第12話 手塩にかける
仮の施術所を開いてひと月が過ぎた。
朝は荷揚げ場の前の巨人の置き石を見上げる広場でレィディオ体操666をやる。
最初はぼくひとりだったのにいつの間にか、腰を治した人足たちが並ぶようになった。
今では二十人を超えている。
号令はぎっくり腰の大男――ブルーノさんの役目になった。
昼は患者さんを診る。
夕方は待合で酒場の女将さんの愚痴を聞く。
夜はイネスさんと帳面をつける。
ひと月に一度は荷馬車で庵へ帰る。
背中の助手くんはおとなしく丸まっている。
たまに待合の子どもに飴をもらって、こっそり襟元から受け取っている。
ぼくはすっかり下町の治療家になっていた。
――これだ。
これこそがぼくの望んだ、穏やかな暮らしだ。
◆◆◆
「イッテツさん、いるか!」
夕方、布をはね上げて入ってきたのは、『草原の渡り鳥』の四人だった。
ダンジョン帰りの彼らは、今ではすっかり常連だ。
仕事を終えると、まずここへ寄る。
今日はその後ろに見慣れない若い冒険者が仲間に肩を借りて立っていた。
腕に巻いた布が赤く染まっている。
「ダンジョンで蟷螂みたいな魔獣にやられたんだ。ギルドの酒場で唸ってたから、連れてきた」
ガレスさんが親指で若者を示した。
布をほどくと、前腕がざっくりと裂けていた。
傷口には泥と草の切れ端がこびりついている。
「まずは洗いましょう」
ぬるま湯で傷の奥の泥を丁寧に洗い流す。
御留流の戦傷の手当てでは、何よりもまず傷を清めろと教わった。
汚れたまま塞げば、中で膿む。
それから棚から上級ポーションの瓶を取り出した。
若い冒険者の顔がさっと青ざめた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。そ、それ、上級ポーションだろ!? ギルドで噂になってる、家一軒分の薬を俺に!? 払えねえよ、そんなの!」
「一本まるごとなんて、使いませんよ」
ぼくは瓶を傾けて手のひらにほんのひと垂らしだけ落とした。
「これで十分です」
「……は?」
「上級ポーションはそのまま飲めば骨もつながるし切り傷も塞がる。でもぼくのやり方ならこんなに要らないんです」
ひと垂らしを手のひらで温めて傷のまわりにそっと塗り広げる。
揉み込むように指の腹でゆっくりと。
手塩にかける、という言葉がある。
手に塩をつけて握るように手ずから大事に育てる、という意味だ。
ぼくの場合は塩の代わりにポーションだけれど。
「それからこれ」
ミスリルの鍼の先を瓶の口にちょんとつける。
それを傷の両側の経穴に打つ。
「最後にこれ」
ポーションを作ったあとの搾りかすで作ったもぐさを、鍼の頭に載せて火を点ける。
ふわん。
腕の上に緑の魔法陣が浮かんだ。
「ま、魔法陣!? 今のはなんだ!?」
「ぼくにもわからんです」
渡り鳥の四人が、背後で「出た」と小声で言い合っていた。
魔法陣が消えると裂けた傷口はきれいな桃色の線になっていた。
若者は何度も腕を曲げ伸ばしして、ぽかんと口を開けていた。
「前の世界でもね、湿布は半分に切って使ってたんですよ。もったいないから」
若者には何のことか分からなかっただろう。
受付の机でイネスさんが帳面をめくった。
「イッテツ様のやり方ですと、上級ポーション一本で、およそ五十人分になります」
「――五十人」
待合の椅子から低い声がした。
見るといつの間にか、ロドリゴさんが座っていた。
商人の目がきらりと光っていた。
◆◆◆
ロドリゴさんはここのところ、二日に一度は顔を出す。
「いやあ、イッテツ殿。肩が凝りましてな」
それが決まり文句だった。
最初の何度かは本当に様子を見に来ていたのだと思う。
仮の施術所の繁盛ぶりを眺めて患者の数を数えて満足そうに帰っていった。
ところがそのうち、待合の椅子に座ったまま、帰らなくなった。
