第17話 手分け
最初に気づいたのは、軒下の分体だった。
真夜中。
離れの寝台で眠っていたぼくの頭に、ちかちかと、赤い光が流れ込んできた。
分体が見ている景色だ。
施術所の軒下から見上げた夜空が、南の方角だけ、ぼんやりと赤く染まっていた。
飛び起きて、窓を開ける。
焦げくさい風が頬を打った。
遠くで半鐘が鳴りはじめていた。
◆◆◆
火元は巨人の渡しに近い外周の長屋街だった。
油問屋の蔵から出た火が、乾いた冬の風に煽られて、木造の長屋を次々と呑み込んでいた。
施術所に駆けつけたときには、もう、怪我人が運び込まれはじめていた。
「先生! こっちだ! 火傷がひでえ!」
「煙を吸った! 息ができねえって!」
ブルーノさんが、人足たちを率いて、戸板に乗せた怪我人を次々と担ぎ込んでくる。
「イネスさん、トリアージを!」
「はい!」
イネスさんが赤、黄、緑の布を手早く切り分けて、怪我人の腕に結んでいく。
赤は今すぐ。
黄は待てる。
緑は自分で動ける。
前に一度、教えただけなのに、彼女の手際はぼくより早かった。
下町中が集まってきた。
リリアさんの酒場から、お湯を沸かした大鍋が運ばれてくる。
ヴィオレッタさんが、お姉さんたちを引き連れて、ありったけの清潔な布を抱えてきた。
翡翠亭のゲンジさんは、黙って井戸から水を汲み続けている。
スイランさんとサヨさんは、軽傷の人たちの手当てを手伝っていた。
「イッテツ殿! 倉庫を開けますぞ! ありったけのポーションを!」
ロドリゴさんが、寝間着の上に外套を羽織ったまま、商会の倉庫の鍵を振り回していた。
『草原の渡り鳥』も来た。
ノーラさんが水の魔法で燃えさかる軒を冷やし、ガレスさんとティオさんが火の中から逃げ遅れた人を担ぎ出してくる。
ミレイユさんは屋根の上から火の流れを見て、皆に指示を飛ばしていた。
◆◆◆
ぼくは診た。
火傷にポーションをひと垂らし塗り広げ、鍼を打ち、温灸を据える。
ふわん。
次。
ふわん。
次。
折れた腕を整復して、添え木を当てる。
次。
煙を吸って咳き込む人の背中を叩き、胸の経穴に鍼を打つ。
ふわん。
次。
けれど、怪我人は減らなかった。
赤い布を巻いた人が、待合の床を埋めていく。
火傷が深すぎて、塗り薬では追いつかない人。
煙を深く吸い込んで、喉の奥がひゅうひゅうと鳴っている人。
そのひとりの喉に、手を当てた。
――焼けている。
喉の奥。
気管。
その先の、肺まで。
外から鍼を打っても、薬を塗っても、届かない場所だ。
隣の人も。
その隣の人も。
「先生! こいつも頼む!」
ガレスさんが若い男を担いで飛び込んできた。
荷役の若い衆の、ハンスさんだった。
毎朝、レィディオ体操666で前のほうに並んでいる、二十歳の青年だ。
「逃げ遅れたガキを助けに、火ん中に戻ったんだ! ガキは無事だ! けど、こいつが梁の下敷きに……!」
ハンスさんの胸はひしゃげていた。
肋骨が何本も折れて、肺に刺さっている。
喉も焼けている。
唇が紫色だった。
息がもう、ほとんどない。
ぼくはハンスさんの胸に両手を当てた。
それから周りを見た。
床を埋めた、赤い布の人たち。
喉を鳴らして、苦しそうに胸を上下させている人たち。
両手ではひとりしか救えない。
――あの日と、同じだ。
手が足りない。
◆◆◆
背中で、助手くんが、どくん、と脈打った。
熱い。
施術所の奥の、神棚のほうから、何かが流れ込んでくるのを感じた。
供えられた花や、果物や、お酒や、ちゃりんと鳴った銅貨の、その一枚一枚に込められた、何か。
ありがとう、と手を合わせた人たちの、気持ち。
それが、背中の真ん中に、とくん、とくんと、注ぎ込まれていく。
「……そうか」
ぼくは顔を上げた。
「皆さん」
施術所中に聞こえるように、言った。
「今から、ぼくの『助手』を出します。見た目はかなり恐ろしいと思います。でも患者さんを助けるためのものです。どうか、驚いても手を止めないでください」
もう、他言無用とは言わなかった。
シャツの裾から、助手くんがずるりと這い出した。
◆◆◆
悲鳴が上がった。
背中から伸び上がった暗い緑の触手が、燭台の灯りを浴びてぬらりと光る。
ずるるるるるるるるるるっ。
どこまでも伸びる。
天井の梁に届くほどに。
それから。
ぶわっ。
ぶわわわわわわっ!
