第23話 手に汗握る
侯爵城の大広間に、旧都の守りを担う者たちが集められた。
常設軍の将軍。
冒険者ギルドの長。
商業ギルドの長。
第二騎士団からは隠居したはずのヴァレンティ老が、古い鎧を着込んで槍を携えて現れた。
「現団長にはわしが筆頭に立つと話をつけてある」
老騎士はにやりと笑った。
若い騎士たちが苦笑いしながら、その後ろに並んでいた。
ぼくは広間の隅に立っていた。
下町の救護所を預かる者として、閣下に呼ばれたのだ。
ロドリゴさんと、イネスさんも一緒だった。
地図が広げられた。
「森から来る魔獣の群れは、外周の城壁の外で常設軍と冒険者が食い止める」
将軍の指が城壁の外をなぞる。
「問題は空だ」
閣下が低い声で言った。
「前のときもワイバーンの群れは城壁を越えてきた。地上の守りをあざ笑うように外周の、いちばん弱いところへ」
閣下の指が荷揚げ場と、川港と、下町の長屋街をゆっくりと囲んだ。
ぼくの施術所がちょうどその真ん中にあった。
◆◆◆
教会からは誰も来なかった。
代わりに一通の書状が届いた。
『神殿騎士団は、教会と内側の城壁の守りに専念する。外周への派遣はこれを行わない』
広間がざわめいた。
「前と、同じか」
閣下が書状を握りつぶした。
「前のときも治癒師と神殿騎士は、内側に籠もった。外周の民は見捨てられた。……息子の嫁はその救護所で死んだ」
閣下は広間を見渡した。
「今度は見捨てぬ。外周の子どもと年寄りは、内側の城壁へ避難させる。門を開けよ」
「閣下、内側にはそれだけの民を収める場所が――」
「ありますわ」
凛とした声が広間の入り口から響いた。
日傘を手にした、リヴィエール子爵家の先代夫人、カミーユ様だった。
その後ろにマルケッティ伯爵家の御隠居。
ベルナルディ男爵。
それから何人もの貴族たち。
「わたくしの屋敷の庭は、広うございますのよ。薔薇の間に天幕を張ればよろしいわ」
「わしの屋敷の大広間もだ。夜会のための広間だがたまには役に立たせてやろう」
ベルナルディ男爵が、杖をこつんと鳴らした。
「内側の城壁の屋敷をすべて開く。それが我らの答えだ」
閣下の目にまた、涙が浮かんでいた。
◆◆◆
それから十日。
下町は戦の支度に追われた。
施術所は倉庫の奥まで仕切りを取り払って、大きな救護所になった。
ロドリゴさんが商会の倉庫からありったけの布と、板と、瓶を運び込んでくれた。
ヴィオレッタさんのお姉さんたちは、昼も夜も包帯を縫い続けた。
ブルーノさんは人足たちを四人ひと組に分けて、担架の班を作った。
翡翠亭の厨房では、ゲンジさんとスイランさんが、毎日、何百個もの握り飯を握っては、干し飯にして蓄えていた。
ぼくと助手くんはポーションを作った。
にっちゅ。
にっちゅにっちゅにっちゅにっちゅにっちゅにっちゅ。
ポキューン。
にっちゅにっちゅにっちゅにっちゅにっちゅにっちゅにっちゅ。
ポキューン。
ひと月分の薬草を庵から荷馬車三台で運び込んだ。
それを助手くんがひたすら噛む。
にっちゅにっちゅにっちゅにっちゅ……ポキューン……にっちゅにっちゅにっちゅ……ポキュ……にっちゅにっちゅ……ポキュン……。
五日目の夜、助手くんは樽の上でぐったりと伸びていた。
「……顎、疲れた?」
顎があるのかどうかは知らない。
けれど、助手くんは力なく先端を上下させた。
たぶん、頷いたのだ。
樽は十二本になった。
上級ポーション、およそ二千人分。
ぼくのやり方なら、だけれど。
◆◆◆
子どもたちの避難は、九日目に始まった。
外周の長屋街から内側の城壁の門へ。
荷車に家財を積んだ年寄りたち。
母親の手を引かれた子どもたち。
門の内側では貴族の屋敷の侍女や下男たちが、手を振って迎えていた。
ハンスさんが火の中から助け出した男の子も、母親と一緒に列の中にいた。
ぼくを見つけると、ぶんぶんと手を振った。
ぼくは指をにょろにょろさせて手を振り返した。
