第22話 手練れ
侯爵家の客人になってからの日々は、驚くほど静かだった。
闇の路地で刃を向けられることは、もうなかった。
施術所の前には、侯爵家の紋章をつけた衛兵がふたり交代で立つようになった。
最初は皆、怖がっていたけれど、三日もするとブルーノさんたちとレィディオ体操666をするようになっていた。
教会は静かだった。
不気味なほどに。
閣下が王都の大聖堂へ送った訴えの返事は、まだ来ない。
司教グレゴリオは教会の奥に籠もったきり、姿を見せなくなった。
布告はいつの間にか剥がされていた。
ぼくは毎日、患者さんを診た。
朝は体操。
午前は夜勤明けのお姉さんたち。
昼は人足と冒険者。
午後の二刻は内側の城壁への往診。
夕方は職人と奥さんたち。
それから二日に一度、ロドリゴさんの定期枠。
「いやあ、イッテツ殿。肩が凝りましてな」
「会頭、一昨日も凝っていらっしゃいました」
平和だった。
◆◆◆
ただときどき、妙なことがあった。
ある日の昼、翡翠亭でサヨさんが煮えたぎった鍋をひっくり返しかけた。
とっさに手を伸ばして、鍋の底をつかんで支えた。
「せ、先生! 手、手が!」
「ああ、平気ですよ。皮が厚いので」
手のひらを見せると、赤くもなっていなかった。
サヨさんは目をまん丸にしていた。
厨房の奥でゲンジさんが包丁を持つ手を止めて黙ってこちらを見ていた。
またある日は下町の床屋で髪を切ってもらった。
床に落ちた髪の毛を親方が箒で掃き集めながら、ふと手を止めた。
「……兄さん。今、この髪ぴくっと動かなかったか」
「気のせいでは」
「……だよなあ。寝不足かな」
親方は目をこすって、髪の毛をまとめて塵取りに入れた。
塵取りの中で髪の毛がもう一度だけ、ぴくっと動いた。
ぼくは見なかったことにした。
イネスさんは何も言わなかった。
ただ帳面をつけながらときどき、じっとぼくの手を見ていた。
◆◆◆
「イッテツさん。ちょっと、話がある」
ある夕方、『草原の渡り鳥』の四人が、いつになく硬い顔で施術所に入ってきた。
今日は誰も怪我をしていなかった。
「森の様子がおかしい」
ガレスさんが低い声で言った。
「普段は奥にいるはずの魔獣が、浅い層まで出てきてる。それも一匹や二匹じゃない。群れで何かから逃げるみたいに」
「ダンジョンの奥のほうでね、地鳴りがするの」
ノーラさんが杖を握りしめた。
「魔力の流れが渦を巻いてる。古い記録にあるのと、同じ感じ」
ミレイユさんが窓の外の、森の方角を見た。
「それから。……昨日、森の上の空に大きな影を見た。ワイバーンだと思う。一頭じゃない。群れで輪を描いて飛んでた」
ティオさんがぼそりと付け加えた。
「先頭の一頭、左の翼が赤かった」
施術所がしんと静まり返った。
「……溢れ出しの、前触れだ」
ガレスさんが言った。
「冒険者ギルドも常設軍ももう動いてる。侯爵閣下にも報せが上がってるはずだ。たぶん、ひと月もない」
◆◆◆
その夜、侯爵城に呼ばれた。
閣下は執務室で古い戦の記録を広げていた。
数年前の、溢れ出しの記録だった。
「前のときは外周の救護所が足りなんだ」
閣下の指が記録の一行をなぞった。
「治癒師は内側の城壁の守りに回された。外周の怪我人は手当てを受けられぬまま、大勢、死んだ。……息子の嫁もその救護所で最後まで手を尽くしておった」
閣下は顔を上げた。
「ヌルデ殿。今度は外周に救護所を頼みたい」
「はい」
即答だった。
閣下は少し驚いた顔をして、それから目を細めた。
「ただ、閣下。ぼくひとりでは手が足りません」
◆◆◆
翌日から施術所で手当ての講習を始めた。
下町の人たちに集まってもらった。
リリアさん、ヴィオレッタさんとお姉さんたち、スイランさんとサヨさん、ブルーノさんたち人足、ハンスさん。
それに男爵家や子爵家から手の空いた侍女や下男たちも来てくれた。
