第16話 手に余る
その馬車が施術所の前に停まったとき、待合にいた全員が口をつぐんだ。
黒塗りの箱馬車だった。
扉には金の紋章。
荷揚げ場の泥にまみれた通りには、およそ似つかわしくない。
降りてきたのは白髪を撫でつけた初老の男性だった。
仕立てのいい上着に磨き上げた靴。
待合の人足たちをちらりとも見なかった。
「癒し手、イッテツ・ヌルデ殿はおられるか。ベルナルディ男爵家の執事、エドモンドと申す」
内側の城壁からの、往診の依頼だった。
◆◆◆
「主人が半年前に倒れましてな」
執事のエドモンドさんは、施術所の奥で声を潜めて言った。
「頭の中の血の道が、詰まったのだと。教会の治癒で命は取り留めましたが、右の手足が思うように動かぬのです。教会には金貨二十枚を三度、お納めしました。三度とも少しは良くなり、すぐまた元に戻る」
卒中の後遺症だ。
前の世界でも何人も診てきた。
「下町の荷役から、腕のいい手当て師がいると聞きましてな。……正直に申し上げれば、藁にもすがる思いで」
ぼくは待合を振り返った。
今日の患者さんがまだ十人以上並んでいる。
「今日の患者さんを全員診てからでよろしいですか」
エドモンドさんの眉が、ぴくりと動いた。
男爵家の使いを待たせる町医者など、聞いたこともないのだろう。
「……順番、ですか」
「はい。順番です」
エドモンドさんはしばらくぼくを見ていた。
それから待合の端の、空いた椅子に腰を下ろした。
背筋をまっすぐに伸ばしたまま、二刻、黙って待っていた。
◆◆◆
内側の城壁をくぐるのは、初めてだった。
門番が男爵家の紋章を見て道を開ける。
壁の内側は空気からして違った。
石畳には塵ひとつなく、通りには花壇が並び、行き交う人の服の色が明るい。
外周の喧騒が嘘のように遠かった。
ベルナルディ男爵――ロレンツォ様は、広い寝室の天蓋つきの寝台に横たわっていた。
六十を少し過ぎたくらいだろうか。
がっしりとした体つきなのに右の手は拳を握ったまま固まっていた。
「……下町の、手当て師か」
口元が少し歪んで言葉が聞き取りにくい。
「教会の連中がさんざん金を取って、この様だ。お前に何ができる」
「やってみなければ、分かりません」
ぼくは男爵の右腕に触れた。
手のひらに体の中の様子が伝わってくる。
頭の中の、詰まった血の道。
その先で神経の通り道がところどころ途切れている。
頭の百会、四神聡。
手の合谷、曲池。
足の足三里、三陰交。
ミスリルの鍼にポーションをひと垂らし。
特級もぐさを載せて、火を点ける。
ふわん。
ふわん。
ふわん。
男爵の体の上にいくつもの魔法陣が、重なるように浮かび上がった。
「な、何事だ!? 今の魔法陣は何事だ!?」
「ぼくにもわからんです」
「わからんで済むか!」
男爵が思わず身を起こした。
右手で寝台の縁をつかんで。
寝室がしんと静まり返った。
「……旦那様。今、右手で」
エドモンドさんの声が、震えていた。
男爵は自分の右手を見下ろした。
握って、開いてまた握る。
半年ぶりに指が言うことを聞いていた。
◆◆◆
それから三日に一度、ベルナルディ男爵家へ通った。
ひと月で男爵は杖をついて庭を歩けるようになった。
言葉もずいぶん聞き取りやすくなった。
「まったく、わけのわからん男だ。魔法陣は出すわ、わからんとほざくわ」
男爵は口ではそう言いながら、ぼくが来る日には必ず庭の東屋で待っていた。
けれど。
杖なしではまだ歩けない。
右手の細かな動きも、完全には戻らない。
神の手でできるのはここまでだった。
ぼくには分かっていた。
助手くんを使えば、途切れた神経を一本ずつつなぎ直せる。
イネスさんの右手を治したときのように。
けれど、ここは内側の城壁の、貴族の屋敷だ。
執事も侍女も医師の付き添いもいる。
背中で助手くんがじれったそうにもぞもぞしていた。