男の子はきゃっきゃっと笑って、同じように小さな指をにょろにょろさせた。
◆◆◆
十日目の夜。
支度を終えた救護所でぼくはイネスさんと二人で、最後の帳面を確かめていた。
包帯、千二百巻。
添え木、四百本。
担架、六十。
ポーションの樽、十二本。
「……イネスさん」
「はい」
「明日、もし始まったら。内側の城壁へ避難してもらえませんか」
イネスさんのペンが、止まった。
「ここは、いちばん危ない場所になります。前のときは救護所ごと――」
「お断りいたします」
イネスさんは顔も上げずに言った。
「わたくしは会頭の右腕です。会頭からイッテツ様の右腕をお預かりしております」
それからペンを置いてまっすぐにぼくを見た。
「右腕が持ち主を置いて逃げる話は、聞いたことがございません」
ぼくは何も言い返せなかった。
「それに」
イネスさんは自分の右手をそっと胸に当てた。
「この右手は、イッテツ様に動くようにしていただいた手です。……今度はこの手で誰かを助けたいのです」
イネスさんの目は揺れていなかった。
「……分かりました。でも危なくなったら、すぐに逃げてください」
「承知いたしました。イッテツ様が逃げてくださるなら」
逃げられないのを分かって言っている。
ぼくは苦笑いするしかなかった。
◆◆◆
その夜、救護所の神棚に手を合わせた。
木彫りの神様の前には、下町の皆が供えていったものが、溢れ返っていた。
花。
果物。
干し飯。
お酒。
お守りの代わりにと、子どもたちが描いた、まんまるのひとつ目の絵。
「……神様。明日、どうか、皆を」
言いかけて、やめた。
お願いはしない。
イネスさんがそう言っていた。
「……ありがとうございます。ここまで、来られました」
手を合わせたまま、ふと、自分の手のひらを見下ろした。
手に汗握る、という言葉がある。
明日のことを思えば、手のひらがじっとりと汗ばんでいても、おかしくない。
けれど、ぼくの手のひらは汗ひとつ、かいていなかった。
それが少しだけ、怖かった。
◆◆◆
夜明け。
外周の城壁の上で鐘が鳴った。
カーン。
カーン。
カーン。
カーン。
鳴り止まない。
城壁の見張りの分体が、ぼくの頭に景色を送ってきた。
森が溢れていた。
黒い森の縁から魔獣の群れが地を埋め尽くすように押し寄せてくる。
ダイアウルフ。
大猪。
角の生えた熊。
巨大な蟷螂。
見たこともない、無数の脚を持つもの。
土煙が朝焼けの空を茶色く濁らせている。
城壁の外に常設軍の槍の列が並んでいた。
その後ろに、冒険者たち。
『草原の渡り鳥』の四人の姿も見えた。
ガレスさんが盾を構え、ミレイユさんが矢をつがえ、ノーラさんが杖を掲げ、ティオさんが、ナイフを逆手に握り直した。
ヴァレンティ老が古い槍を高々と掲げた。
「第二騎士団、前へ!」
地響きと共に地上の戦いが始まった。
◆◆◆
そして。
森の上の空が暗くなった。
ワイバーンの群れだった。
十。
二十。
三十。
翼を広げた影が空を覆い尽くしていく。
その先頭に、ひときわ大きな影があった。
左の翼の皮膜に、血のような赤いアザ。
赤翼。
グルルルル……と、喉の奥で唸る声が城壁の上の分体を通して、ぼくの頭の中まで響いてきた。
赤翼は地上の戦いには目もくれなかった。
城壁を、越えた。
外周の空へ。
荷揚げ場へ。
川港へ。
ぼくたちの、下町へ。
――ヴォオオオオオオオオオオオオオッ!
今度の咆哮は助手くんの謎の音ではなかった。
本物の、獣の声だった。
◆◆◆
『旧都オーフェンに、溢れ出しが来た』
【今日の「手」】手に汗握る:はらはらどきどきして、手のひらに汗をかくほど緊張すること。
【治療家メモ】緊張したときに手のひらや足の裏に汗をかくのは、「精神性発汗」と呼ばれる体の反応です。
溢れ出しが始まります。手に汗握る数話になります。
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