第19話 手の施しようがない
布告は下町だけに貼られたのではなかった。
内側の城壁の、貴族の屋敷にも一通ずつ届けられていたのだ。
教会の封蝋を押した、丁寧な書状で。
『異端者イッテツ・ヌルデより施しを受けし方々は、速やかにその縁を断たれたし。さもなくば、天秤の女神アウレサリアの恩寵は、御家より失われるものとお心得あれ』
その書状をベルナルディ男爵はぼくの目の前でばりばりと破り捨てた。
◆◆◆
「さて」
男爵家の、庭の東屋だった。
三日に一度の往診の日。
けれど今日はいつもと様子が違っていた。
東屋の周りに人が集まっていたのだ。
杖をついた白髪の御隠居。
日傘を差した老婦人。
背筋の伸びた、古傷だらけの老騎士。
若い夫婦。
皆、この数か月、ぼくが往診で通った屋敷の人たちだった。
「皆、同じ書状を受け取ったそうでな」
男爵は杖で床をこつんと叩いた。
右手でしっかりと握って。
「意見を聞きたい、と集まってもらった。……どうだ、皆の衆」
最初に口を開いたのは、日傘の老婦人だった。
リヴィエール子爵家の先代夫人、カミーユ様。
膝の痛みで何年も庭に下りられなかった人だ。
「ヌルデ殿のおかげで今年は庭の薔薇を近くで愛でられましたわ」
カミーユ様は日傘を少し傾けてほほえんだ。
「十年ぶりに自分の足で薔薇の棘を避けて歩きましたの。棘が刺さって、痛くて嬉しくて泣きましたわ。……その方との縁を断て、とおっしゃるの? 教会は」
「二十年ぶりに妻と夜会に出られた」
杖の御隠居――マルケッティ伯爵家の先代当主が、続けた。
腰が曲がって、二十年、屋敷から出られなかった人だ。
「ふたりで一曲だけ踊った。皆が見ておった。妻は泣いておった。わしも泣いた。……あの夜を教会がくれたか。くれなんだ」
「わしはな、孫娘とのファーストダンスの練習をしている最中でな」
別の御隠居がふん、と鼻を鳴らした。
「来年の春、あの子の社交界の初舞台だ。最初の一曲は祖父と踊ると約束しておる。今ここで往診を止められては困る。断じて困る」
古傷だらけの老騎士が、静かに立ち上がった。
ヴァレンティ家の御隠居。
かつて旧都の第二騎士団を率いた人だという。
「引退以来、二度と握れぬと思っておった槍をまた握れてな」
老騎士は節くれだった両手をゆっくりと握りしめた。
「教会の騎士団がこの方に手を出すと言うなら。鍛錬の相手が要ろう。第二騎士団から幾人も希望者が出よう」
それからにやりと笑った。
「もちろん、儂が筆頭に立つ」
最後に若い夫婦が顔を見合わせた。
奥方のほうは長いこと、婦人特有の病に悩まされていた人だった。
いくつもの医師と、何度もの教会の治癒を経てそれでも治らなかった。
ぼくは、このひと月余り何度も通い、鍼と温灸を重ねて奥方の体を少しずつ温めていった。
その奥方がそっと自分のお腹に手を当てた。
「あなた。貴族の矜持の、見せ所ですわよ」
夫の青年貴族が背筋を伸ばして深く頷いた。
「もちろんだ。生まれてくる子に語り継げる誇りとしよう」
◆◆◆
男爵が満足そうに喉の奥で笑った。
「聞いたか、ヌルデ殿。これが内側の城壁の答えだ」
「……皆さん」
ぼくは言葉が出なかった。
この人たちのことはひとりずつ、覚えていた。
膝の固さも腰の曲がり方も指の震えも冷えた手足も。
ひとりずつ、手を当ててきた。
「さて。口だけでは教会は退かん」
男爵は杖を握り直した。
「各家から気の利く者を出そう。教会の出入りを見張らせる。神官どもが誰と会い何を運び、どこへ使いを出しておるか。……我らも少しばかり手を伸ばすとしよう」
御隠居たちがそれぞれに頷いた。
――手を伸ばす。
ぼくが患者さんに伸ばしてきた手とは、ずいぶんと意味の違う、手の伸ばし方だった。
