12.もはや公式参戦
『本日のアリシア様』が始まってから、しばらく経ったある日。ノートは思っていた以上の速さで埋まっていった。
『廊下に落ちていたハンカチを拾い、持ち主を探してくださった。——リナ』
『昼食で苦手な豆を最後まで残していた。でも結局全部召し上がった。——エマ』
『新しく植えた薔薇を見て「綺麗ね」とおっしゃった。——庭師』
『厨房の前を通った時、焼きたてのパンの匂いに一度立ち止まった。——料理長』
そしてもちろん、私も書いている。
『本日、家庭教師の先生から難しい問題を褒められた際、「そう」とだけお答えになったが、その後ほんの少しだけ口元が緩んでいた。嬉しかったのだと思う。——メアリ』
それを読んだエマには、
「メアリちょっと長くない?」
と言われた。でも仕方がない。
伝えたいことが多いのだから。
最初は、誰かに優しくしたことや、気遣ったことが多かった。けれど最近は少し違う。
可愛らしかったこと。
嬉しそうだったこと。
少し困っていたこと。
誰かが見つけたアリシア様なら、何でも書かれるようになっていた。
そして一冊目は、あっという間に最後の頁を迎え、今、厨房の棚には二冊目の『本日のアリシア様』が置かれている。
——そんなある日の夕方。
伯爵夫人は厨房の前を通りかかった。
普段なら、そのまま通り過ぎるところだったが今日は、中から楽しそうな声が聞こえてくる。
「それ、もう書いた?」
「まだよ」
「忘れないうちに書いときなさいよ」
何の話だろう。
伯爵夫人はふと足を止めた。
厨房を覗くと、エマが一冊のノートへ何かを書いている。その隣から別の侍女が覗き込み、料理長まで口を挟んでいた。
「何をしているの?」
「!」
全員が振り返る。
「お、奥様!」
エマが慌てて立ち上がった。
伯爵夫人は少し不思議そうに眉を上げる。
「そんなに驚かなくてもいいでしょう」
「申し訳ございません」
「それで?」
視線が、机の上のノートへ向く。
「これは何?」
エマたちが顔を見合わせる。
別に悪いことをしているわけではない。
けれど、何となく説明しづらい。
やがてエマがおずおずとノートを差し出した。
「……こちらでございます」
伯爵夫人は表紙を見る。
『本日のアリシア様 二冊目』
「……本日の…アリシア様?」
「…はい」
伯爵夫人の眉が少し上がる。
「二冊目?」
「…はい」
「一冊目もあるの?」
「………はい」
エマが棚からもう一冊取り出した。
伯爵夫人は二冊を見比べたあと、一冊目を開いて読み始めた。
最初の頁。
一枚めくる。
もう一枚。
『庭師の帽子が風で飛ばされた時、拾って渡していた。——エマ』
『昨日のスープを「美味しかったわ」とおっしゃった。少しおかわりもされた。——料理長』
『廊下ですれ違った時、誰もいないと思ったのか小さくあくびをしていた。少し可愛かった。——アンナ』
伯爵夫人の口元が、ほんの少し緩む。
さらに頁をめくる。
『本日、庭を歩いておられた際、風で髪が乱れたことに気付かず、そのまましばらくお歩きになっていた。普段きっちりされているので、少し珍しかった。——メアリ』
伯爵夫人が手を止める。
「……これはメアリね、名前を見る前に分かったわ」
エマが吹き出した。
「はい、文章が長いので」
「そうね」
伯爵夫人はくすくす笑いながら、また頁をめくった。
『庭で猫に近づこうとして逃げられ、しばらくその場に立っておられた。たぶん少し悲しそうだった。——エマ』
そこでまた手が止まった。
「……ふふ」
小さな笑い声が漏れる。
エマが恐る恐る顔を上げる。
「奥様?」
「いいえ」
伯爵夫人はもう一度その記述を見る。
「昔からなのよ」
「え?」
「アリシア、動物には好かれたいのに、なぜかよく逃げられるの」
「そうなのですか?」
「ええ」
懐かしそうに笑う。
「小さい頃も、猫を見つけるたびに近づいていたわ。でも急に近づくものだから、いつも逃げられていたの」
エマたちが顔を見合わせる。
「……お可愛い」
誰かが小さく呟いた。
伯爵夫人はまた頁をめくる。
今度は二冊目。
『今日の昼食、苺を最後まで残していた。好物なのだろうか。——リナ』
「あら」
また手が止まる。
「それも昔からよ」
「苺がお好きなのですか?」
「ええ。でも好きなものほど最後まで取っておくの」
料理長が納得したように頷く。
「だからいつも最後まで残っていたのか」
「五歳の頃から変わっていないわ」
「五歳……」
エマが思わず呟く。
伯爵夫人はしばらくノートを見つめた。
そして、
「ペンを借りてもいいかしら」
「はい!」
エマが慌てて差し出すと、伯爵夫人は空いている場所へ、さらさらと文字を書いた。
『幼い頃から、好きなものは最後まで残して食べる。苺は特にそうだった。——母』
少し考えて、もう一つ。
『動物が好き。ただし幼い頃から、なぜかよく逃げられる。逃げられると少し落ち込む。——母』
ペンを置く。
「これでいいかしら」
エマたちはノートを覗き込んだ。
「……はい」
「ありがとうございます」
なぜか皆、少し嬉しそうだった。
伯爵夫人はそんな様子を不思議そうに見てから、もう一度ノートへ目を落とす。
「皆、よく見ているのね」
「はい」
エマが笑う。
「見ようと思うと、色々見つかるんです」
伯爵夫人はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「そう」
そしてノートを閉じ、エマへ返す。
「邪魔したわね」
「いいえ!」
「そろそろ仕事も終わりでしょ?ゆっくりなさい。」
「はい」
「ありがとうございます」
伯爵夫人は厨房をあとにした。
廊下を歩きながら、先ほどの頁を思い出す。
猫に逃げられて、しばらく立っていたアリシア。
苺を最後まで残していたアリシア。
そして、やけに丁寧に娘の一挙一動を書き留めていたメアリ。
伯爵夫人はふっと笑った。
そして、ほんの少しだけ。
明日もあのノートに何か増えているだろうか。
そんなことを思った。