分かれた。
十本。
二十本。
三十本。
四十本。
しゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅるるるるるっ!
枝分かれした触手が、施術所中に、雨のように降り注ぐ。
床に横たわる赤い布の人たちのもとへ、一本ずつ、迷いなく。
「ぎゃああああああっ!?」
「か、か、神様あああっ!?」
「おかあちゃああああん!!」
手分け、だった。
◆◆◆
腕から背中まで焼けただれ、水ぶくれだらけになった人足のもとへ、一本。
先端がぱかっと平たく開いた。
ぬるぅぅぅぅぅぅ……。
ぺたっ。
ぺたぺたぺたぺたぺたっ。
粘液の薄い膜が焼けた肌をまるごと包み込んでいく。
じゅわっ。
じゅわわわわわ……しゅわしゅわしゅわしゅわ……。
膜の下でぷくりと膨れていた水ぶくれが、ひとつ、またひとつと萎んでいく。
ぷちっ。
ぷちぷちぷちぷちっ。
「ひいっ! の、呑まれる! 呑まれてる!」
「呑んでません! 薬の膜で包んでいるだけです!」
ぴりっ……ぺりぺりぺりぺりぺりぃぃぃっ。
剥がれた膜の下から、桃色の、つるりとした新しい肌が現れた。
「……あれ? 痛く、ねえ」
「……治りました」
◆◆◆
喉の奥を焼かれて、ひゅうひゅうと笛のような息をしている人のもとへ、一本。
いや、隣にもその隣にも。
五本。
六本。
触手の先がすうっと細くなる。
髪の毛よりは太く、縄よりは細く。
「喉と肺が焼けています。中から直接、薬を塗ります。少し苦しいですがすぐ楽になります」
開いた口から、気管へ。
つるるるるるるる……。
くぷっ。
くぷくぷくぷ……こぽ、こぽこぽこぽ……。
気管の内側の、焼けただれた粘膜に、ポーションを薄く、丁寧に塗り広げていく。
その先で枝分かれしていく気管支の、一本一本にも。
右へ。
左へ。
さらにその奥へ。
ぬりぬりぬりぬり……ぴと、ぴと、ぴと、ぴと……すりすりすりすり……。
「な、中から……中から喰われてる……!?」
毛布を抱えていたお姉さんのひとりが、青ざめて立ちすくんだ。
「喰ってません! 塗ってます!」
しゅるるるるるるるっ。
――しゅぽんっ!
「げほっ! げほげほげほっ! ごほぉっ! がはっ!」
患者さんが身をよじって激しく咳き込んだ。
真っ黒な煤の塊をぺっ、と吐き出す。
それから大きく、大きく、胸いっぱいに、息を吸った。
「……すうううう……はああああ……。息が……できる……」
しゅぽんっ。
「げほげほっ!」
しゅぽんっ。
「ごほっ、がはっ!」
しゅぽんっ。
「げっほげほ……すうううう……」
「……治りました。治りました。治りました」
◆◆◆
崩れた梁の下敷きになって、脚の骨が折れている男のもとへ、一本。
しゅるりと脚に巻きつく。
ぎゅううううう……。
「いでででででっ!」
「引っ張ってずれを戻しています。少しだけ我慢を」
みしっ。
みしみしみしっ。
ごりっ。
――ごきんっ!
