第14話 上手の手から水が漏れる
夜の実験は少しずつ成果を上げていた。
切り離した分体が動いていられる時間は、最初は五分だった。
それが十分になり、四半刻になり、今では一刻近くもつようになった。
ただし、長く動けるようになると、別の問題が出てくる。
分体が勝手にどこかへ行こうとするのだ。
◆◆◆
ぼくは今、ロドリゴさんの屋敷の離れに住まわせてもらっている。
施術所の倉庫では寝床が硬かろうと、ロドリゴさんが譲らなかったのだ。
その夜も離れの寝台の上で実験をしていた。
ぷつん。
切り離した先端が布団の上でぴちぴちと跳ねる。
いつもなら、そのまま観察して頃合いを見て指を鳴らす。
――はずだった。
昼間の施術で疲れていたのだろう。
分体を眺めているうちに、ぼくはうとうとと眠ってしまった。
◆◆◆
目が覚めたのは母屋のほうから聞こえた悲鳴のせいだった。
「ひいいいいっ! な、何か! 何かいるぅっ!」
がしゃーん! がらがらがら! どんがらがっしゃーん!
鍋や皿が盛大に落ちる音。
布団の上を見る。
分体がいない。
「……しまった」
寝間着のまま、母屋の厨房へ走った。
厨房では年配の家令――アルベルトさんが、箒を振りかざして震えていた。
床にはひっくり返った鍋と割れた皿と、散らばった芋。
そして食料棚の上で黒緑色の小さな何かが、干し肉をくわえてぴちぴちと跳ねていた。
「イ、イッテツ様! お下がりください! ぬめっとした、黒い、何かが……!」
分体だった。
どうやら、腹が減っていたらしい。
そういえば、本体の助手くんも最近は子どもに飴をもらうのが楽しみになっていた。
「あ、ああ……それは、たぶん、その……」
アルベルトさんが箒を振り下ろした。
ばしっ!
分体はひらりと身をかわした。
干し肉をくわえたまま床に飛び降り、ぬるりと滑って、ぼくの足元へ一直線に向かってくる。
ぼくは寝間着の裾をさっと広げた。
しゅるん。
分体は裾の中に飛び込み、背中を這い上がって、本体に吸い込まれていった。
「……」
「……」
アルベルトさんが箒を構えたまま、ぼくを見ていた。
「……イッテツ様。今、何かがイッテツ様の裾に」
「ネズミですね」
「ネズミ」
「大きめの」
「……黒緑色の、ぬめっとした、ネズミでございますか」
「この辺りでは珍しくないのでは」
アルベルトさんは何も言わなかった。
言わなかったけれど、目がまったく納得していなかった。
翌朝、厨房の食料棚には真新しい鼠取りが三つ並んでいた。
それからなぜか離れへ続く廊下にもひとつ。
◆◆◆
その日の昼。
施術所のある倉庫でベニートさんが荷馬車に麦の袋を積んでいた。
ぼくは施術の合間に裏手で薬草を干していた。
背中がもぞりと動いた。
嫌な予感がした。
昨夜、うたた寝をしたせいで分体を戻しきれていなかったのかもしれない。
ぷつん、と、どこかで小さな音がした。
視界の端を黒緑色のものが麦の袋の山へ向かって、ぴょこぴょこと跳ねていった。
「……あっ、ちょ」
分体は麦の袋の隙間に潜り込んだ。
袋がごそごそと揺れる。
「ん? なんだ?」
ベニートさんが袋に手をかけた。
まずい。
ぼくが声を出すより早く、すっと前に出た人がいた。
帳面を抱えた、イネスさんだった。
「ネズミです」
イネスさんは表情ひとつ変えずに言った。
「ネズミ?」
「はい。大きめの」
ごそごそごそっ。
ぴょこん。
袋の上に分体が顔を出した。
黒緑色でぬめっとしていて吸盤がついていた。
ベニートさんがそれをじっと見た。
「……でかいネズミだな」
「はい。この倉庫のネズミは、よく育ちますので」
イネスさんがさりげなく帳面を広げて、ベニートさんの視界を塞いだ。
その隙にぼくは袋の山に駆け寄って、分体をすくい上げ、シャツの中に押し込んだ。
ベニートさんはしばらく首をかしげていた。
それから「まあ、馬が怯えなきゃ何でもいいわい」と言って、作業に戻っていった。
◆◆◆
施術所の奥でイネスさんがぼくの前に立った。
「イッテツ様」
「……はい」
「お気をつけください。漏れておりますよ」
上手の手から水が漏れる。
どんなに上手な人でも、うっかりすることはある、という意味の言葉だ。
イネスさんはたぶん、その言葉を知らない。
でも言っていることは同じだった。
「申し訳ない。……助かりました」
「会頭の右腕ですので」
イネスさんはほんの少しだけ口の端を上げた。
それから帳面に何かを書き込んだ。
覗き込むと、『倉庫・ネズミ対策(大きめ)』とあった。
◆◆◆
その夜、離れでぼくは助手くんと向き合った。
「いいかい。分体を出すときはちゃんと戻ってくるように。勝手に食べ物を探しに行かない」
助手くんがしゅんと萎れた。
それからふと気づいた。
昼間、倉庫で分体を戻したとき。
背中に吸い込まれた瞬間に何かが頭の中に流れ込んできたのだ。
麦の袋の暗がり。
ベニートさんの皺だらけの手。
イネスさんの帳面の端。
分体が見てきたものだった。
666号室で神様に手を当てたときと、同じ感覚だった。
「……分体は見たものを持って帰ってこられるのか」
助手くんがぴん、と立ち上がった。
そう、とでも言うように。
ためしに小さな分体をひとつ切り離して、窓の外へ放ってみた。
一刻ほどして、戻ってきた分体を吸い込む。
頭の中に夜の街が映った。
屋根の上。
路地の灯り。
酒場の窓から漏れる笑い声。
それから。
施術所の、看板の前。
白い法衣を着た男が二人、闇の中に立って、『癒し手』の看板をじっと見上げていた。
「……」
ぼくはしばらく黙って、天井を見ていた。
背中で助手くんがぴたりと動きを止めていた。
◆◆◆
『ロドリゴ邸の家令は白膠木を警戒した』
【今日の「手」】上手の手から水が漏れる:どんな名人でも、ときには失敗することがある、という意味です。
【治療家メモ】うたた寝は首を痛めやすい姿勢になりがちです。「寝違え」の多くは、首を変な角度にしたまま長く眠ったことが原因です。
一徹、うたた寝で分体を逃がすの回。名人でも水は漏れます。
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