第15話 手を合わせる
「先生、うちのやつを診てやってくれませんかね」
ある朝、施術所の布をくぐってきたのは白い前掛けをした、寡黙そうな板前さんだった。
ゲンジさん。
川沿いの料亭『翡翠亭』の板場を仕切る料理人で女将さんの旦那さんだという。
「うちのやつはもう十年も腰をやっちまってましてね。教会の治癒も二度受けたんだがひと月もすりゃ元の木阿弥でさ。この頃は座敷の挨拶に出るのもやっとで」
その日の夕方、翡翠亭へ往診に出かけた。
翡翠亭は旧都でも少し変わった店だった。
大河をずっと東へ遡った先にある国から、ゲンジさんと女将さんの夫婦が、二十年前に身一つで川を下ってきて始めた店だという。
最初は川港の屋台だった。
それが今では内側の城壁の貴族までが通う大店になっている。
門をくぐると、石畳の先に引き戸があった。
中は板張りの廊下と、藺草に似た草を編んだ敷物の座敷。
出汁の香りがふわりと鼻をくすぐった。
――懐かしい、と思った。
来たこともない店なのに。
女将のスイランさんは五十がらみの、品のいい女性だった。
けれど帳場の奥で立ち上がろうとした瞬間、顔を歪めて机に手をついた。
「……ごめんなさいね、先生。お恥ずかしいところを」
腰に手を当てる。
助手くんを丸めている今、手のひらに体の中の様子がぼんやりと伝わってくる。
腰の骨の、下から二番目。
椎間板が潰れて神経を圧迫している。
十年分の正座とお辞儀と重い膳の上げ下ろし。
教会の治癒は傷を塞ぐけれど、こういう『積み重なったもの』までは、ほどいてくれないらしい。
「一度では治りません。でも通っていただければ必ず良くなります」
スイランさんは少し驚いた顔をした。
「……一度で治らないとおっしゃる方はこの国では初めてです。故郷の鍼師も昔同じことを言っていました」
「積み重なったものは、少しずつほどくしかないんですよ」
手塩にかける。
前の世界でも慢性の腰痛はそうやって診てきた。
◆◆◆
もうひとり、手のかかる患者さんがいた。
ギガンテ河の川船の船長、ゴンサロさん。
日に焼けた顔に白い髭。
腕には錨の刺青。
ブルーノさんの紹介でやってきた。
「三年前によ荷崩れに巻き込まれて右の膝と腰をやられちまってな」
ゴンサロさんは杖をついていた。
「教会じゃあ、骨はくっついたって言われた。くっついてはいるんだ。けどよ船の揺れに膝がもたねえ。甲板に立つと、がくっと来ちまう。……二度と、船には乗れねえって言われたよ」
診てみると、確かに骨は治っていた。
けれど、くっつき方が悪い。
わずかにねじれて固まった骨のせいで膝を支える筋肉と靭帯が、三年かけてすっかり痩せ細っていた。
「船に乗りたいですか」
「乗りてえよ。四十年、川の上で生きてきたんだ」
「なら、乗れるようにしましょう。ただし、半年はかかります。それとぼくの言う鍛錬を毎日やってもらいます」
ゴンサロさんはぎょろりとぼくを見た。
それからにやりと笑った。
「上等だ」
◆◆◆
それからふたりとも、律儀に通ってきた。
スイランさんには腰の大腸兪と足の委中に鍼。
ポーションをひと垂らし揉み込んで特級もぐさで温灸。
ふわん、と魔法陣。
「――あら、まあ」
「ぼくにもわからんです」
ゴンサロさんには膝の周りの筋肉をほぐしてねじれた関節を毎回少しずつ、少しずつ戻していく。
それから片足立ち。
踵の上げ下ろし。
板の上での足踏み。
「ぐおおおっ……! これが鍛錬かよ……!」
「船の揺れに耐えるには、これくらいは」
ひと月でスイランさんは杖なしで座敷に出られるようになった。
ふた月でゴンサロさんは杖を手放した。
三月目のある朝。
ゴンサロさんが施術所に飛び込んできた。
「先生よぉ! 乗れたぜ! 昨日、久しぶりに船の舳先に立ってよ、川を下ったんだ! 膝はびくともしなかった!」
ゴンサロさんはぼくの両手をごつごつの手でがっしりと握った。
「……ありがとよ。ありがとよ、先生」
握ったまま、しばらく離してくれなかった。
◆◆◆
その日の帰り際、ゴンサロさんは待合の神棚の前で立ち止まった。
「なあ、イッテツ先生よぅ。あの神様にゃ、何をお供えすりゃ喜んでもらえるんだ?」
「お気持ちがいちばんですよ」
「そういうんじゃなくてよ。酒か? 肉か? この街じゃ手に入らねえもんでもいいぜ。船乗りの伝手なら南の果物でも東の織物でもなんだって持ってこられる」
ぼくは少し考えた。
