13.たまたまよ。
——翌日の夕方。
厨房では、いつものように仕事を終えた者たちが少しずつ集まり始めていた。
私は棚から『本日のアリシア様2』を取り出し、今日増えた頁を確認していた。
『午後、窓辺で本を読んでおられた際、日差しが眩しかったのか少しだけ目を細めていた。——アンナ』
『昼食の後、廊下ですれ違った使用人に「ご苦労さま」と声を掛けてくださった。——リナ』
『今日はパンをいつもより半分多く召し上がった。——料理長』
「……素晴らしいですね」
「また言ってる」
エマが笑ったその時だった。
厨房の入口から声がする。
「あら」
全員が振り返った。
「奥様」
伯爵夫人が立っていた。
その手には、綺麗な箱が一つ。
「どうされたのですか?」
エマが尋ねると、伯爵夫人は少しだけ目を瞬いた。
「たまたま通りかかったのよ」
「……左様でございますか」
「ええ」
そして持っていた箱を差し出す。
「それと、頂き物のお菓子があったの。私たちだけでは食べきれないから、みんなで食べましょう?」
「まあ!」
「ありがとうございます!」
箱を開けると、中には小さな焼き菓子が綺麗に並んでいた。
「美味しそう」
「仕事も終わりでしょう?さ、遠慮しないで」
「ありがとうございます」
料理長が皿を用意し、エマたちが嬉しそうに菓子を取り分け始める。
伯爵夫人はその様子を眺めながら、ふと棚へ視線を向けて言った。
「……ところで」
「はい」
「昨日の、あのノート」
エマがにやりと笑う。
「増えておりますよ」
「そう」
声は平静だったけれど、ほんの少しだけ返事が早かった気がした。
エマは棚から『本日のアリシア様2』を取り出し、伯爵夫人へ差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
伯爵夫人は椅子へ腰掛け、ノートを開く。
一頁。
また一頁。
時折、ふっと笑う。
私はその様子を少し離れたところから見ていた。
(奥様も、楽しみにしてくださっているのでしょうか)
そう思うと、なんだか嬉しい。
やがて伯爵夫人の手が止まった。
『本日、アリシア様は朝から少しご機嫌が悪そうだった。お声を掛けてもいつもより返事が短かった。——リナ』
「……あら」
リナがびくっとする。
「何か間違っておりましたか?」
「いいえ」
伯爵夫人は首を振った。
「たぶん、不機嫌だったわけではないわ」
「そうなのですか?」
「ええ」
伯爵夫人は少し考える。
「アリシアは昔から、考え事をしている時ほど返事が短くなるの」
「……そうだったのですね」
「本人はたぶん気付いていないけれど」
伯爵夫人はペンへ手を伸ばした。
『不機嫌なのではなく、考え事をしている時は返事が短くなる。昔から。——母』
さらさらと書き足す姿に私は思わず身を乗り出した。
(……公式見解)
いけない。
口に出してはいけない。
エマが私の顔を見て、少し笑った。
さらに伯爵夫人は頁をめくる。
『今日、庭で小さな鳥を見つけ、しばらく見上げておられた。——エマ』
「あら」
また手が止まった。
「それも昔からね」
「鳥がお好きなのですか?」
「ええ」
伯爵夫人は懐かしそうに笑う。
「小さい頃は、庭に来る鳥の鳴き声をよく真似していたわ」
「えっ」
エマが目を輝かせる。
「アリシア様が?」
「そうよ」
「鳴き真似を?」
「ええ」
厨房にいる全員の視線が伯爵夫人へ集まった。
私は何も言わなかった。
言わなかったけれど、心の中では大変なことになっていた。
(幼いアリシア様が)
(鳥の鳴き真似を)
(……!)
伯爵夫人はそんな私たちの様子を不思議そうに見ながら、またペンを取る。
『幼い頃は、庭に来る鳥の鳴き声をよく真似していた。今も鳥を見るとよく足を止める。——母』
書き終える。
「これでいいかしら」
「はい!」
エマの返事が妙に元気だった。
伯爵夫人は少し笑う。
「皆、本当に楽しそうね」
「奥様もです」
エマがさらりと言った。
伯爵夫人が目を瞬く。
「あら、私?」
「はい」
一瞬、厨房が静かになった。
伯爵夫人はノートを見る。
それから、焼き菓子を見る。
「……そうかしら」
「はい」
私は小さく頷いた。
伯爵夫人は少しだけ困ったように笑う。
「まあ、いいわ」
そして焼き菓子を一つ手に取った。
「せっかくだもの。私もここでいただこうかしら」
「どうぞ!」
それからしばらく、厨房ではお菓子を食べながら今日のアリシア様について話す時間が続いた。
誰かが今日見たことを話し、誰かが思い出したことを書き、そして時々、伯爵夫人が昔の話を付け足す。
私はその様子を眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
最初は私一人の日記だった。
それが今では、こんなにたくさんの人がアリシア様を見ている。
——そして翌日。
また夕方になると伯爵夫人は厨房の前で足を止めた。
その手には、別の菓子箱があった。
「……奥様?」
エマが声を掛ける。
伯爵夫人は何でもないことのように答えた。
「あら、たまたまよ」
誰も何も言わなかった。
ただ、エマだけが、にやりと笑っていた。