「ぎゃっ!」
ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅぎゅぎゅぎゅっ。
触手がそのまま添え木の代わりになって、骨を締め上げる。
粘液が皮膚の上から、じゅくじゅくと染み込んでいく。
――ぽきゅっ。
「……え? 今、なんか可愛い音しなかったか?」
「治りました」
◆◆◆
割れた硝子で腕や顔をざっくりと切った人たちのもとへ、何本も。
先端が細い縫い針の形になる。
その後ろから、糸のようにさらに細い触手が、するすると伸びる。
夜ごとの、あの実験の成果だった。
ちくっ。
しゅっ。
ちくっ。
しゅっ。
ちくちくちくちくちくちくっ。
しゅしゅしゅしゅしゅっ。
ぬいぬいぬいぬいぬい……きゅっ。
ちょきん。
――ぴたっ。
傷が一本の細い線になった。
「はっ、速っ……!? 俺、仕立て屋だけど、あんな速い運針見たことねえ……」
「治りました」
◆◆◆
煙に巻かれて意識を失い、息の止まりかけた老人のもとへ、一本。
胸に、ぐるりと巻きつく。
どんっ。
どんっ。
どんっ。
どんっ。
胸骨の上から規則正しく、強く押す。
心臓を、外から動かす。
前の世界で何度もやった手順だ。
どんっ。
どんっ。
どんっ。
どんっ。
どんっ。
「が、頑張れ爺さん!」
どんっ。
どんっ。
どんっ――。
――ぷはぁっ!
老人が目を見開いて大きく息を吐いた。
「……ここは……あの世かね……?」
「下町の施術所です。……治りました」
◆◆◆
施術所中で音が鳴っていた。
ぬるぅ。
ぺたぺた。
じゅわわ。
ぷちぷち。
ぺりぺりぃ。
つるる。
くぷくぷ。
ぬりぬり。
しゅぽんっ。
ぎゅううう。
みしみし。
ごきんっ。
ぽきゅっ。
ちくちく。
しゅしゅしゅ。
ちょきん。
ぴたっ。
どんっ。
どんっ。
ぷはぁっ。
ちゅぽん。
すぽーん。
きゅぽっ。
ぽんっ。
ちゅぽぽぽぽん。
入り口で毛布を運んでいたガレスさんが、口を半開きにして呟いた。
「……俺んときより、だいぶ派手だな」
「あれ、俺らも庵でやられたやつだよな……」
ティオさんがなぜか自分の膝をさすっていた。
◆◆◆
ぼくの両手はハンスさんの胸の上にあった。
助手くんの、いちばん太い一本。
本体がひしゃげた胸の傷口から入っていく。
ぬぷり。
ずぶ……ずぶずぶずぶずぶずぶ……。
ぐちゅっ。
ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅ……。
折れた肋骨を、内側から一本ずつ抱き起こす。
みしっ。
みしみしみしみしっ。
ごきんっ。
ごきんっ。
ごっきんっ。
肺に刺さった骨の破片を、そっと抜き取る。
ずるっ。
ずるるっ。
ぬちゅ……ぽろっ。
裂けた肺。
それから破れた太い血管。
噴き出すように、命が漏れ出している。
塞ぐだけでは、間に合わない。
――なら、代わりになればいい。
触手の先がふたつに分かれた。
破れた血管の、こちらの切れ目と、あちらの切れ目へ。
ぬるり。
ぬるるるるるる……きゅっ。
触手そのものが、血管になった。
裂けた肺の一部を触手が薄く、薄く広がって、内側から包み込む。
ふわぁ……ぴとっ。
どぅるん。
どくん。
どくん。
どくん。
どくん。
ハンスさんの胸の中で何かが脈打ちはじめた。
ぐぽっ。
ぐぽぐぽぐぽ……ぬちぬちぬちぬち……どぅるどぅるどぅるどぅる……じゅっぷ、じゅっぷ、じゅっぷ……。
――ギュイーン!
