第20話 手応え
俺たちは天秤の影だ。
表の騎士団が女神の御旗を掲げて正面から戦う。
俺たちはその影で旗の届かぬ闇を断つ。
若い頃、そう教わった。
三十年前。
俺がまだ二十歳の、駆け出しの秤手だった頃。
南の湿地に巣くう邪神の教団を、仲間と共に潰した。
奴らは子どもに呪いをかけ、その親から金と信仰を搾り取っていた。
指先から黒い根が這い上がり、心臓を蝕む呪いだった。
あの夜、俺は奴らの祭壇から呪具を叩き落とした。
代わりに右の膝を奴らの長に砕かれた。
それでも誇らしかった。
天秤の釣り合いを、守ったのだと。
――あの頃は。
◆◆◆
「異端者を、始末せよ」
旧都の司教グレゴリオ様は、窓の外を見たまま、そう言った。
肥えた指に、いくつもの金の指輪が光っている。
「教会に楯突く下町の輩と、それに媚びる貴族ども。あれらは異端者さえいなくなれば、元に戻る。……侯爵家もな」
侯爵家。
最後の一言だけ、司教様の声がわずかに低くなった。
「秤手サイラス。これを使え」
机の上に、細身の短剣が置かれた。
刃に、黒い何かが塗られている。
鞘から抜いた瞬間、鼻の奥にねっとりとした嫌な匂いが刺さった。
――覚えのある、匂いだった。
三十年前、南の湿地で嗅いだ。
指先から黒い根を這わせる、あの呪いの。
「……司教様。この呪毒は」
「余計なことを考えるな」
司教様は振り返りもしなかった。
「天秤の影は黙って釣り合いを取ればよい」
俺は黙って頭を下げた。
右の膝がずきりと痛んだ。
◆◆◆
標的は毎日、決まった道を通る。
夕刻、内側の城壁の中央にある侯爵城へ往診に上がり、日が暮れてからひとりで外周へ帰っていく。
侯爵家の近衛が護衛を申し出ているのを見た。
標的は笑って首を振っていた。
近いですから、と。
不用心な男だ。
その夜も標的はひとりだった。
内側の城壁の、人通りの絶えた路地。
雨上がりの石畳が月明かりに鈍く光っている。
俺は配下の三人を、路地の両端と屋根の上に散らせた。
足音が近づいてくる。
ゆっくりとした、のんきな足音だった。
鼻歌まで聞こえる。
何の歌かは知らない。
標的が俺の潜む物陰の前を通り過ぎた。
背中が無防備にこちらに向いていた。
――今だ。
◆◆◆
三十年、この手でやってきたことだ。
音もなく背後に滑り込む。
左手で口を塞ぐ。
右手の短剣を左の肩甲骨の下、肋骨と肋骨の隙間へ。
ずぶり。
刃が肉を裂き骨の間を抜けてその奥へ届く。
脈打つ、熱いものへ。
――手応えがあった。
心臓を、貫いた手応えだった。
刃を抜く。
返す手で首を裂く。
左の耳の下から、喉元へ。
太い血の道を、確かに断つ。
ぶしゅっ、と、生温かいものが噴き出した。
――これも手応えがあった。
口を塞いでいた手を離すと、男は声もなく膝から崩れ落ちた。
石畳の上に、うつ伏せに倒れる。
首から溢れた血が月明かりの下で黒い水たまりになって広がっていく。
終わった。
三十年、何度も味わってきた、確かな手応えだった。
俺は刃の血を拭おうとして――。
手を、止めた。
◆◆◆
水たまりが広がらなくなっていた。
首の傷から溢れていた血が、止まっている。
いや、止まっているのではない。
戻っている。
ずる。
ずるるる……。
石畳に広がった血が、まるで意思を持つように、傷口へ向かって這い戻っていく。
そして傷口の奥で何かが蠢いていた。
ぬちゅ。
ぬちゅ、ぬちゅ、みちっ。
裂いたはずの首の肉の奥から暗い緑の、細い糸のようなものが、何十本も、何百本も這い出してくる。
断ち切った血の道の、こちらの端とあちらの端をするすると探り当てて、結び合わせていく。
みちみちみち……きゅっ。
背中の、心臓を貫いた傷も同じだった。
ぐぷっ。
ぐぷぐぷ……どくん。
どくん。
どくん。
どくん。
どくん。
止まったはずの心臓が、俺の目の前でまた打ちはじめた。
傷口が内側から塞がっていく。
「……」
声が出なかった。
三十年、この手が積み上げてきた手応えが、目の前でほどけていく。
◆◆◆
男がむくりと身を起こした。
石畳に座り込んで首の後ろをぽりぽりと掻いた。
「あー……」
気の抜けた声だった。
「……またやっちまった」
また、だと。
「二回目なんですよ、これ。一回目はちゃんと死んじゃったんですけど」
男は血まみれの襟元を見下ろして、困ったように眉を下げた。
「あ、このシャツ、イネスさんに買ってもらったばかりなのになあ……」
俺は短剣を構え直した。
手が震えていた。
「――やれ!」
屋根の上と、路地の両端から、配下の三人が飛び出した。
次の瞬間、男の背中がぶわっと膨れ上がった。
しゅるるるるるるるるっ!
