9.変わったのはあの子じゃなく
——翌日の午後になった。
私は伯爵夫人のお部屋の前に立っていた。
昨日から、何度も頭の中で考えた。
アリシア様のどこからお話しすればいいのだろう…?
努力家なところや周囲をよく見ていらっしゃるところ、不器用だけれどお優しいところ?それとも弟君を心配しているのに、それを本人にはなかなか伝えられないところ?
もちろん、お美しいところも外せない。
銀色の髪は光の加減によって少し色が違って見えるし、紫色の瞳も——
(……いけない)
まだ何も聞かれていない。
私は一度深呼吸をしてから、扉を叩いた。
「入りなさい」
「失礼いたします」
部屋へ入ると、伯爵夫人は窓辺のテーブルでお茶を飲んでいた。
「こちらへどうぞ」
「はい」
勧められた椅子へ腰掛ける。
使用人である私が伯爵夫人と向かい合って座るのは、なんとも落ち着かない。けれど今日の話題は、アリシア様だ。それだけで少し楽しみでもあった。
伯爵夫人はカップを置くと、私を見た。
「昨日のことなのだけれど」
「はい」
「あなた、アリシア付きになったことを随分喜んでいたでしょう?」
「……はい」
「そんなにあの子のことが好きなの?」
「はい」
即答してしまった。
伯爵夫人が目を瞬く。
「……そう」
「申し訳ございません」
「いいえ。謝るようなことではないわ」
少し面白そうに笑っているように見える。
「それで聞いてみたくなったの」
伯爵夫人は頬杖をつく。
「あなたは、アリシアのどこがそんなに好きなの?」
来た!!
私は背筋を伸ばした。
「どこからお話しすればよろしいでしょうか」
「……え?」
「大変申し訳ございません。少々多いものですから」
伯爵夫人がしばらく私を見つめ、そしてくすりと笑った。
「では、あなたが一番好きなところから聞こうかしら」
一番。
なんとも難しい質問だった。
私は真剣に考える。
お美しい。
努力家。
お優しい。
不器用。
どれも捨て難いが…
「……誰も見ていなくても、なさるところでしょうか」
伯爵夫人の表情が少し変わった。
「誰も見ていなくても?」
「はい」
私はこれまで見てきたことを、一つずつ話した。
朝早くから一人で勉強していることや弟君が熱を出したと聞けば、何度も様子を確認し、彼の好物のリンゴのコンポートを厨房へ頼んでいたこと。
新人の侍女が失敗した時には、叱責される前にさりげなく庇っていたこと。
庭師や使用人たちの様子を、よく見ていること。
昨日の植木鉢のことも。
伯爵夫人は途中で口を挟まずただ静かに聞いていた。
「アリシア様は、お優しい方です」
最後にそう言うと、伯爵夫人は少しだけ目を伏せた。
「……優しい」
「はい」
「でも、あの子は一度も自分から話さないでしょう?」
「はい」
私は頷いた。
「ですから、素晴らしいのです」
伯爵夫人が顔を上げる。
「……そこが?」
「はい」
褒められるためでも、誰かに認められるためでもなく、必要だと思ったからする。ただ心配だから様子を見るし、困っている人がいるから声を掛ける…。
「誰も知らなくても、アリシア様にとっては関係ないのだと思います」
「……そう」
伯爵夫人は静かに呟いた。
しばらく沈黙が落ちるがやがて、伯爵夫人が小さく笑った。
「昔から、そういうところはあったわね」
私は思わず身を乗り出しかけた。
「昔から、でございますか?」
「ええ」
伯爵夫人は懐かしそうに目を細める。
「まだ小さかった頃、庭で怪我をした子犬を見つけたことがあったの」
「子犬を」
「大騒ぎして私たちを呼ぶのかと思ったら、自分のハンカチで足を包んで、使用人のところへ連れて行ったのよ」
私は息を呑んだ。
「そのようなことが……」
「ええ。でもあとで私が褒めても、『血が出ていたから』としか言わなかったわ」
「……アリシア様」
なんということだろう…。
知らなかった、幼少期のアリシア様。
小さなアリシア様が、怪我をした子犬を抱えて、ご自分のハンカチを…。
(……尊い)
「メアリ?」
「はい」
「ものすごく嬉しそうだけれど」
「……申し訳ございません」
「だから謝らなくていいのよ」
伯爵夫人が笑う。
私はどうにか気持ちを落ち着かせた。
しかしこれは、必ず覚えておかなければならない。
日記に書いてもいいだろうか?
いや、伯爵夫人から直接伺った話だ。
勝手に書くのはどうなのだろう?
うーん、あとで許可を…
「本当に好きなのね」
伯爵夫人の声に、思考が戻る。
「はい」
今度も素直に答えた。
伯爵夫人はしばらく私を見たあと、窓の外へ目を向けた。
「私もね」
「はい」
「昔は、あの子のそういうところを知っていたはずなの」
その声が、少しだけ寂しくなる。
「でも大きくなるにつれて、何を考えているのか分からなくなってしまって」
返事が短い。
愛想がない。
聞けば「大丈夫です」と言う。
何か困っていることはないかと尋ねても、「ありません」と答える。
「そのうち私も、あの子は一人で何でもできる子なのだと思うようになっていたわ」
私は黙って聞いていた。
「昨日、あなたたちを見ていて思ったの」
伯爵夫人は自分のカップを見つめる。
「変わったのは、あの子ではなかったのかもしれないわね」
「……奥様」
「私はいつからか、アリシアが何をしているかではなく、私に何を話したのかばかり見ていたのかもしれないわ」
静かな声だった。
けれど、不思議と悲しいだけには聞こえなかった。
伯爵夫人は顔を上げる。
「ありがとう、メアリ」
「え?」
「久しぶりに、娘のことをたくさん聞いたわ」
「私はただ、アリシア様の素晴らしいところをお話ししただけでございます」
「ふふ」
なぜか笑われた。
「そうね」
伯爵夫人は楽しそうに頷いた。
「あなたは本当に、それだけなのね」
「?」
意味が分からず首を傾げる。
伯爵夫人はそれ以上説明しなかった。
「もう下がっていいわ」
「かしこまりました」
私は立ち上がり、頭を下げる。
「ああ、そうだわ。メアリ」
「はい」
呼び止められて振り返る。
「また何か見つけたら、今度私にも教えてちょうだい」
私は目を見開いた。
「よろしいのですか?」
「ええ」
伯爵夫人は微笑む。
「私も、もう少しあの子を見てみたくなったから」
胸の奥が、ぱっと明るくなった。
「はい!」
思ったより大きな声が出た。
「……失礼いたしました」
伯爵夫人が吹き出す。
「いいのよ」
私はもう一度頭を下げ、部屋を出た。
扉を閉める、そして数歩歩いて立ち止まった。
(……幼いアリシア様が)
(怪我をした子犬を)
(ご自分のハンカチで……)
私は両手で口元を押さえた。
(推しが尊すぎる…)
日記、今日は絶対に長くなる。