ぼくが他の患者さんの肩にポーションを揉み込んでいるのを、じっと見ている。
魔法陣が浮かぶたびに身を乗り出す。
患者さんが「はああ……効くぅ……」と蕩けた声を漏らすたびに、羨ましそうに喉を鳴らす。
「いやあ、イッテツ殿。……肩が凝りましてな」
「会頭、昨日も凝っていらっしゃいましたね」
イネスさんが帳面から顔も上げずに言った。
「凝りやすい体質なのだ」
「一昨日もでした」
「商人とは肩の凝る仕事なのだ」
「その前の日もです」
「……」
結局、ロドリゴさんはちゃんと順番を待って、ちゃんと施術を受けて、ちゃんと銅貨を払って、ちゃんと賽銭箱にも一枚入れて帰っていく。
翌週、受付の帳面に新しい欄が増えていた。
『会頭・定期枠(二日に一度)』
「……イネスさん、これは」
「どうせいらっしゃいますので」
イネスさんは表情を変えずに言った。
◆◆◆
渡り鳥の面々も何かと理由をつけて顔を出す。
ミレイユさんは弓を引く肩の手入れに。
ノーラさんは魔法を使いすぎた日の頭痛に。
ガレスさんは「なんとなく」。
たぶん、腹が減っているだけだ。
待合に酒場の女将さんの差し入れが置いてあるのを知っている。
ティオさんは来るたびに神棚の賽銭箱に銅貨を入れていく。
ちゃりん、ちゃりん、ちゃりん、ちゃりん、ちゃりん。
「……ティオさん、いつも多めですね」
「い、いいだろ別に! 信心深いんだよ、俺は!」
ティオさんはなぜか目を合わせようとしなかった。
ギルドの酒場で口を滑らせた件をまだ気にしているらしい。
背中で助手くんがくすくす笑うように小さく揺れた。
◆◆◆
その夜。
最後の患者さんを送り出して看板を下ろしたあと。
「イネスさん。右手、出してください」
受付で帳面をつけていたイネスさんが、ペンを止めた。
「……今日もですか」
「治ったばかりの神経は、使い方を思い出すのに時間がかかるんです。リハビリですよ」
イネスさんは少しためらってから右手を差し出した。
手のひらにポーションをひと垂らし。
親指の付け根から一本ずつ指を揉みほぐしていく。
手首を回し指を開かせ、閉じさせる。
もう一度、開かせる。
ふわんと小さな魔法陣が彼女の手の甲に浮かんで消えた。
「……今日は右手で帳面をつけました」
ぽつりと、イネスさんが言った。
「ずっと、左で書いていたんです。剣もペンも。右手はずっと、ただ付いているだけのものでした」
彼女はぼくの手の中の自分の右手を見下ろしていた。
「字がまだ少し震えます」
「すぐに震えなくなりますよ」
「……はい」
イネスさんはそれきり黙っていた。
けれど帳面を閉じて帰るとき彼女はいつもより少しだけ丁寧に神棚に手を合わせていった。
右手と、左手で。
◆◆◆
ひとりになった施術所でぼくはもぐさを揉みながら、天井を見上げた。
朝は体操、昼は施術、夕方は女将さんの愚痴、夜は帳面。
患者さんは毎日来て皆、少しずつ元気になって帰っていく。
平和だなあ、と思った。
こういう日がずっと続けばいい。
背中で助手くんがなぜか小さく身じろぎした。
ぼくはもぐさを置いて助手くんの先端を指でつまんだ。
ぷつん、と小さく切り離す。
床に落ちた先っぽが、ぴちぴちと跳ねた。
しばらく見ていると、だんだん動きが鈍くなっていく。
指を鳴らすとするすると這い戻ってきて、背中に吸い込まれた。
「……五分、か。まだ短いな」
◆◆◆
『『草原の渡り鳥』は白膠木の常連になった』
【今日の「手」】手塩にかける:自分の手で、心をこめて世話をして育てること。
【治療家メモ】一度切れてつながった神経は、すぐには元どおりに働きません。神経が伸びるのは一日に1ミリほどと言われ、使い方を思い出すのにも時間がかかります。
イネスさんの右手は、毎日少しずつ、手塩にかけて。
二人の距離も少しずつ。【ブックマーク】で、その変化を見守っていただけたら嬉しいです。