「……まだ、だめだ」
帰りの馬車でぼくは小さく呟いた。
◆◆◆
ベルナルディ男爵が杖をついて歩いたという噂は内側の城壁の中をあっという間に駆け巡ったらしい。
施術所に、往診の依頼が届くようになった。
子爵家の奥方の偏頭痛。
男爵家のご隠居の膝。
騎士団の古参の、古傷の肩。
どれも紋章つきの封筒で。
「本日分、十二通です」
イネスさんが帳面の横に封筒を積み上げた。
「十二……」
「昨日は九通。一昨日は七通でした」
待合には今日も下町の患者さんが溢れている。
午前は夜勤明けのお姉さんたち。
昼は人足と冒険者。
夕方は職人と奥さんたち。
そこに、内側の城壁への往診が加わる。
「……手に余りますね」
「はい。率直に申し上げて」
イネスさんは表情を変えずに頷いた。
「貴族の方々は順番を待つことに慣れておられません。先に診ろという催促も来ております」
「順番は順番です。下町の人たちを後回しにはしません」
「承知しております。では往診は午後の三刻から二刻だけ、日に三件までとお返事いたします。それ以上はお待ちいただくと」
イネスさんはさらさらと帳面に書きつけた。
右手で。
もう、字は震えていなかった。
それからほんの少しだけ、口元をほころばせた。
この人は無表情で仕事をする人なのだと、最初は思っていた。
けれど最近はよく笑顔を見せるようになった。
帳面の数字がぴたりと合ったとき。
患者さんに、ありがとうと言われたとき。
ロドリゴさんに「昨日も凝っていらっしゃいました」と告げるとき。
それがなんだか、嬉しかった。
◆◆◆
その日の夕方だった。
施術所の前に、白い法衣の男が二人現れた。
夜の街で分体が見た、あの二人だった。
ひとりは痩せた中年の神官――教会でぼくに「詐欺」と言った、あの人だった。
もうひとりは若い補佐役らしい。
「癒し手、とやら。少々、お話がある」
待合の人足たちがざわりと身じろぎした。
「加護なき者が治癒を行っているとの訴えがあった。しかも内側の城壁の貴族方にまで手を伸ばしているとか」
「治癒ではありません。手当てです」
「手当てで半年動かぬ手足が動くものか」
神官の目が奥の神棚に向いた。
木彫りの、まんまるの、ひとつ目の神像に。
山と積まれたお供えに。
賽銭箱に。
その目がすっと細くなった。
「……これは何の神だ」
「名前はありません。ぼくの恩人の神様です」
「名も無き、異形の神、か」
神官はそれ以上は何も言わなかった。
けれど、補佐役の若者が懐から帳面を取り出して何かを書きつけていた。
神像の形を、写し取っているようだった。
「近いうちに、正式に調べさせていただく。……アウレサリア様の御名のもとに」
二人が去ったあと、待合はしばらく静まり返っていた。
最初に口を開いたのは、ブルーノさんだった。
「……なんでえ、あいつら。先生は俺の腰を銅貨三枚で治してくれた人だぞ」
誰かが、そうだそうだと言った。
それから何人かが神棚の前に行って、手を合わせた。
ちゃりん。
ちゃりん。
◆◆◆
その夜、離れでぼくは分体を五つ切り離した。
五つまでなら、同時に動かせるようになっていた。
そのうちのひとつを、窓から放つ。
施術所の軒下へ。
見張り番だ。
「……何事もなければいいんだけどな」
背中で助手くんが低く、小さく、うなるように揺れた。
◆◆◆
『白膠木の名が内側の城壁に届いた』
【今日の「手」】手に余る:自分の力では扱いきれないこと。
【治療家メモ】脳卒中のあとの回復は、発症から数か月がもっとも大きいとされます。それでも、その後のリハビリにも意味があります。あきらめないことも治療のうちです。
一徹にも、手に余ることはあります。そして、教会がとうとう動き出しました。
ここから物語が大きく動きます。【ブックマーク追加】で、続きをお見逃しなく。