「まず血が出ていたら、押さえます。きれいな布を当てて、手のひらで強く。慌てず、離さず」
ぼくは自分の腕を差し出してやってみせた。
「骨が折れていたら、動かさない。板きれを当てて、布で縛ります。息が浅くて意識がない人は横向きに寝かせて喉に何も詰まらないように」
ブルーノさんが練習台のハンスさんの腕に添え木を当てた。
ぎゅうううっ。
「いででででっ! 親方、強すぎます!」
「お、おう、すまねえ」
お姉さんたちは驚くほど器用だった。
普段から帯を結び、髪を結い、細かな針仕事をしているからだろう。
あっという間に、きれいな包帯の巻き方を覚えてしまった。
「息が止まっていたら、胸の真ん中をこう。強く、速く。どんっ、どんっ、どんっ」
「どんっ、どんっ、どんっ!」
皆の声が施術所に響いた。
「皆さんの手が誰かの命をつなぎます。ぼくが駆けつけるまでその手で持ちこたえさせてください」
皆が自分の手のひらを見下ろしていた。
それから顔を上げて頷いた。
◆◆◆
講習の合間に練習台を務めてくれたハンスさんの、火事の傷の経過を診た。
手を当てる。
ピローン。
【カルテ】 氏名:ハンス 状態:良好(胸部、完治) 特記:白膠木の痕跡(微)
「……痕跡?」
初めて見る項目だった。
ためしに隣で包帯を巻いていたリリアさんの手首にも、触れてみた。
特記:白膠木の痕跡(微)
ブルーノさんの腰。
特記:白膠木の痕跡(微)
お姉さんのひとりの、外反母趾だった足。
特記:白膠木の痕跡(微)
皆、同じだった。
ぼくが治した人はひとり残らず。
ポーションを塗り込んだ人も。
鍼を打った人も。
もぐさで温めた人も。
どれももとをたどれば、助手くんが噛んで作ったものだ。
助手くんのほんのひとかけらが皆の体の、深いところに溶け込んでいる。
背中の助手くんに小声で聞いてみた。
「……悪さはしないよね」
助手くんはぶんぶんと首を――いや先端を横に振った。
それからぽん、とぼくの肩を叩いた。
大丈夫、と言っているようだった。
「……まあ、害はなさそうだな」
ぼくはカルテを閉じた。
◆◆◆
その夜も離れで実験をした。
夜ごとに少しずつ進めてきた。
細く。
細く。
骨と骨の間へ。
筋の繊維に沿って。
血の道に寄り添って。
今夜は残っていた最後の場所だった。
助手くんのいちばん細い先端が胸の奥へそっと入っていく。
とくん。
とくん。
とくん。
心臓と同じ速さで何かが脈打つ。
長い時間がかかった。
終わったとき、窓の外は白みはじめていた。
ぼくは鏡の前に立った。
二十五歳の、少し若いぼくが、そこにいた。
目の下のクマもない。
ほうれい線も浅い。
何も変わっていない。
見た目は何ひとつ。
手のひらを握って、開いた。
「……これでもう手が足りなくなることはないかな」
背中で助手くんがぼくの肩にそっと先端を乗せた。
いつもより少しだけ、重たい気がした。
いや、軽いのかもしれない。
どちらともつかなかった。
ぼくと助手くんの境目がどこなのか、もう、よく分からなかった。
◆◆◆
夜明け前。
外周の城壁の上に置いた、見張りの分体がぼくの頭に景色を送ってきた。
城壁の向こう。
ダンジョン化した森の、黒々とした梢。
その梢がざわざわと、波のように揺れていた。
風は吹いていないのに。
森の上の、まだ暗い空を大きな影がゆっくりと横切っていく。
翼を広げた影。
朝焼けの最初の光が、その左の翼を一瞬だけ、赤く染めた。
◆◆◆
『下町の人々は手当てを覚えた』
【今日の「手」】手練れ:腕前のすぐれた人。熟練者。
【治療家メモ】胸骨圧迫(心臓マッサージ)の目安は、1分間に100〜120回、深さ約5センチです。いざというとき、知っているだけで救える命があります。
下町のお姉さんたち、手練れの手当て師に。そして空には赤い翼の影。
大きな戦いの前夜です。【ブックマーク追加】で、一緒に迎えていただけたら心強いです。




