11.もはや推しサークルでは?
屋敷へ戻ったのは、夕方近くだった。
アリシア様のお供を終え、その日の仕事も一段落した頃、私はいつものように厨房へ顔を出した。
「ただいま戻りました」
「おかえり、メアリ」
エマがこちらを見て笑う。
「今日はどうだった?」
「とても有意義な一日でした」
「……その言い方、絶対何かあったでしょ」
「はい」
思い出すだけで頬が緩みそうになる。
今日のアリシア様も素晴らしかった。
けれど、それを話し始める前に、エマがにやりと笑った。
「その前にさ」
「はい?」
「ちょっと見てほしいものがあるの」
エマが立ち上がり、厨房の棚へ向かう。
何だろうと思って見ていると、一冊の薄いノートを取り出した。
「はい」
差し出されたそれを私は受け取った。
「……これは?」
「開いてみて」
言われるまま表紙を開き、最初の頁を見ると、
『本日、アリシア様。庭師の帽子が風で飛ばされた時、拾って渡していた。——エマ』
「……!」
『昨日、新入りの侍女が花瓶を落としそうになった時、支えてくださった。——リナ』
さらにその下。
『昨日のスープを「美味しかったわ」とおっしゃった。少しおかわりもされた。——料理長』
「………」
頁をめくる。
『廊下ですれ違った時、眠そうに小さくあくびをしていた。誰もいないと思っていたらしい。少し可愛かった。——アンナ』
「……………!!!」
もう一頁。
『庭で猫に近づこうとして逃げられ、しばらくその場に立っていた。たぶん少し悲しそうだった。——エマ』
「!!!!!!!」
私はゆっくり顔を上げると、エマたちがこちらを見ている。皆、なぜか少し楽しそうだ。
「……これは」
声がうまく出ない。
「私たちが見たアリシア様」
エマが笑った。
「メアリ、喜ぶかなって思って」
「みんなで書いたのよ」
「どう?」
私はもう一度ノートへ視線を落とした。
知らなかった。
私は知らなかった。
庭師の帽子を拾ったことも。
新入りの侍女を助けたことも。
スープをおかわりされたことも。
あくびをされたことも。
猫に逃げられて悲しそうにしていたことも。
私一人では、決して全部を見ることはできない。
当たり前なのに、胸の奥が、いっぱいになった。
「……素晴らしいです」
「出た」
「やっぱり言った」
笑い声が上がる。
私はノートを大切に両手で持った。
「ありがとうございます」
「そんなに?」
「はい」
思わず力が入る。
「私一人では、こんなにたくさんのアリシア様を見ることはできませんでした」
「メアリ……」
「しかも」
頁をめくる。
「眠そうにあくびを……」
「そこ?」
「とても貴重です」
「そうなの?」
「はい」
エマが吹き出す。
「ほんっと好きねえ」
私は否定しなかった。
そしてもう一度、最初から読む。
何度読んでも良い。
どれも知らなかったアリシア様だ。
「ねえ、メアリ」
エマが言う。
「それ、今日だけじゃなくてさ」
私は顔を上げた。
「これからも書いていかない?」
「……!」
「何か見つけた人が、その都度書くの」
「それ良いわね」
別の侍女も頷く。
「私も今日、書き忘れたことあるし」
「俺も料理の反応くらいなら書けるぞ」
料理長まで当然のように加わっている。
私はノートを見つめた。
これからも、私の知らなかったアリシア様が増えていく。
「ぜひ」
即答した。
「でしょうね」
また笑われる。
「じゃあ、ここに置いておこうか」
エマが厨房の棚を指差す。
「誰でも書けるように」
「はい」
「でもさ」
一人の侍女が表紙を見る。
「何も書いてないと、何のノートか分からないわよね」
「確かに」
「名前つける?」
「何がいいかな」
少しの間、みんなで考える。
そしてエマが言った。
「『本日のアリシア様』とか?」
「……」
私はノートを見る。
『本日のアリシア様』
素晴らしい。
「それが良いと思います」
「即決!」
「だって分かりやすいです」
「じゃあ決まりね」
エマが表紙に文字を書く。
『本日のアリシア様』
出来上がった表紙を見て、皆が満足そうに頷いた。
そしてそのノートは、厨房の棚の一角に置かれることになった。
誰かが何かを見つけたら書く。
可愛かったこと。
優しかったこと。
少し不器用だったこと。
嬉しそうだったこと。
ほんの些細なことでも。
私は最後にもう一度ノートを開くと、一頁目から、ゆっくり読む。
胸の奥が温かくなる。
(……幸せです)
これはもう、私だけの日記とは違う。
みんなで見つけたアリシア様を、みんなで残していくもの。
(……もはや、推しサークルでは?)
そして私は、なんとなく思った。
この薄い一冊では、たぶん足りない。




