第21話 手の内
「……イッテツ様」
翌朝、施術所の裏の井戸端でぼくは盥にシャツを浸けて血の染みを揉み洗いしていた。
背後からイネスさんの声がした。
いつもより、ずいぶんと低い。
「そのシャツは先週、わたくしがお選びしたものですね」
「……はい」
「昨夜、お帰りが遅かったのは」
「ちょっと、刺されまして」
沈黙。
「心臓と、首を。でももう塞がりましたから」
長い、長い沈黙のあと、イネスさんはぼくの手から盥を取り上げた。
「血の染みは塩で揉むと落ちます。……お貸しください」
彼女の右手が少しだけ震えていた。
ぼくは何も言えなかった。
◆◆◆
その朝、施術所の待合に見慣れない老人がいた。
質素な灰色の外套につば広の帽子。
白い口髭。
背筋はまっすぐで、肩幅が広い。
どこかの隠居した職人か、商家の大旦那といった風情で待合の端の椅子に座って、静かに順番を待っていた。
ブルーノさんの隣で。
「よう、爺さん。どこが悪いんだ」
「なに、孫が世話になってな。礼を言いに来たのだ」
「へえ。そりゃ律儀なこった。ここの先生はな、銅貨三枚で俺の腰を――」
そこへ、帳面を抱えたイネスさんが待合の札を確かめに出てきた。
老人を見た。
帳面がばさばさと床に落ちた。
「こ、侯爵閣下っ!?」
待合が凍りついた。
ブルーノさんがゆっくりと隣の老人を見た。
老人は帽子を取って、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「……いや、なに。順番は順番だと聞いたのでな」
旧都の領主、アレクシス・ガリバルディ侯爵閣下が、下町の待合で人足と肩を並べて、順番を待っていた。
ブルーノさんが椅子ごとひっくり返った。
◆◆◆
施術所の奥で侯爵閣下はぼくの両手を、ごつごつした大きな手で握りしめた。
「レオンが今朝、庭を走り回っておった」
閣下の目にみるみる涙が溢れた。
「半年ぶりだ。半年、寝台から起き上がれなんだあの子が。わしの手を引いて、庭の池の鯉を見に行こうと……」
ぼろぼろと、大粒の涙がこぼれ落ちた。
閣下はそれを拭いもしなかった。
「ありがとう。ありがとう、ヌルデ殿。あの子はわしに残された、たったひとりの家族なのだ」
たったひとり。
閣下は袖で顔をごしごしと拭ってから、ぽつりと言った。
「息子がな。数年前の溢れ出しで死んだのだ」
レオンくんの、お父さんだった。
「お人好しで熱血漢でな。わしに似て、民を見捨てられぬ男だった。外周にワイバーンの群れが降りてきたとき、民を逃がすためにひとりで殿を務めた。嫁も息子の傍らで最後まで負傷者の手当てをしていたそうだ」
閣下は窓の外の空を見上げた。
「群れを率いていたのは、左の翼に赤いアザのある、大きなワイバーンだった。……赤翼、と、皆は呼んでおる」
閣下の大きな拳が膝の上でぎゅっと握りしめられた。
◆◆◆
「それでだ」
閣下はひとつ咳払いをして声を落とした。
「昨夜のことはステファノから聞いた。刺客三人は、城の地下で預かっておる。それからこれを」
机の上に布にくるまれた短剣が置かれた。
刃にはまだ、黒い呪毒がこびりついている。
「ベルナルディ男爵たちが、各家の者を使って、教会の出入りを見張っておったのは知っておるな。……その網に妙なものが引っかかった」
閣下が懐から取り出したのは、一枚の、薄汚れた紙きれだった。
今朝、男爵家の門の内側に誰かが投げ込んでいったのだという。
『南の湿地の押収品。第三蔵。目録の四十二番がない』
署名はなかった。
ただ、端に小さな天秤の印がひとつだけ押してあった。
――サイラスさんだ、と思った。
「三十年前、教会は南の湿地で邪神の教団を潰した。そのとき押収した呪具は、すべて教会の蔵に封じられておるはずだ。……そのうちのひとつが、なくなっておる、と」
閣下は短剣を見下ろした。
「レオンにかけられた呪いと、この刃の呪毒。同じものだと、ヌルデ殿は言ったそうだな」
「はい。味が同じでした」
「味」
「助手くんがそう言っています」
閣下はぼくの背中をまじまじと見てそれからふっと笑った。
「……証が欲しい。教会の蔵に手を入れられる者がおらぬのだ。神殿騎士が昼夜を問わず守っておる」
「それなら」
ぼくは背中のシャツをめくった。
「小さい助手が行ってきます」
◆◆◆
その夜、ぼくは分体をひとつ切り離した。
親指ほどの、小さな分体だ。
助手くんが刃の呪毒の「味」をしっかりと分け与えてある。
「同じ味のするところを探しておいで。見つけたら、見たものを持って帰ってくるんだよ」