◆◆◆
往診を終えて、帰り際。
男爵がぼくを呼び止めた。
声をひそめて。
「ヌルデ殿。……ひとつ、耳に入れておきたいことがある」
「はい」
「侯爵閣下の御令孫が、ここ半年ほど、伏せっておいでだ。教会の司教が三度治癒を施したが良くならぬ。……どうやら、呪いの類らしい」
男爵は遠くの、街の中心にそびえる古い城を見上げた。
「閣下にはわしからヌルデ殿のことをお伝えしてある。お人好しな方だ。教会の顔色をうかがって、迷っておられるかもしれん。……だが孫のためなら、いずれ動かれよう」
◆◆◆
その夜は雨だった。
施術所の看板を下ろして、戸締まりをしようとしたときだった。
どんどんどんっ、と、扉が激しく叩かれた。
「癒し手殿! 癒し手殿はおられるか!」
扉を開けると、ずぶ濡れの男が立っていた。
旅装の外套。
けれど、その下から覗く剣の柄の拵えは、ただの旅人のものではなかった。
男は腕に何かを抱えていた。
外套にくるまれた、子どもだった。
「……お助け、願いたい」
男の声が震えていた。
「教会はもう手の施しようがない、と。……どうか」
◆◆◆
施術台に寝かせて、外套を開いた。
十歳くらいの男の子だった。
金色の巻き毛が汗で額に貼りついている。
息が浅い。
そして。
両手の指先が黒かった。
墨を流したような黒が、指先から手の甲へ。
手首を越えて、肘のほうへ細い根のように這い上がっている。
裾をまくると、両足も同じだった。
爪先から足首、膝の下まで。
四肢の先から心臓へ向かって。
手のひらを男の子の胸に当てた。
――黒い澱が経絡に沿って、根を張っている。
手足の先から少しずつ、少しずつ、心臓へ向かって這い上がっている。
胸の手前でぎりぎり、止まっている。
あと、数日。
「……呪い、ですね」
「教会の司教様が三度、治癒を。ですが塞いでも塞いでもまた這い上がってくると。……もう、手の施しようがない、と」
ぼくは男の子の黒い指先をそっと握った。
冷たかった。
「手の施しようはあります」
男が顔を上げた。
「ただし。これから起こることは、とても恐ろしく見えると思います。驚いてもどうか、ぼくの手を止めないでください。……お約束いただけますか」
男は一瞬だけためらった。
それからまっすぐにぼくを見て頷いた。
「この子の命が助かるなら。この身に誓って」
◆◆◆
袖を肘の上までまくる。
ズボンの裾を膝の上まで。
シャツの裾から助手くんが這い出した。
ずるり。
「ひっ……!」
男が思わず剣の柄に手をかけた。
「触らないで。この子のための手です」
助手くんがぶわっと、四本に分かれた。
右の手首。
左の手首。
右の足首。
左の足首。
四本の先端が、吸盤のかたちに、ぱかっと開く。
黒い澱の、いちばん濃いところへ。
ぴとっ。
ぴとっ。
ぴとっ。
ぴとっ。
四肢に四本。
――手が足りる。
探る。
吸盤の内側から髪の毛ほどの細い触手が、皮膚の表面をすうっと撫でる。
根の、在り処を探していく。
すりすりすり……くにくにくに……ぴたっ。
――見つけた。
手首の内関。
足首の三陰交。
呪いの根がいちばん太く絡みついている経穴。
穿つ。
ミスリルの鍼にポーションをひと垂らし。
その経穴にすっと打つ。
肘の曲池にも。
膝の足三里にも。
ちくっ。
ちくっ。
ちくっ。
ちくっ。
鍼で開いた経絡の口から、助手くんがポーションを流し込んでいく。
飲ませるのではない。
この子はもう、自分で飲み込めない。
無理に流し込めば、誤嚥する。
だから経絡から直接。
とくとくとく……じゅわぁ……。
吸う。
四本の吸盤が、一斉に、ぐっと吸いついた。
ずぞっ。
ずぞぞぞぞぞぞぞぞぞっ!
