第18話 手のひらを返す
目が覚めたのは昼過ぎだった。
施術所の奥の、仮眠用の長椅子の上。
誰かが毛布をかけてくれていた。
たぶん、イネスさんだ。
体が鉛のように重い。
指一本動かすのも億劫だった。
助手くんも背中でぐったりと丸まっている。
あれだけ分かれて動いたのだ。
無理もない。
待合を覗くと、昨夜の怪我人はもうほとんどが家族に連れられて帰っていた。
そしていつもなら溢れているはずの午後の患者さんが、半分もいなかった。
◆◆◆
気配が変わっていた。
施術所の前の通りを人が足早に通り過ぎていく。
こちらを見ないようにして。
見たとしてもすぐに目を逸らして。
夕方、往診帰りに見覚えのある顔とすれ違った。
ひと月前に肩の痛みを治した人足だった。
「あ、どうも――」
声をかけかけたところで彼はぎょっとした顔をした。
それからさっと道の反対側へ渡って、背を向けた。
手のひらを返す、という言葉がある。
昨日までの態度をころりと変えること。
責める気にはなれなかった。
あんなものを見たのだ。
背中から何十本もの触手を生やした男を。
怖くて当たり前だ。
ただ少しだけ、胸の奥がちくりとした。
◆◆◆
噂はひと晩で街中に広がっていた。
癒し手は背中に化け物を飼っている。
邪神の使いだ。
触手で人を喰う。
いや喰うんじゃなくて中に入るらしい。
入られた者は操られるらしい――。
翌朝。
荷揚げ場の前の広場に一枚の布告が貼り出された。
教会の紋章。
天秤と心臓と金貨。
『 【布告】
加護なき者、イッテツ・ヌルデは、名も無き異形の邪神を祀り、その身に穢れたる触手を宿し、無辜の民を惑わしたり。
これを異端と断ず。かの者の施術所はこれを閉ざす。
かの者が祀る偶像は、これを没収す。
かの者より施しを受けし者、かの者に施しを与えし者は、天秤の女神アウレサリアの恩寵を失うであろう。 』
最後の一文を読んだ人たちが、ざわめいた。
恩寵を失う。
教会の治癒を二度と受けられなくなる、ということだ。
その日の午前、施術所の待合は空っぽだった。
◆◆◆
昼前。
施術所の前に教会の一団が現れた。
先頭にあの痩せた神官。
その後ろに補佐役の若者。
それから白銀の鎧をまとった、神殿騎士が六人。
「異端者イッテツ・ヌルデ。布告に基づき、この施術所を閉鎖する。そこの邪神の偶像を引き渡せ」
神官の指が奥の神棚を指した。
木彫りのまんまるの、ひとつ目の神様。
助手くんが彫ってくれた分霊。
その前に下町の人たちが供えてくれた、花と、果物と、お酒と、弁当の包み。
背中で助手くんがぶわりと膨らんだ。
「……だめだ、助手くん」
ぼくはシャツの上から背中を押さえた。
ここで暴れたら、本当にぼくは邪神の使いになってしまう。
「神像はお渡しできません。あれはぼくの恩人の神様です」
「異端者の分際で――」
神官が騎士たちに顎をしゃくった。
白銀の鎧ががしゃり、と一歩前に出た。
そのときだった。
「――おい」
低い声が通りに響いた。
◆◆◆
ブルーノさんだった。
その後ろに人足たちがずらりと並んでいた。
二十人。
三十人。
いや、もっと。
毎朝、レィディオ体操666で並んでいる顔ぶれだ。
その中に胸に包帯を巻いたハンスさんもいた。
「先生に何の用だ」
「異端者の施術所を閉鎖する。邪魔立てすれば、貴様らも――」
「先生は先生だろうが!」
ブルーノさんが怒鳴った。
荷揚げ場中に響く、腹の底からの声だった。
「俺の腰を銅貨三枚で治してくれたのは誰だ! 昨日の火事でハンスの命を拾ってくれたのは誰だ! あんたらの教会はあの晩、何をしてた!」
神官の顔が引きつった。
「……あ、あの夜、触手を見た者がおろう! 異形の邪神の力をその目で見た者が!」
神官は人垣を見回した。
「誰か、証言せよ! 見た者は前に出よ!」
しん、と静まり返った。
それから。
「あたし達は慣れない手当てで忙しかったからね」
人垣をかき分けて前に出てきたのは酒場のリリアさんだった。
腰に手を当てて、神官を真っ向から睨みつけている。
「何も見ちゃいないよ」
「見てねえな」
ブルーノさんが腕を組んだ。
「俺は気を失ってたからな」
ハンスさんが包帯の胸を張った。
「あたしも見てない」
あの夜、「中から喰われてる」と青ざめていたお姉さんが、つんと顎を上げた。
「毛布運んでてそれどころじゃなかったし」
「見てねえ」
「知らねえな」
「なんのことだか」
「触手? ああ、蛸の足なら昨日食ったぜ」
人垣のあちこちからとぼけた声が上がる。
神官の顔が赤くなり、それから青くなった。
◆◆◆
「――先生を爪弾きにしようなんざ、許さないよ」
次に前に出たのはヴィオレッタさんだった。