分体はぴょこんと跳ねて、窓から夜の街へ飛び出していった。
一刻。
二刻。
真夜中を過ぎたころ、窓をこつこつと叩く音がした。
分体が戻ってきた。
吸い込む。
頭の中に分体が見てきたものが、流れ込んできた。
◆◆◆
教会の石壁を這い上がる。
雨樋を伝って、屋根の上へ。
小さな通気口から中へ。
暗い廊下。
分体は先端を左右に振る。
ゆらり、ゆらりと。
ダウジングだ。
あの森でぼくのために水場を探してくれたのと、同じ動き。
――あった。
この味だ。
分体は廊下の奥の、いちばん豪奢な扉の隙間からするりと中へ滑り込んだ。
司教の私室だった。
壁一面の棚に金の燭台。
宝石を嵌め込んだ聖杯。
天鵞絨の椅子。
床には金貨の詰まった革袋が、無造作に積み上げられている。
机の上に帳面が開いたまま置かれていた。
『ガリバルディ侯爵家 寄進 金貨三百枚』
『同 治癒料 金貨六十枚(三度目)』
『同 次回予定 金貨百枚』
次回、予定。
レオンくんの呪いを治しきらずにまた這い上がらせるつもりだったのだ。
そして机の引き出しの奥。
分体が吸い寄せられるように潜り込んだ先にそれはあった。
黒い、ねじくれた木の枝を束ねたような、小さな呪具。
先端に干からびた指のようなものが、何本も絡みついている。
その根元に古い封印の札が半分破れたまま貼りついていた。
『南湿地押収品 第三蔵 四十二番』
◆◆◆
分体の見た景色はもうひとつあった。
帰り道。
教会の、小さな礼拝堂。
真夜中の、誰もいない礼拝堂でひとりの神官が女神像の前に跪いていた。
痩せた、中年の神官。
ぼくを「詐欺」と呼び、布告を持ってきた、あの人だった。
彼は両手を組んで震えていた。
「……アウレサリア様。わたくしは正しいことをしているのでしょうか。あの異端者は下町の者を救っているように見えるのです。わたくしたちが門を閉ざした者たちを」
そのとき。
女神像の、天秤を掲げた手がほんのりと、金色に光った。
声が聞こえた。
分体の記憶越しにぼくにも。
澄んだ、少しだけおっとりとした、女性の声だった。
『――癒やしと金貨は、等価。その天秤の意味を履き違えるな』
光はすぐに消えた。
神官は床に額をつけたまま、長いこと、動かなかった。
◆◆◆
翌朝、侯爵城の執務室でぼくは見たものをすべて閣下に話した。
帳面のこと。
呪具のこと。
封印の札のこと。
それから礼拝堂のことも。
閣下は黙って聞いていた。
話が終わっても、しばらく、何も言わなかった。
窓の外の、教会の尖塔を見つめていた。
それからゆっくりと立ち上がった。
お人好しで涙もろい人だと思っていた。
その背中から静かな、凄まじい怒気が立ちのぼっていた。
「……わしの孫に呪いをかけ。その呪いでわしから金を搾り。治しきらずにまた這い上がらせ」
低い、低い声だった。
「わしの民を異端と呼んで門を閉ざし。わしの民を救った者を闇で斬った」
閣下は振り返った。
「民と共に豊かに。それがガリバルディ家の家訓だ。……グレゴリオはわしの民を食いものにした」
「閣下」
「教会への寄進は本日をもって、すべて止める。蔵の封を破った者を王都の大聖堂へ訴え出る。この帳面と、呪具と、刺客どもの証言を揃えてな」
閣下はぼくの肩に大きな手を置いた。
「ヌルデ殿。今日からそなたはガリバルディ家の客人だ。誰にも二度と、闇で手出しはさせん」
それから閣下はふと声を和らげた。
「何か、望みはあるか。褒美を取らせたい。屋敷でも金でも爵位でも」
ぼくは少し考えた。
「……では銅貨三枚で」
「は?」
「レオンくんの治療代です。うちはそれで十分なので。あとはよろしければ、施術所の神棚に手を合わせていってください」
閣下はしばらくぽかんと口を開けていた。
それから腹を抱えて大笑いした。
「わっはっはっはっは! 銅貨三枚! 孫の命が銅貨三枚か! わっはっはっは!」
笑いながら、閣下はまた泣いていた。
その日の夕方、施術所の神棚の前で旧都の領主が下町の人足たちと並んで大きな手を合わせた。
ちゃりん。
ちゃりん。
ちゃりん。
賽銭箱に銅貨が三枚、落ちた。
◆◆◆
『アレクシス・ガリバルディ侯爵は白膠木の後ろ盾となった』
【今日の「手」】手の内:手のひらの内側。心の中の考えや、隠している作戦。腕前のことも言います。
【治療家メモ】服についた血は、お湯ではなく水で洗います。血は熱で固まるので、お湯だとかえって落ちにくくなります。
教会の手の内が、分体の目で明らかに。そして閣下の正体が。
物語が一気に動きます。【★評価】で、一徹たちの手の内に加わってください。




