第13話 濡れ手で粟
施術所の客層は時間帯によって変わる。
朝いちばんは荷揚げ場へ向かう前の人足たち。
昼過ぎからはダンジョン帰りの冒険者。
夕方は仕事を終えた職人や、買い物ついでの奥さんたち。
そしてここ半月ほどで増えたのが午前中の客だった。
化粧を落としたばかりの、少し疲れた顔。
夜通し立ちっぱなしでむくんだ足。
酒の匂いの残る、かすれた声。
酒場や裏通りの店で夜のお勤めを終えた女性たちだ。
年のころは二十歳を過ぎたばかりの子から、三十路の姉さん格まで。
「先生、足がもう棒でさあ」
「腰、腰。腰が死んでる」
「喉がね、がらがらなの。今夜も歌わなきゃいけないのに」
皆、遠慮がちに布をくぐってきて診てもらうとぱっと顔を明るくして帰っていく。
ふわんと魔法陣が浮かぶときゃあきゃあと手を叩いて喜ぶ。
賽銭箱にも律儀に銅貨を入れていく。
施術所の空気が午前中だけ、少し華やかになった。
◆◆◆
ある日の夕方、酒場の女将さんがいつもの手首の手入れのあとでなかなか帰らなかった。
待合の椅子に腰かけたまま、前掛けの端をいじっている。
歯切れのいいこの人にしては、珍しい。
「……先生はさ」
「はい」
「その、なんだい。体をひさいでる連中になんか思うところはあるかい?」
「ひさぐ……?」
一瞬、何のことか分からなかった。
それから思い当たった。
「ああ、娼館のお姉さんたちのことですか? いえいえ。必要な存在ですし、必要なお仕事だと思いますよ?」
女将さんがきょとんとした顔をした。
「……本気で言ってるのかい」
「本気ですよ。前にいた土地でもそういうお仕事の方を診たことはあります。腰を痛めて足がむくんで手が荒れて。体の悩みは皆さんと何も変わりません。……彼女たちが何か?」
女将さんは長いこと黙っていた。
それからぽつりと話しはじめた。
午前中に来ている子たちのなかにうちの店の子もいる。
娼館の子もいる。
皆、ここに来られて喜んでいる。
けれど来られない子もいるのだ、と。
「教会はね、ああいう子らを診ないのさ。アウレサリア様の恩寵は、穢れた手には与えられないとかなんとか。……昔の教えにはそんなこと書いてなかったってうちの婆さんは言ってたけどね」
それに金貨五枚からの治癒など、彼女たちに払えるはずもない。
「昼間の表通りを歩けば、石を投げられる子もいる。熱を出しても腹が痛くても部屋で寝てるしかない。この前もひとり咳が止まらなくなって……」
女将さんはそこで言葉を切った。
「先生。ここまで来られる子は、来させる。でも来られない子のところに……行ってやっちゃ、もらえないかね」
ぼくはすぐに頷いた。
「往診ですね。もちろん、行きますよ」
前の世界でも週に三度は往診に出ていた。
手が届くなら、ぼくのほうから行けばいい。
◆◆◆
娼館は外周の裏通りの奥にあった。
夕暮れどきの、まだ店が開く前。
酒場の女将さんに連れられて裏口から入ると出迎えたのは背の高い、四十がらみの女性だった。
黒髪をきっちりと結い上げ、背筋がまっすぐに伸びている。
「あたしがここの主人のヴィオレッタだよ。……あんたが噂の癒し手さまかい」
鋭い目がぼくを頭のてっぺんからつま先まで値踏みした。
「ヌルデです。イッテツ・ヌルデ。往診に来ました」
「お布施を巻き上げに来たんじゃないのかい。教会の連中みたいに」
「銅貨数枚です。払えない子の分は皆さんのお賽銭から出しますので」
ヴィオレッタさんの眉が、ぴくりと動いた。
それからふっと肩の力を抜いた。
「……リリアから聞いてた通りだね。ついておいで」
リリア、というのは酒場の女将さんの名前らしい。
初めて知った。
◆◆◆
奥の部屋には何人かの女性が待っていた。
皆、成人した大人の女性たちだ。
ひとり目は咳が止まらない子だった。
胸に手を当てると、ぜいぜいと嫌な音がする。
肺に熱がこもっている。
背中の肺兪と腕の孔最にポーションをひと垂らし塗った鍼を打つ。
温灸。
ふわん。
「――な、何だい今のは!? 魔法陣!?」
ヴィオレッタさんが、腰を浮かせた。
「いや、ぼくにもわからんです」
咳がすうっと引いていった。
ひとり目の子は何度も深呼吸をして信じられないという顔で胸をさすった。
ふたり目は冷えからくる腹の痛み。
三人目は、高い靴での外反母趾。
四人目は、洗い物で荒れて、ひび割れた手。
ふわん。
「今の――」
「わからんです」
ふわん。
「なん――」
「わからんです」
問題は四人目の手だった。
鍼と温灸でひび割れは塞がった。
けれど彼女たちは毎日、冷たい水で洗い物をする。
また、すぐに荒れてしまうだろう。
「……塗り薬があれば、いいんですけど」
ぼくが呟くと背中で助手くんがもぞりと動いた。
◆◆◆
その夜、施術所に帰ってから、助手くんと相談した。