黒髪をきっちりと結い上げ、背筋をまっすぐに伸ばして。
その後ろにお姉さんたちがずらりと並んでいた。
「神官様。あんたんとこの騎士様方、ずいぶんとうちの店のお得意様でいらっしゃいますわねえ」
騎士のうち何人かの鎧ががしゃりと鳴った。
「先生に手を出すなら、今日限り、あんたらの誰ひとり、うちの店の敷居を跨げないもんだと思いな!」
「うちの酒場もだよ!」
リリアさんが続けた。
「下町の酒場は今日から一軒残らず、教会の方々はお断りさ!」
人垣の後ろからゴンサロさんの、潮で焼けた声が飛んだ。
「おう、ブルーノ! 荷物はどうする!」
「荷物は当面、船の上だな! 教会へ届く分は一俵たりとも揚げねえ!」
「馬鹿言え、船だって当面休業だぜ! 教会の荷なんざ、川の上にも乗せてやるもんか!」
神官の顔から血の気が引いた。
旧都の教会が使う蝋燭も香油も葡萄酒も麦も。
そのほとんどが大河の船で運ばれてこの荷揚げ場から揚がっている。
◆◆◆
静かな声がした。
「神官様」
翡翠亭の、スイランさんだった。
隣に黙ってゲンジさんが立っている。
「翡翠亭には内側の城壁の方々も、多くお越しくださいます。ベルナルディ男爵様も、お得意様でいらっしゃいます」
スイランさんはゆっくりと、丁寧に頭を下げた。
東の国の作法だった。
「先生に手を上げられるのでしたら、翡翠亭は教会と懇意の方々のご来店を今後、一切お断りいたします。……そう、皆様にもお伝えいたしますので」
顔を上げたスイランさんの目は、少しも笑っていなかった。
ゲンジさんがひとことだけ言った。
「……先生の握り飯は、明日も握る」
◆◆◆
とどめは人垣の後ろから息を切らして駆けつけてきた人だった。
「お、遅れましたな……! バルデラマ商会、会頭ロドリゴ! 推参!」
ロドリゴさんは肩で息をしながら、神官の前に立った。
「教会への蝋燭、香油、布、紙。当商会の納品は本日をもって、すべて止めさせていただきます」
それからにっこりと笑った。
「商人の流儀でございます」
神官は唇を震わせてしばらく立ち尽くしていた。
神殿騎士たちは互いに顔を見合わせて、もう一歩も前に出ようとしなかった。
「……このままでは、済まさぬ」
神官はそれだけを絞り出すように言って、踵を返した。
「アウレサリア様の御名のもとに。……必ずや」
白い法衣と白銀の鎧が通りの向こうへ去っていく。
人垣からわっと歓声が上がった。
◆◆◆
その夕方、施術所の待合はいつもの倍の人で溢れていた。
布をくぐってきた人の中にあの人足がいた。
道の反対側へ渡って、背を向けた、あの人だ。
彼はぼくの前で深々と頭を下げた。
「……すまねえ、先生。俺、怖くなっちまって」
「いいんですよ。怖くて当たり前です」
「肩がまた痛くてよ。……診て、もらえるかい」
「もちろん」
手のひらを返した人が、もう一度、手のひらを返して戻ってきた。
それでいいのだと思った。
帰り際、ヴィオレッタさんが、ぼくの肩をぽんと叩いた。
「あんたがうちの子らに手を抜かなかったからさ。今度はこっちが手を貸す番だよ」
◆◆◆
夜。
誰もいなくなった施術所でぼくは神棚の前に座った。
木彫りの神様はお供えに埋もれるようにしてまんまるの目でこちらを見ていた。
ぼくは手を合わせた。
あの暗い部屋で神様に手を当てたときに見た光景を思い出していた。
手が足りないと思った瞬間にいつもどこからか誰かの手が差し伸べられていた。
ずっと、運が良かっただけだと思っていた。
それは神様がほんの少しずつ寄せてくれた巡り合わせだった。
今日、差し伸べられた手は違った。
ブルーノさんの手。
リリアさんの手。
ヴィオレッタさんの手。
スイランさんとゲンジさんの手。
ゴンサロさんの手。
ロドリゴさんの手。
ハンスさんの手。
ぼくがひとりずつ、手を当ててきた人たちの手だった。
「……今度は神様の番じゃなかったんですね」
背中で助手くんがぼくの肩をそっと撫でた。
木彫りの神様のまんまるの単眼が、燭台の灯りを受けてほんのりと緑に光った気がした。
◆◆◆
『教会は白膠木を異端と見なした』
『下町は白膠木を守った』
【今日の「手」】手のひらを返す:それまでの態度を、急にがらりと変えること。
【治療家メモ】タコの腕は8本で、脳の神経細胞の多くが腕の中にあると言われます。腕が半ば自分で考えて動くので、下町の皆さんが「蛸の足」と言い張ったのも、あながち間違いではないかもしれません。
手のひらを返したのは誰で、返さなかったのは誰だったのか。下町の皆さん、最高です。
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