼が黄色い目で救護所を見下ろしていた。
まるでここに何があるのかを知っているかのように。
◆◆◆
『外周の住民が白膠木を頼った』
【今日の「手」】手を拱く:腕を組んだまま何もせず、ただ見ていること。読みは本来「こまぬく」ですが、今は「こまねく」も認められています。
【治療家メモ】意識はあるけれど息が浅いとき、吐いたもので喉を詰まらせないよう、体を横向きにします。「回復体位」と呼ばれる姿勢です。
手を拱いていたのは誰だったのか。一徹は、自分の両手を見下ろしました。
いちばん苦しい回です。【ブックマーク】で、次の回まで一徹のそばにいていただけたら嬉しいです。