「な、なんだ今の音!?」
戸板を担いだブルーノさんが叫んだ。
「わかりません!」
――キュインキュインキュインキュインッ!
「鐘かい!? 火事の鐘かい!?」
リリアさんが、大鍋を抱えたまま振り返った。
「わかりません!」
――ガコンッ! ゴゴゴゴゴゴゴ……!
「地揺れか!? まだ崩れるのか!?」
「わかりません!」
――グルルルル……ヴォオオオオオオオオッ!
「け、獣!? どこに獣が!?」
「ここには助手くんしかいません!」
「その助手が怖いのよ!!」
ミレイユさんが、屋根の上から叫んだ。
前にも聞いたことのある台詞だった。
――ぱっぱかぱーん! ぱっぱかぱっぱっぱーん!
「祝いのラッパですかな!? 何か、めでたいのですかな!?」
ロドリゴさんが、倉庫の鍵を握りしめたまま身を乗り出した。
「わかりません!!」
――テレレレッテッテー!
もう、誰も聞かなかった。
イネスさんだけが帳面に赤い布の数を書きつけながら、ぽつりと言った。
「……わかりませんよね」
――チャラララララ~ン♪
――ピロリロリン♪
――どぅるるるるるるるるる……。
――ちゅぽんっ。
助手くんがハンスさんの胸から抜けた。
傷口はもう、どこにもなかった。
ハンスさんの胸が大きく、ゆっくりと上下した。
紫色だった唇に、赤みが差していく。
うっすらと、目が開いた。
「……せん、せい……? あの、ガキは……」
「無事ですよ。あなたが助けたんです」
「……そっか」
ハンスさんは少しだけ笑って、また目を閉じた。
眠ったのだ。
呼吸は穏やかだった。
「……治りました」
その声に、重なるように。
施術所のあちこちで最後の音が鳴った。
ちゅぽん。
すぽーん。
きゅぽっ。
ぽんっ。
ぷちゅん。
しゅぽぽぽぽぽぽぽぽーん。
「治りました。治りました。治りました。治りました。治りました――」
◆◆◆
火が消えたのは、夜明け前だった。
施術所の床で何十人もの人が、静かな寝息を立てていた。
赤い布を巻いた人は、もう、ひとりもいなかった。
助手くんが一本、また一本と、ぼくの背中へ戻ってくる。
最後の一本が収まると、ぼくは壁に背中を預けて、ずるずると座り込んだ。
手が震えていた。
顔を上げると、施術所の入り口に人が溢れていた。
怪我人の家族。
近所の人たち。
火消しの男たち。
皆が黙って、ぼくを見ていた。
ぼくの背中を。
恐怖。
困惑。
それから別の何か。
ささやき声が、さざ波のように広がっていく。
「……見たか、今の」
「触手、だったよな」
「先生の、背中から……」
人垣の後ろで白い法衣の裾がひるがえるのが見えた。
あの補佐役の若者だった。
彼はぼくと目が合うと、身を翻して、内側の城壁のほうへ駆けていった。
背中で助手くんがぼくの肩をそっと撫でた。
ぼくは目を閉じた。
――手が届くところに、命があった。
だから手を伸ばした。
それだけのことだ。
◆◆◆
『白膠木の触手が旧都に知れ渡った』
【今日の「手」】手分け:一つの仕事を、何人かで分けて受け持つこと。
【治療家メモ】やけどをしたら、まずは流水で十分以上冷やすのが基本です。煙を吸ったあとは喉が腫れることがあるので、声がかすれたら要注意です。
下町の大火事。ひとりでは手が足りないとき、皆が手を分けてくれました。
第一部の山場のひとつです。もし胸が熱くなったら、ページ下部の【★★★★★(評価)】をポチッと押していただけると、作者の励みになります。