ごきゅっ、ごきゅっ、ごきゅっ、ごきゅっ。
四本に細く分けた助手くんは、光に透けるほど薄くなっていた。
半透明の触手の中を墨を流したような黒が、遡っていく。
四本、同時に。
ぐぷ、ぐぷぐぷっ……ごぽっ、ごぽごぽごぽ……どぅるどぅるどぅるどぅる……。
男の子の指先から黒が少しずつ、引いていく。
手の甲から。
手首から。
「な、な……何を吸って……!?」
男の声が裏返った。
「これは……これは、邪神の儀式では……!? この子を生贄に……!?」
「違います。呪いを吸い出しています」
ずぞぞぞぞぞ……ずぞぞぞぞぞぞぞぞ……。
――プチュン。
「い、今の音は!?」
「根っこに、当たりました」
◆◆◆
抜く。
ここからが、いちばん難しい。
四肢の経絡に絡みついた、呪いの根。
それを一本も残さずに、引き抜かなければならない。
一本でも残れば、また、生えてくる。
吸盤の内側から細い触手が根の一本一本に絡みつく。
ぎち。
ぎちぎちぎちぎちっ。
抜けまいと、根が皮膚の内側で暴れる。
男の子の手足がびくん、びくん、と跳ねた。
「坊っちゃま……!」
「大丈夫。根が抵抗しているだけです」
みちみちみち……ぎちぎちぎち……。
いちばんしぶといのは、肘と膝だった。
関節の内側に太い根が何重にも巻きついている。
助手くんがぶるぶると震えはじめた。
吸い込んだ黒い澱で半透明だった体が見る間に黒く、太く膨れ上がっていく。
「踏ん張れ、助手くん。ここで切ったら、また生えてくる」
ぎゅうううううううううっ。
――キュインキュインキュインキュイン!
――ガコンッ! ゴゴゴゴゴゴ……!
――グルルルル……ヴォオオオオオオオオオオッ!
「け、獣!? な、何の声だ!?」
「ぼくにもわかりません!」
ずるるるるるるるるるるっ――。
ぶちん。
ぶちん。
ぶちん。
ぶちんっ。
四本、同時に。
封じる。
根の抜けた跡にポーションを含ませた粘液を薄く、薄く塗り込める。
開いた経絡の口を鍼を抜きながら、ひとつずつ閉じていく。
ぬりぬり……ぴとっ。
すっ、すっ、すっ、すっ。
――ちゅぽん。
ちゅぽん。
ちゅぽん。
ちゅぽん。
四本の吸盤が、離れた。
男の子の手足は白かった。
爪先まで指先まで。
子どもらしい、桃色の血の色が通っていた。
「……治りました」
◆◆◆
助手くんがぐらりと揺れた。
黒く、ぱんぱんに膨れ上がったまま、窓のほうへよろよろと這っていく。
窓枠に先端を引っかけて、外へ身を乗り出して――。
おろろろろろろろろろろろろろろ……。
じゅうううううううっ。
雨に濡れた庭の芝が、黒く焦げて白い煙が上がった。
「……」
男は剣の柄に手をかけたまま、窓の外の焦げ跡と、ぼくの背中に戻ってくるすっかりしぼんだ助手くんを交互に見ていた。
「……お疲れさま、助手くん」
助手くんはぼくの背中でぐったりと丸まった。
◆◆◆
しばらくして。
施術台の上で男の子がうっすらと目を開けた。
ぼんやりと、天井を見上げている。
それから自分の手を顔の前に持ち上げた。
白い手だった。
男の子は不思議そうに指を一本ずつ動かした。
親指。
人差し指。
中指。
それから施術台の横に座っていた、ぼくの手に気がついた。
小さな手がぼくの人差し指をきゅっと握った。
温かかった。
「……ああ」
思わず、声が漏れた。
「ちゃんと、握れるな」
男の子はぼくの指を握ったまま、また、すうっと眠りに落ちた。
今度は子どもらしい、深い寝息だった。
人間の二本の手じゃあ、目の前の一人しか救えねえ。
祖父の声が聞こえた気がした。
――じいちゃん。
今日は四本、使ったよ。
◆◆◆
男がぼくの前で片膝をついた。
外套を脱ぐ。
その下から現れたのは、ガリバルディ侯爵家の紋章を胸に刺繍した、騎士の装束だった。
「名乗りが遅れ、申し訳ない。ガリバルディ侯爵家、近衛騎士、ステファノと申す」
それから施術台で眠る男の子を見やった。
「この御方はレオン様。アレクシス・ガリバルディ侯爵閣下の、御令孫であらせられる」
ぼくは男の子――レオンくんの、白い寝顔を見下ろした。
小さな手はまだ、ぼくの指を握ったままだった。
◆◆◆
『侯爵家は白膠木に感謝した』
『信者が100人を超えた』
【今日の「手」】手の施しようがない:打つ手がなく、どうすることもできないこと。
【治療家メモ】鍼灸のツボは、WHO(世界保健機関)によって361か所が標準として定められています。
教会の治癒でも「手の施しようがない」と言われた子。けれど一徹は、根っこを見つけました。
レオンくんの回です。【★★★★★(評価)】で、レオンくんにエールをいただけたら嬉しいです。