暗い緑の触手が三本。
四本。
五本。
闇を裂いて伸びる。
しゅるっ。
ぐるぐるぐるっ。
ぎゅっ。
しゅるっ。
ぐるぐるぐるっ。
ぎゅっ。
しゅるっ。
ぐるぐるぐるっ。
ぎゅうっ。
「ぐあっ!?」
「な、なんだこれ、ぬるぬるして……!」
「ひいいいっ! 離せえっ!」
三人とも、あっという間に簀巻きにされて、軒先から逆さまに吊るされていた。
干し柿のように、ぶらぶらと揺れている。
「すみません、しばらくそこで頭を冷やしてください。血が上るとは思いますけど」
男は真顔でそう言った。
◆◆◆
残ったのは、俺だけだった。
俺は呪毒の刃を正面から突き出した。
触手が一本、するりと伸びて、刃に巻きついた。
――吸った。
ずぞっ。
ずぞぞぞぞぞっ。
刃に塗った黒い呪毒が、触手の中へ、吸い上げられていく。
濡れた触手の表皮の下を、黒い澱がこぶのように遡っていく。
――プチュン。
男がふと、目を細めた。
「……この味」
味、だと。
「レオンくんの手足に絡みついていた呪いと、同じですね」
息が止まった。
レオン。
侯爵閣下の、御令孫の名だ。
半年、伏せっておられた。
司教様が三度、治癒を施された。
それでも治らなかった。
それをこの男が治した。
その呪いと、この刃の呪毒が同じ。
三十年前、南の湿地で嗅いだあの匂いと同じ。
――天秤の影は黙って釣り合いを取ればよい。
司教様の声が耳の奥でぐにゃりと歪んだ。
「失礼します」
男がぬるりと、俺の懐に入ってきた。
速い。
いや、速いのではない。
迷いがない。
右の手首と、左の襟を取られた。
腰に、乗せられる。
足が地面から離れる。
世界がぐるりと回った。
――どすん。
石畳に、背中から叩きつけられた。
息が全部、肺から押し出された。
受け身を取る間もなく、男の腕が俺の首に回った。
襟を交差させて絞る。
「すみません。少しだけ、眠っていてください」
頸の両脇の、血の道。
そこだけを正確に優しく圧してくる。
視界が端から白く溶けていく。
遠くで男の声がした。
「えーと、施術録……じゃなくてカルテか。言いなれないな、これ」
俺の首に腕を回したまま、男がぶつぶつと呟いていた。
「お名前はサイラスさん。所属は……『影の天秤』。教会の方でしたか」
――名を。
なぜ、俺の名を。
所属まで。
「あー、右膝の古傷。これ、痛いでしょうに。よくあんな身のこなしができますね」
それが最後に聞いた言葉だった。
◆◆◆
目が覚めると、空が白みはじめていた。
俺は路地の脇の石のベンチに寝かされていた。
外套がきちんと畳まれて頭の下に置かれていた。
配下の三人の姿は、なかった。
軒先の縄だけがぶらりと垂れ下がっている。
侯爵家の近衛に、引き渡されたのだろう。
腰の短剣もなかった。
呪毒の刃ごと、持っていかれた。
――証拠として。
俺は体を起こそうとして気づいた。
右の膝が痛くない。
三十年、雨の日も晴れの日も一日たりとも疼かなかった日はない、あの膝が。
曲げてみた。
伸ばしてみた。
立ち上がって、体重をかけてみた。
何も痛まなかった。
ベンチの上に、一枚の紙きれが残されていた。
几帳面な字だった。
『その膝、今度は大事にしてください』
俺は紙きれを握りしめたまま、しばらく立ち尽くしていた。
白みはじめた空の向こうに、教会の尖塔が見えた。
天秤を掲げた、女神の像が朝日を背に黒い影になっていた。
天秤の釣り合いを、守るのだと。
俺はいったい、何の釣り合いを守ってきたのだ。
◆◆◆
『秤手は白膠木に、膝を治された』
【今日の「手」】手応え:打ったり働きかけたりしたときに、手に返ってくる感じ。やったことへの反応。
【治療家メモ】膝の中のクッション「半月板」は、奥のほうに血がほとんど通っていないため、一度傷むと治りにくい組織です。「その膝、今度は大事にしてください」は、治療家の本気のお願いです。
今回は、刺客の目から見た一徹でした。手応えがなかったのは、刃のほうでした。
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