ポーションはさらさらしていて、手に塗ってもすぐに乾いてしまう。
もっと、肌に留まるものがいい。
「助手くん。ポーションをもっと、こう……とろっとさせられないか?」
助手くんは先端をくるりと回して考えるような仕草をした。
それから薬草の束に手を――いや、先端を伸ばした。
にっちゅ。
にっちゅにっちゅにっちゅにっちゅ。
いつもより、長い。
ぐにゅぐにゅぐにゅ……ねりねりねりねり……もったぁ……。
――ポキューン! ……ポヨヨン。
「最後の音、初めて聞いたな」
助手くんが瓶の口に先端を差し込むと、出てきたのはいつもの緑の液体ではなかった。
どぅるん。
……でろぉ。
半透明の、ぷるぷるとした塊だった。
指ですくうと、ぬるりと伸びて、とろりと垂れる。
手の甲に塗り広げるとすうっと肌に馴染んでしっとりと潤った。
――ピローン。
【鑑定】 治癒軟膏(仮):手荒れ・あかぎれ・肌荒れ・軽い火傷に。保湿効果、極めて大。
「……ぬるぬるの、ドロドロだな」
それがそのまま名前になった。
◆◆◆
翌日、娼館に小さな壺を届けると大騒ぎになった。
「なにこれ、すっごい! 手がつるつる!」
「ねえ、顔に塗ってもいい!? ……うわ、肌がもちもち!」
「先生、これなんて名前!?」
「ぬるぬるのドロドロです」
「ヌルデ先生の、ぬるぬるのドロドロ!」
誰かが言って、皆が笑った。
「ヌルデ? ぬるぬるの?」
「ヌルデの、ぬるぬる……ヌルヌル先生だ!」
ぼくの苗字はこうしていじられる運命にあるらしい。
それからというもの往診に行くたびに出迎えの声がこうなった。
「ヌルヌル先生! 今日も来てくれたんだあ!」
「ヌルデ、ですよ。呼びにくければ、イッテツ先生で」
「わかったよ、ヌルヌル先生」
わかっていない。
けれど最初に会ったときの遠慮がちな顔はもうどこにもなかった。
……まあ、いいか。
往診にはたいてい、イネスさんが帳面を抱えてついてきてくれた。
ある日、施術を終えて帰ろうとしたところでお姉さんのひとりがぼくの腕にするりと絡みついてきた。
「ねえ、ヌルヌル先生ぇ。たまにはゆっくりしていきなよぉ」
反対側の腕にももうひとり。
肩にしなだれかかってくる。
ぼくはその人の手首をそっと取った。
「……肩が上がってますね。寝違えです。診ましょうか」
「もう! 先生ったら!」
お姉さんはぷうっと頬を膨らませた。
隣のお姉さんがけらけらと笑った。
「無駄無駄。この人、ほんとに患者としか見てないんだから」
結局、その場で寝違えを診てふわん、と魔法陣を浮かべて帰ることになった。
戸口で帳面を抱えて待っていたイネスさんが、なぜか、少しだけ口元を緩めていた。
「……何か、いいことでもありました?」
「いいえ。何も」
イネスさんはすたすたと先に歩き出した。
足取りがいつもより少しだけ軽かった。
◆◆◆
噂はあっという間に広がった。
娼館から酒場へ。
酒場から料亭へ。
料亭から洗濯場へ。
洗濯女たちから職人の奥さんたちへ。
手荒れに悩む女性たちが、施術所に壺を求めて列を作るようになった。
そうなると、黙っていない人がいる。
「イッテツ殿! あのぬるぬるのドロドロ、当商会で扱わせていただけませんか!」
ロドリゴさんが肩こりの定期枠でもないのに息を切らして飛び込んできた。
材料は薬草とポーションの搾りかす。
助手くんがにっちゅにっちゅするだけ。
原価はほとんどかからない。
それが飛ぶように売れる。
「……濡れ手で粟、ですな」
ロドリゴさんはぬるぬるのドロドロで手をつやつやにしながら、ほくほく顔で言った。
「売り上げの一部は、娼館の子たちの往診代と、薬代に回してください」
ぼくがそう言うと、ロドリゴさんは商人の顔のまま、深く頷いた。
「もちろんですとも。あの子たちは最初のお得意様ですからな」
その夜、ヴィオレッタさんから短い手紙が届いた。
『咳の子、今日は笑ってたよ。ありがとね、先生』
背中で助手くんがぽよん、と小さく跳ねた。
寝る前の実験は今夜も続けた。
左の前腕の、骨と骨の間へ。
細く、細く。
筋肉の繊維に沿って、少しだけ。
何のための実験なのかは、まだ、ぼくにしか分からない。
◆◆◆
『ぬるぬるのドロドロが旧都で噂になった』
『娼館の女主人は白膠木の信者になった』
『信者が12人になった』
【今日の「手」】濡れ手で粟:濡れた手で粟をつかむと、粒がたくさんくっついてくる。苦労せずに多くの利益を得ることのたとえです。
【治療家メモ】傷は乾かすより、適度に潤いを保ったほうがきれいに治る、という考え方があります(湿潤療法)。ぬるぬるのドロドロは、その究極の形かもしれません。
ぬるぬるのドロドロ、誕生の回です。濡れ手で粟なのは、たぶんロドリゴさんです。
「ドロドロ欲しい」と思った方は、【★★★★★(評価)】をどうぞ。助手くんがにっちゅにっちゅします。