「……そういえば、この前お供えした木の実は、翌朝にはなくなってましたね」
背中で助手くんがぎくりと固まった。
「おお、そりゃあ、神様が召し上がったんだな! よし、決まりだ。とびきりのを持ってくる!」
ゴンサロさんは上機嫌で帰っていった。
ぼくはシャツの上から背中をぽんぽんと叩いた。
「……助手くん」
助手くんはもぞもぞと明後日の方向を向いた。
◆◆◆
翌日から神棚が賑やかになった。
ゴンサロさんは南の国の甘い酒と見たこともない黄色い果物を。
ブルーノさんたち人足は、仕事帰りに干し魚を。
酒場のリリアさんは、店で一番の葡萄酒を。
娼館のヴィオレッタさんからは、お姉さんたちが摘んできた野の花が、毎朝届いた。
そして昼どきには。
「先生ー! お弁当、お持ちしましたー!」
翡翠亭の娘さん、サヨさんが大きな風呂敷包みを抱えてやってくる。
スイランさんの腰が良くなってからというもの、毎日、施術所に昼の弁当を届けてくれるようになったのだ。
「母がね先生がお昼を抜いてるって聞いて怒っちゃって。あ、これは神様の分!」
サヨさんは弁当とは別の小さな包みを神棚に供えてぱんぱんと手を打った。
中身は季節の果物と翡翠亭自慢の、甘い餅菓子だった。
風呂敷をほどくと、竹の皮に包まれた握り飯が三つと、木の箱に詰めた押し寿司が入っていた。
酢の香りがふっと立ちのぼる。
握り飯をひと口かじった。
塩の効いた米。
真ん中に漬けた青菜。
ぼくはしばらく動けなかった。
「……先生? お口に合いませんでした?」
「いえ。……おいしいです。すごく」
三十五年、食べてきた味だった。
もう二度と食べられないと思っていた味だった。
この世界の遠い東の国にも米を握る人たちがいたのだ。
「お母さんにありがとうございますと伝えてください。それからゲンジさんにも」
背中で助手くんがそわそわと揺れていた。
「……あとでちゃんと神様に聞いてからだよ」
◆◆◆
その頃から下町で妙な挨拶が流行りはじめた。
すれ違いざまに片手を軽く上げて指を一本ずつ、波打つようにくねらせる。
にょろにょろ、と。
最初に見たのは洗濯場の女性たちだった。
それから人足たち。
冒険者たち。
酒場のお姉さんたち。
皆ぼくの姿を見かけるとにこにこしながら、指をにょろにょろさせてくる。
ぼくは首をかしげた。
それから思い当たった。
洗濯場の女性たちに手首の腱鞘炎の予防にと、指を一本ずつ動かす体操を教えたのだ。
指先から順番に波打つように。
「ああ、ちゃんと続けてくれてるんだなあ」
ぼくは嬉しくなって、指をにょろにょろさせて返した。
皆なぜか、ものすごく嬉しそうな顔をした。
◆◆◆
ひと月に一度の、庵への帰り道。
大岩壁の祠でぼくはいつものように苔を払い、供物を並べた。
今回はゴンサロさんの南の果物と、サヨさんの餅菓子も持ってきている。
「街のほうの神棚、すごいことになってますよ。お酒も果物も毎日届くんです」
手を合わせる。
隣でイネスさんも手を合わせていた。
右手と左手をきちんと揃えて。
長いこと、目を閉じていた。
「……イネスさん、何をお願いしたんですか」
イネスさんは目を開けて少しだけ考えた。
「お願いはしていません」
それから小さな石像の、まんまるの単眼を見つめた。
「ありがとうございます、と。それだけです。この右手と、それから――」
言いかけてイネスさんは口をつぐんだ。
そしてぼくのほうは見ずにもう一度、丁寧に頭を下げた。
祠の奥で石像の単眼が陽を受けてほんのりと緑に光った。
◆◆◆
その夜、庵の寝台でぼくはいつもの実験をした。
分体をひとつふたつ、みっつ。
切り離して別々に動かしてみる。
みっつまでなら、なんとか同時に操れる。
それ以上は頭がこんがらがる。
「……手分けするにはまだ手が足りないな」
背中で助手くんがくすりと笑うように揺れた。
◆◆◆
『秘書は白膠木の信者になった』
『信者が40人を超えた』
【今日の「手」】手を合わせる:両手のひらを合わせて拝むこと。心から頼むこと。勝負をすることも言います。
【治療家メモ】骨折した骨がずれたまま固まってしまうことを「変形治癒」と言います。ゴンサロさんの膝がそれでした。
スイランさんの握り飯と、下町に広がる妙な挨拶。そして、秘書は信者になりました。
「翡翠亭に行きたい」と思っていただけたら、【★評価】で手を合わせていただけると嬉しいです。




